9:キラキラ
にゃあん。
可愛く鳴いて気まぐれに擦り寄ってきた黒猫を撫でながら、魔公爵の帰りを待つ。
一階の小さめの応接間だったそこは、猫が増えるにつれ猫部屋になったのだと聞いた。今まで猫は飼ったことがなかったが、こうして触れ合うととても可愛い。
それに彼らが、魔術で帰ってくる魔公爵の帰宅を逃さず察知するらしい。帰宅時間は毎日ほぼ同じとは聞いたものの、どうしてもお礼を言いたい私は、それを聞いて猫部屋にお邪魔しているのだ。
誰だコイツはと迷惑そうにしている子もいれば、こうして愛想を振り撒いてくれる子もいる。猫にも色々と性格があるのだと気がついて、なんだか楽しい。
そういているうちに、不意に猫達が揃って同じ方向を向いた。
帰ってきた!
それに気がついて、慌てて猫部屋を出る。そこには確かに魔公爵が立っており、急に猫部屋から姿を現した私を見て微かに目を丸くしていた。
「お、おかえりなさいませ!」
駆け寄った私を見て、魔公爵は不審そうに眉を顰めた。
「……なんの真似だ?」
一瞬怯みそうになるが、昨日まで傷を癒してやっても怯えた反応しか返さなかった女が、急に駆け寄ってきたら怪訝に思うのも仕方がない。自分の振る舞いを反省しながら、深々と頭を下げた。
「今更で大変恐縮ですが、見ず知らずの私を救い、身に余るお心遣いをいただきましたこと、心より感謝を申し上げます。あの時手を差し伸べていただけなければと考えるだけで、身の凍る思いです。その慈悲深いお心にはどれほど感謝しても足りません。本当にありがとうございました。そしてそのご恩に対し、己の思慮に欠ける振る舞いには恥じ入るばかりです。数々のご無礼、誠に申し訳ございませんでした。伏してお詫び申し上げます」
魔公爵からはなんの反応も返ってこない。じっと身を低くしたままでいると、先を越された猫達が寄ってきて不思議そうにふんふんと私達の足元を嗅ぎ始めた。
「……は、なにを、急に」
少しして、思わずと言った風に呟かれた声にそっと顔を上げると、魔公爵から信じられないものを見るかのような視線で凝視されていた。どうやら相当驚かせたようで居た堪れなくなる。
「ここに連れてきていただいたことはもちろん、私に光魔術を施してくださった事にも深く感謝しております。背中の火傷の跡は一生消えないものと覚悟しておりました。だからこそ治していただけて、とても、とても嬉しかったのです」
もう私の背中に傷はない。心の傷の象徴でもあったそれを、目の前の魔公爵は綺麗に消し去ってくれたのだ。それがどれほど嬉しかったか。その事実を思うだけで、自然と笑みが浮かんだ。
こんな風に心から笑えるなんて、いつぶりだろう。胸がぽかぽかと温かくて、なんだかくすぐったい。
その思いのまま、尊敬と感謝を込めて魔公爵を見上げる。と、一瞬よろめいた彼は、急にサッと私の横をすり抜けた。
「あ……」
思わず振り返ってその背を目で追うと、歩き去りながら魔公爵が吐き捨てるように言う。
「礼なら、治せと煩く言ってきたマリアにでも言うんだな」
そしてそのまま、2階の部屋へと消えてしまった。急いで後を追う猫達について行く気になれず、また機嫌を損ねてしまったかと少し落ち込んだ。
けれど、出迎えのためにホールに集まっていた使用人さん達は、何故か皆嬉しそうな顔をしている。
その中にはマリアさんもいて、魔公爵に頼んでくれたという彼女へと近寄った。
「マリアさん、背中のこと頼んでくださってありがとうございました」
「ふふ。いいえ、私は煩くなど言ってはおりませんよ。ただ、お背中に痛そうな傷があったとお伝えしただけです」
「そう、なのですか」
「ええ。ですからお背中の件も、お礼はアーネスト様にお伝えして正解でございます。あのように真っ直ぐ感謝を受ける事の少ない方ですから、驚かれただけできっとお喜びでしょう」
その言葉に、少し気持ちが上向く。
「あと、私のことはマリアとお呼び捨てくださいましね。さぁ、もうすぐ夕食のお時間ですし、アーネスト様もまた降りていらっしゃいます。奥様のお食事の好みを料理長が伺いたいと申しておりましたので、それまでの間お話ししてやってくださいませ」
