21:またひとつ
痛いほどの沈黙が、穏やかな昼下がりの空気を凍らせていた。
言葉の衝撃とアーネスト様の威圧で息すらも苦しい。知らず握りしめた手のひらには、じっとりと嫌な汗をかいていた。
硬直した私を見て、やがてアーネスト様はふっと皮肉げな笑みを浮かべると私から離れた。そしてゆっくりと対面の席へと向かい腰掛ける。テーブルに軽く頬杖をついてこちらを見る表情は、私の反応を楽しむかのようだった。
「当然決闘の場を見た者もいたからね。実の父を容赦なく叩きのめして爵位を奪うなんて、血も涙もない異常な子どもだと随分と非難されたよ。魔爵家なんて特に、自分の家から僕を倣うものが出てしまっては困るから言いたい放題さ。いくら地位や財産が魅力的でも、そんないわく付きの相手に近づいて害されるなんて御免だろう? だから賢明な者は、僕の妻になろうだなんて思うわけがないんだ」
近づいて、害される?
その言葉と、実際に近くにいるアーネスト様の印象が異なり過ぎて困惑する。父親の腕を切り飛ばしたと言う過去も。
私は確かに出会ったばかりで、アーネスト様のことをほんの少ししか知らない。でも知っているアーネスト様は、使用人に慕われ、王家に心配され、そして何より私に優しかった。
「殿下の申し出を蹴ってこんな男の妻になろうなんて、君はどうかしている。もっとよく考えないと、後悔して泣くことになるよ」
淡々とそう言われて、ぐっと胸に悲しみが押し寄せた。
アーネスト様は妻になる選択肢を私に示しながら、やはりそんな気は欠片もなかったのだ。鵜呑みにして期待していた自分が、ひどく滑稽だった。
「なら、なぜ……」
滲む視界を、瞬きで散らす。
「なぜ妻になるなんて選択肢を、示されたのですか。それにこんな風に遠回しにされずとも、一言出て行けと仰っていただけたら、それで、それでよろしかったのに」
「……君は、僕の話を聞いてもなお妻になりたかったと言うのかい?」
信じられないとでも言いたげな表情のアーネスト様に、思わず非難がましい視線を送ってしまう。
「アーネスト様は、私を救って優しくしてくださいました。そして使用人の方々にとても慕われていらっしゃいます。私に分かるのはそれだけです。過去のご事情もその行動の理由も存じ上げない私には、過去のことでアーネスト様を判断しようがありません」
私の言葉に一瞬目を見開いたアーネスト様は、やがて視線を落として小さくため息を吐いた。
「過去の事情に理由、ねぇ。ただ単に、我慢の限界が訪れただけさ。あの男は炎の大魔術師に憧れ、火魔術に傾倒していた。妻が命懸けで産んだ子が、ファンセル魔公爵の後継が、火の適性を持たないなんて許せなかったんだろう。だから僕に随分と理不尽な事を強いた。生まれ持たない適性を得るなんて、奇跡に縋るようなものだというのに」
憂いを帯びた表情に、胸が苦しくなる。アーネスト様は確かに時々怖いけれど、多分それは意図的にそう見えるように振る舞っているのだと思う。叔父一家のように感情のままに振る舞う人間が近くにいたので、その違いがなんとなく分かる。
だからアーネスト様がちょっとしたことで激昂して凶行に及んだとは、考え難かった。言葉通り、我慢の限界が訪れるほどの苦しい過去の積み重ねがあったのだろう。
「まぁ実際、褒められた手法でないことは理解している。だが他にやりようもなかった。僕は後悔していない。誰に何を言われようとも、ね」
憂いを隠すようにふっと皮肉げに笑ったアーネスト様は、またこちらに目を向けた。
「君は、僕が怖くないのか? 祝賀会での様子を見ただろう。あの場には魔爵家の者もいたと言うのに、殿下以外誰も僕を諌めないどころか、声を上げさえしない。僕が君をどうしようと、誰も止めやしないよ?」
そう言われて、祝賀会の様子を思い出す。皆アーネスト様を恐れ、息を潜めてただその様子を見守るだけだった。でも、それがなんだと言うのだろうか。
「あの場で冤罪をかけられた私のために声を上げる人も、同じくおりませんでした。アーネスト様だけが、私に手を差し伸べてくださったのです。そんな恩人をなぜ本気で怖いと思えるでしょう」
