10:無言の圧力
自然と目が覚めて、ゆっくりと身体を起こした。
周りを見るとまだ夜が明けて間もない時間のようで、朝の静寂と動き始めた屋敷の気配が混在している。ベッドから足を下ろして、こっそりと部屋のカーテンを開けた。
誰かが起こしに来るまで大人しくしていた方が、仕える側にとっては楽だろう。使用人として働いた経験からそう判断して、窓からの光で少しだけ明るくなった部屋の中でソファに腰掛ける。
昨日着せてもらったナイトウェアは肌触りが良くて、なんだか家族が生きていた頃を思い出した。心地よいベッドも優しい使用人も、そして1人でゆっくりできる時間さえも、もう私には手に入らないものだと思っていたのに。アーネスト様と、マリアさんをはじめとした使用人の皆さんには本当に頭が上がらない。
ゆっくりと日が上り、明るくなっていく様子を楽しむ。なんて贅沢な時間なんだろう。
今日はマリアさんにお願いして、仕事を与えてもらいたい。できるだけ早くこの家に貢献できるようになれたら嬉しい。そう思いながら、使用人が朝を告げにくるのを待った。
「お、おはようございます」
着替えを手伝ってもらってから食堂へと赴くと、アーネスト様は紅茶を飲みながら新聞に目を通しているようだった。気だるげな表情さえも美しく、声をかけるのを躊躇わせるものがある。
足元の猫達も同じ気持ちで大人しくしているのだろうか。甘えかかるでもなく、ただ静かにそばにいる。でもその距離は私などよりずっと近いので、少し羨ましく思ってしまった。私も猫になりたい。
「ああ、おはよう」
けれど言葉を返されると、そんな気持ちも吹き飛んでただ嬉しくなる。アーネスト様も使用人の皆さんも、私の言葉を聞いてくれる。叔父一家からは無視か罵倒、使用人たちからは拒否と怯えしか返ってこなかった孤独な日々を思うと、現状には改めて深い感謝を覚えた。
それに、また気が付いたこともある。
「今更ですが、ドレスをありがとうございました」
そう。私が着ている室内用ドレス達は、昨日昼過ぎまで寝過ごしている間に揃えてもらっていたらしい。今日やっとそれに気がついてマリアさん達にお礼を伝えたら、お礼の言葉はアーネスト様にお願いしますと優しく笑われた。
「礼ならマリア達に言うんだね。あれらが勝手に揃えたんだ」
昨日も聞いたようなセリフをそっけなく言われるけれど、アーネスト様の許可のもとアーネスト様のお金で揃えているはずなので、やはりお礼の言葉は間違っていないと思う。
さりげなく当たり前のように与えられる優しさが、嬉しかった。
長く忘れていた笑顔も、ここに来てから取り戻せた。あの祝賀会の日、差し出された手は地獄への誘いなどではなく、ずっと求めていた救いの手だったのだ。
「なんだか、とても幸せな夢を見ているようです」
思わず口をついた言葉に、アーネスト様が驚いたように顔を上げた。その顔はすぐ新聞の裏へと隠れてしまってそれ以降なんの反応もなかったけれど、それで良い気がした。
私達のやりとりを見守っていたらしい使用人さんが、そっと私を席に促す。新聞に目を通しているアーネスト様を座って眺めるだけで、ふわふわとした幸せな心地がした。
もう少しこの時間を堪能していたい。そんな風に思ったけれど、まもなく朝食が運ばれて来た。
私と同じくらいの量がアーネスト様の前にも供されて、朝はあまり召し上がらない方なのかしらと思っていると、やっと新聞から顔を上げたアーネスト様がそれを見て眉を顰めた。
「……これは?」
「朝はきちんと召し上がった方がお身体にようございます」
たしか執事のエーゼルさんといったか、渋い感じの彼がすまし顔でそう返した。やりとりを見るに、普段は飲み物とかもっと少量だけで済ませていたのかもしれない。
どうしようかと思って食事に手をつけずに様子を見守っていると、それに気がついたアーネスト様がこちらを見て、目が合った。
