1:長い長い
伯爵家に生まれ、愛情深い両親と頼れる兄に囲まれて何不自由なく暮らしていた私、セリーナ・サバスティの日常は、ある日脆いガラス細工のように砕け散ってしまった。
4年前、15歳の夏の日のことだった。
魔物に襲われて帰らぬ人となった大切な家族。今まで疎遠だった父の弟に引き継がれたサバスティ伯爵家。そのまま叔父に引き取られた私を待っていたのは、長い長い苦痛の日々だった。
「ちょっとセリーナ! 床が汚れてるじゃない。あなたって本当にグズね。掃除すらもまともにできないの?」
「申し訳ございません、マリエラ様」
よく見つけられたものだというような、ほんの小さなチリ。得意げにそれを指し示す年下の従姉妹は、ただ単に私に嫌がらせをしたいだけなのだ。最初の頃は辛くあたられるたびに涙したものだが、もうこの程度では何も感じない。
叔父は先に生まれたというだけで伯爵家を継いだ父をよく思っていない。叔父の妻、私にとって叔母にあたるアラベルとその娘であるマリエラも同様。自分達のものと考えていた権力をやっと手にして、今までそれを享受していた私を虐げて鬱憤を晴らしている。
この家を出てしまいたいと何度も思った。
けれど母の実家は子爵家で叔父の決定に逆らえるとも思えないし、貴族の娘として当主である叔父からの紹介もなく働きに出ることはできない。
衝動的に飛び出したところで、平民の暮らしを知らぬ私では食い扶持を稼げず死んでしまうのが落ちだ。どうしようもなかった。
マリエラが満足するよう、わざわざ膝をついてチリを拾う。使用人のお仕着せを着せて、使用人の真似事をさせて、その様子を上から見下す。満足げに笑んだマリエラは、ああ、そうだわ、と声を上げた。
「明日、ファンセル魔公爵の龍伐祝賀会があるのよ。第一王子殿下があの血濡れ公の結婚相手探しを兼ねて、大規模に行うのですって。あなたも参加しなさい」
「で、ですが…」
「あと、与えられた仕事もちゃんとできないんだもの。今日の夕食はなしよ。ああ、明日が楽しみだわぁ」
ケラケラと笑いながら去っていくマリエラに呆然とする。
2年前、16歳で社交会デビューしたマリエラだが、年上である私を差し置いてでは伯爵家として引き取った手前世間体が悪いので、同時に私もデビューを果たした。
その時マリエラは気がついたのだ。痩せて疲れた顔の私が、自分の良い引き立て役になると。
母のアラベルに似て豊かな金髪に青の瞳が美しいマリエラと、艶を無くし燻んだ白金の髪が老婆のような痩せこけた私。その私を家族を亡くしたショックから病を得た可哀想な従姉妹なのだと、涙ながらに人に話して心優しい女性を演じるのがマリエラのお気に入りになった。
叔母も私に全く似合わないドレスを着せて「別のドレスにするよう言い聞かせても、受け入れてくれなくて」と、引き取った気難しい姪との関係に悩む様を演じて同情を集めている。
けれどもそれは、あくまで内輪の小さな会での事だ。皆ある程度2人の思惑をわかっていて、伯爵家に阿ると共に私を嘲って気を晴らしている。
同類ばかりが集まる、社交とも言えない場であればそのような振る舞いも許されるだろう。
だが王子殿下が主催の会となると、話は別だ。格上の参加者も多く、相応しくない装いで参加するなど許されるはずがない。けれど貶める目的以外で、マリエラが私を会に参加させるとも考え難かった。
ため息が出る。
人の良い父が、血を分けた弟と疎遠であった理由。それは叔父家族と暮らしてよく分かった。常識も思いやりも思慮も足りない人達なのだ。
叔父も短絡的で、些細なことで私や使用人に怒鳴り散らすため、使用人はどんどんと辞めていった。そしてその仕事の穴埋めに私をこき使って、引き取ってやったことを感謝しろと言う。
くぅ、と腹がなった。昨日も些細なことで夕食を抜かれていた。食事さえも満足に与えてもらえないのに、何に感謝しろと言うのだろう。食事抜きを言い渡されなくても、使用人の余り物しか口にすることを許されないのに。
ひもじさがこんなに辛いものだとは、両親がいた頃は想像さえできなかった。枯れたはずの涙が出そうになって、ぐっと堪える。
気力を振り絞って立ち上がる。そろそろ夕食の配膳に行かなくては、また怒鳴られてしまうだろう。重い足取りで、次の仕事へと向かった。