そしてその助けを理解せず怖がるだけだった私に、アーネスト様は光魔術まで施してくれた。私にとって真実はそれだけだ。
「それに屋敷の様子を見ても、アーネスト様が非情な方だなんて思えません。サバスティ家は叔父が当主になってから、屋敷内の様子もまったく変わってしまいました。ずっとタウンハウスで過ごしていましたが、領地から連れてきていた使用人も元々タウンハウス勤務の使用人も、笑顔は減り怯えて強張った表情になりました。耐えきれず退職した者も、理不尽に解雇されてしまった者もいます」
それを目の当たりにしているからこそ分かる。屋敷の雰囲気は、その主人の影響を大きく受けるものなのだ。
「私は意気地も力もなく、叔父達に抗うことができませんでした。ただ理不尽を受け入れてやり過ごすだけで、サバスティ家の評判も、勤める使用人達も、何も守れませんでした」
もし怒らせてまた背中を焼かれることがあったらと思うと、怖くて逆らうことができなくなった。罵倒も食事を抜かれることも辛くて苦しくて、機嫌を損ねないよう動くことしか考えられなくなっていた。
「私はアーネスト様の過去を詳しくは存じません。でもどうしようもない理不尽から自力で逃れたというのであれば、それをできなかった私からすると、尊敬の念を抱いてしまいます。もし私が叔父に決闘を申し込んで勝てていたら、サバスティ家の使用人達も、昔のように穏やかな表情で勤めてくれていたかもしれませんから」
自分と重ね合わせてそんな夢物語のような言葉を紡いだ、瞬間。
急に、アーネスト様が椅子から立ち上がった。はっとしてその表情を伺おうとするけれど、俯いた顔からは何も読み取れない。
的外れなこと語って、気分を害したのかもしれない。一気に不安に襲われた。
「あ、あの……」
「君は本当に呑気で思い込みが強い」
平坦な声でそう言われて、喉が凍りつく。
何も言えなくなった私を置いて、アーネスト様はさっと長い黒髪を靡かせて歩き出し、ガゼボから出た。思わず立ち上がって、しかしかける言葉が見つからない。泣きそうになったけれど、アーネスト様はすぐに歩みを止めた。
「僕は別に、君に出て行けと言いにきたわけじゃない」
「……え?」
振り返りもせずに言われた言葉。一瞬困惑したが、すぐにそれが私が放った「一言出て行けと言ってくれればそれでよかったのに」という言葉への返事だと気がつく。
「なんの事情も知らず僕を盲信しているようだったからね。後から知らなかったと詰られても迷惑だ。親切な僕は、現実を教えてあげようとしただけだよ」
その声からはなんの感情も察せられない。ただ固唾を飲んでアーネスト様の言葉に耳を傾けた。
「僕は……」
そこで初めて、アーネスト様の言葉に躊躇いの感情が垣見えた。そして一瞬の沈黙の後、囁くような声で言葉が続けられる。
「僕は別に、君がぼけっとしている間に逃げ遅れて僕の妻に収まったとしても、大して困ることなんてない。怯える者を無理に妻に据えるより、呑気に僕の新聞記事を集めている者を妻にする方が、よっぽどマシだからね」
そう言って、今度こそガゼボから離れて行ってしまう。その姿が消えるまで見送ったところで、全身の力が抜けてストンと椅子へと身を落とした。
知らずに詰めていた息をゆっくりと吐き出す。そしてアーネスト様の言葉の意味がゆっくりと染み込んでくるにつれ、じわじわと心の底から喜びが湧いてきた。
アーネスト様の言葉は、ここにいることを許容してくれるものだった。今度こそ冗談や別の思惑があるわけではなく、その言葉通りの意味に受けとっても良いのだと思う。
積極的に望まれているわけでも、好意を持たれているわけでもない。でもアーネスト様と共にいる未来に続く道の、スタートラインには立たせてもらえたのだ。
その嬉しさをじっと1人で噛み締める。パチパチと薪が熱を伝える音を聞きながら、自分の未来にまたひとつ、希望のあかりが灯ったことを感じていた。