「はぁ」
静かなため息が落とされる。そしておもむろに新聞を置くと、仕方なさそうにカトラリーをその手に取った。
その様子を見ている使用人の皆さんはとても満足そうな顔をしているので、私の存在も少しは役に立てたようで嬉しい。アーネスト様に倣ってふわふわのオムレツにハム、そして数種類の野菜と果物たちが綺麗に盛り付けられた朝食に手をつける。オムレツの優しい甘みもハムの程よい塩気もとても美味しかった。
温かい小さめの白パンも好きなだけ取れるようにカゴに入れられていたが、この一皿だけで十分にお腹が満たされる。
と思っていたのに、自分の前のカゴからパンを一つ手に取ったアーネスト様が、たいそう非難がましい目をこちらに向けた。
「……」
「……」
これは私のせいで自分も朝食をとるハメになったのだから、もっと食べろと言う無言の圧力だろうか。おずおずと手を伸ばしてパンを一つ手に取ると、正解だったようで非難がましい視線は私から外された。
手に取ったからには食べなければいけない。アーネスト様は何もつけずにそのまま食べているようだが、卓上には数種類のジャムも並べられている。せっかくなので、見たことのない色合いの一つをつけて口へと運んだ。選んだのはキウイのジャムだったようで、爽やかな酸味とプチプチとした食感が面白くて美味しい。そういえば、ジャムさえもこの4年間なかなか口にする機会がなかった。
美味しさに後押しされて、なんとかパンもお皿の上のものも食べ切った。早く体型を戻すことを考えるともっと食べた方が良いのかもしれないが、もうお腹はいっぱいだった。
アーネスト様も食事を終え、食後のコーヒーを片手に新聞の続きを読んでいる。すごく満たされた思いでその姿を眺めていると、不意に足元からにゃんと甘えた声がした。目線を下げると、昨日も私に愛想を振りまいてくれた黒猫が何かを訴えるようにこちらを見ている。
なんだろうと不思議に思っていると、急にひょいと飛び上がって私の膝に着地した。
「!」
びっくりして固まってしまったが、黒猫は気にすることなく「撫でるがいい」とでもいうように私の方を見つめる。その自信満々な様子が可愛くて、思わず笑ってしまった。
「いい子ね」
ご要望通り小さな頭を撫でると、気持ちよさそうにしている。けれど私の膝は座り心地に関してはあまり優れていなかったようで、その点は少し不満そうだった。
そうして穏やかな時間を過ごしていると、やがて新聞を読み終えたらしいアーネスト様が席を立った。出勤の身支度を整えに行くのだろう。
部屋からでも直接魔術で移動できるはずのアーネスト様だが、使用人の皆さんがそれはやめてくれと懇願したそうで、わざわざエントランスホールから行き帰りをしている。
帰りの時間はほぼ一定なので、使用人の皆さんはいつもその時間にホールで待ち構えるらしい。昨日は絶対に会いたかったので猫達に頼ってしまったが、今日からは私も大人しく待つことにしよう。
そんなことを考えていると身支度を終えたアーネスト様が降りてくる気配がしたようで、膝の上の黒猫も私から飛び降りて急いでホールへと向かった。私も慌ててそれについていくと、見送りをする数人がすでにホールへ集まっている。
ウロウロしているとマリアさんが隣を示してくれたのでそちらへ向かうと、すぐに階段からアーネスト様が降りてきた。
「いってらっしゃいませ」
首を垂れる使用人さんたちに合わせて、私も頭を下げる。昨日はできなかったお見送りに参加できて、達成感が胸に込み上げてきた。
「いってくる」
静かな声が落とされ、一瞬で展開される緻密で美しい魔力の紋様。あの祝賀会の日まで魔術を間近で見る機会はなかったけれど、この紋様は本当に美しい。上目遣いで盗み見るうちにアーネスト様の身が闇に包まれ、そして瞬きの間に跡形もなく消えてしまった。
そっと頭を上げる。穏やかで満ち足りた、1日の始まりだった。