「分かりました。……あと、あの、できれば私のことはセリーナと呼んでもらえませんか?」
奥様という呼び方は慣れないし、そもそも魔公爵が本気なのかもまだよくわからない。なのでそう頼むと、マリアさんは優しく笑って頷いてくれた。
「かしこまりました。ではセリーナ様、こちらへどうぞ」
食堂の方へと案内されながら、なんだか急に視界が開けた気がした。目に入るものすべてが、明るくキラキラしている。
家族を亡くした日から色褪せ、叔父一家の仕打ちで狭まり、まるで身動きの取れない暗く狭い檻にでも入れらたかのようだった私の世界。呼吸すら苦しく、抗う気力もほとんどなかった。
それが今、胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込める。前を向く気力が湧いてくる。
そして一番に思ったこと。
あの魔公爵に、少しでも恩を返したい。
自分に何ができるか分からないけれど、少しでも助けてやって良かったと思ってもらえたら、それはとても幸せなことだと思った。
「はぁ? 仕事?」
夕食時。私がいる事にちょっと目を見開いた魔公爵だが、もう先ほどのような動揺など見せず、自然な様子だ。足元に猫を遊ばせて泰然としている。
逆に私はなんだか意識してしまい、なんとも言えない空気で食事は始まった。そして話題を探した私が、仕事をしたいと言った際の返答がこれだ。
「使用人の真似事をしたいとは変わった趣味だが、あいにく僕の屋敷では君みたいに転けたら折れそうな使用人は募集していなくてね」
「で、ですが、掃除も洗濯も配膳も一通り経験はありますっ。何もせずここに置いていただくのも申し訳ないですし、そ、それに少しでも魔公爵閣下に恩返しをしたいのです」
そう言うと、呆れたようにため息をつかれた。
「おやおや。僕の妻は夫の名前さえ知らず、さらには不健康な妻を使用人として扱き使う悪魔のような男だとの悪名を広めたくて仕方がないらしい。僕はなんて不幸な夫だろうね? それで恩返しとは……」
そう言われて、ぐっと言葉に詰まった。確かに、妻にすると公言した女を使用人として扱えば外聞はかなり悪い。私にできることなんて使用人として働くくらいと思ったが、それもできないらしいと悟って思わず項垂れた。
他に良い提案も思いつかず、しばらくお互いに黙々と食事を続けていたが、食事も終わりかけた頃に魔公爵は訝しげに私を見た。
「君、本当にそれで足りるのか?」
どうやら各皿半量ほどに抑えてもらっていた私の食事の量が気になるらしい。気にもされていないようでしっかり見られていた事に気がつき、ほんのりと嬉しくなる。
「はい。これでも少し多いくらいです。ですが、とても美味しかったので食べ切れてしまいました」
「そうか。ならいい」
そっけない言葉だが、優しさに飢えている私にはこの上ないご褒美である事に、魔公爵はきっと気が付かないだろう。
そしてふと、先程魔公爵が口にした「夫の名前も知らず」という言葉が気に掛かった。これはもしかして、名前で呼んでも良いという事だろうか。なんだかどきどきしてきた。
「その、気遣っていただきありがとうございます。ア、アーネスト、さま」
勇気を出して、お礼と一緒に名前をお呼びしてみた。けれど、なんだか無性に恥ずかしい。じわじわと自分の顔が赤くなってしまうのがわかるのに、それを止める術がない。
「な、なぜ名を呼ぶだけで赤くなるんだ!」
勝手に名前を呼んで勝手に真っ赤になっている私を見て、呼ばれた本人にも動揺が移ったようだ。
それを隠すように席を立ったアーネスト様は、それでもチラリと私を見て言葉をかけてくれる。
「どうしても暇ならマリアに頼めばいい。あれが屋敷内の仕事を管理しているからね」
そう言うと、足早にその場を去ってしまった。でも最後まで私を気にかけてくれる言葉をもらって、サッと心の中に光が差す。
頑張ってこの棒切れのような身体を健康体に戻し、マリアさんから仕事をもらって、アーネスト様のお役に立つ。暗闇で蹲るだけだった自分に前向きな目標ができたことが、とても嬉しかった。