内緒の友達
「私たちが友達だってこと、周りのみんなには内緒だからね?」
理由は言わなくてもわかるよね? じっと私を見つめる相原さんの表情にはそんな言葉が込められているような気がした。もちろんだよと私が答えると、彼女は嬉しそうに微笑んで、それからいつものように私の手をぎゅっと握りしめた。誰もいない音楽準備室は少しだけカビ臭くて、窓から差し込む陽の光の中で埃やちりが舞い上がっているのが見える。約束だからね。相原さんが念押しするように私に告げたタイミングで、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。私たちはお互いに顔を見合わせる。そしてそれから。私たちは別々のタイミングで準備室を出て、同じ教室へと向かった。
相原さんは学校の人気者で、顔立ちだって整っていて、教室ではいつも影響力のある人たちとつるんでいる。俗っぽい言い方をすれば、彼女はスクールカーストの一番上にいる人。彼女の周りにはいつも同じカーストの女の子や、男の子たちが集まっていて、休み時間になると彼らは楽しそうにおしゃべりを始める。教室の隅で、誰とも話さずに授業時間を待ち続けている私とは別の世界に住む人。彼女と友達になる前は、ずっとそう思っていた。
私はちょっとだけ顔をあげて、相原さんの方へと視線を向ける。ちょうど同じタイミングで相原さんもこちらを見て、私たちの視線がぶつかった。だけど、相原さんはまるで何も見なかったみたいに顔をそらし、再び他の人たちとの会話に入っていく。大丈夫。わかってるから。私は心の中でそう呟いた後で、彼女から視線をそらす。スクールカーストの一番下にいる私と、一番上にいる相原さんが友達だってことを、誰かに気づかれてはいけない。それが私と相原さんとの、大事な大事な約束だから。
「あいつらなんて、友達じゃないよ。私は教室でそういう立ち位置にいるから、仕方なくつるんでるだけ。本当の友達は裕子ちゃんだけだから」
二人っきりでおしゃべりをするとき、相原さんはいつも私にそう告げる。私たちは周りのクラスメイトの目があるから、教室で会話を交わすことはしない。二人っきりになるのは、週に一度だけある委員会での活動か、放課後に近くの公園で待ち合わせて一緒に帰るときくらい。一緒にいる時はいつだって、私たちは身体を寄せ合い、お互いが離れないように手を繋いだ。あいつらバカばっかりでさ、辛いこととかしんどいことも経験したこともないような幸せもんなんだよ。相原さんが毒づき、私はそうなんだねと相槌を打つ。天使のように優しくて、みんなから愛されている相原さんの本当の顔。それを知っているのは、この学校で私だけという事実が、私の感情を昂らせる。
同じ委員会にたまたま一緒になったというだけなのに、どうして相原さんが私と友達になってくれたのか。最初は全く理解できなかった。確かに相原さんはキラキラしてて、クラスのカーストでは一番上にいる。けれど、私と相原さんの間には共通点がたくさんあった。お互い、幼い頃に両親が離婚していて、今では母親と二人暮らし。そしてお互い、たった一人の肉親である母親とも仲が良いってわけでもない。私の母親はワーカホリックで休日だってお構いなしで仕事をしてるし、相原さんのお母さんは夜の仕事をしていて、顔を合わせたら喧嘩ばかりしているらしい。彼女はよく私の家に泊まりにくる。その時は大抵、どちらかの頬が赤く腫れていて、母親にやられたんだとすかした表情で笑う。
「裕子ちゃんだけは違う。私とすごく似てるし、裕子ちゃんにしか私の本当の気持ちは話せない。学校にいる時の私のキャラじゃ、こんなこと言っても引かれるだけなの。わかってくれるよね?」
私は相原さんの親友だったし、友情のためだった何だってする。彼女のためにならどんなことだって我慢できるし、誰にも私たちが友達でいることを喋らないっていう約束を守り抜くと決めている。それは絶対に守らなければならない約束だったし、それはどんな状況だったとしても決して変わることはなかった。
二学期の中間テストの日。10月なのにまるで冬のように寒く、まだ暖房をつけることのできない教室が、冷蔵庫の中に入っているみたいに寒かったある日のこと。私は朝からずっと調子が悪くて、けれど、このテストで赤点を取るわけにはいかない大事な試験で、緊張と寒さで身体は縮こまっていた。そんな最悪な日の試験時間中、私は突然強い尿意を感じ、失禁してしまった。一番後ろの席から私はゆっくりと手をあげたけれど、試験監督の先生は気づいてくれなかったし、みんなが黙々と試験を受けている中で、声を出して用を足しにいって良いかと聞くなんて、スクールカーストの一番下の私には許されないことだった。恥ずかしさと情けなさに耐えながらようやく試験が終わり、隣に座っていた子が私と、私の足元の異常に気がついて無神経に声をあげる。
クラスのみんなが私の方を見た。私は顔をあげることもできず、ただ両膝の上で拳を握りしめ、じっと恥ずかしさに耐えていた。先生が私に近づいてきて、保健室へ行こうと私の肩を叩く。私が先生に連れられて歩き出すと、クラスのみんな、それもカーストの高い子達がくすくすと笑い出す。
「気持ち悪ーい」
私は少しだけ歩くスピードを遅めて、声のする方へと顔を向けた。その言葉を発したのは相原さんだった。彼女はいつものように頭の悪い女の子たちに囲まれていて、無邪気な笑みを浮かべている。それから一瞬だけ私と目を合った。目があった瞬間に、私は彼女から、わかるよね? というメッセージを受け取ったような気がした。いや、受け取ったような気がするなんかじゃない。私は確かにそのメッセージを受け取ったし、私は心の中で力強く返事をした。相原さんのクラスの立ち位置では、その言葉を言うのが当然なのだから。
だからこそ、私が教室に戻ってきた時も、私は相原さんとは一切目を合わせなかったし、まるで何も聞かなかったように振る舞った。確かに教室でおもらしをしてしまったことは死ぬほど恥ずかしかったけれど、それでも私には心の支えがあった。あの相原さんと友達だという、心の支えが。
自分の席に戻った私に、溝口さんという文化系の部活に入っているカーストの低い女の子が話しかけてくる。彼女は大丈夫? とか、気にしないでねとか偽善めいた言葉をかけてきて、それから私のことをクスクスと笑っていた人たちはサイテーだと吐き捨てた。私はありがとうとそっけない態度で返しながら、声をかけてきたその子のことを鼻で笑った。自分より下の人間を見つけて安心してるのかもしれないけど、それは違う。
私はあなたと一緒にしないでよ。何の取り柄もない、地味子のくせに。私は喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込んだ。私はあなたみたいにただただカーストの低い生徒じゃない。私はあの、今も教室の真ん中でみんなからの注目を集めてる相原芽衣の親友。私はそんな感情をぐっと押さえ込みながら、私は目の前のくだらないそのクラスメイトに当たり障りのない返事を返すのだった。
「ねえ、今日の夜、裕子の家に泊まりにいってもいい?」
その日の放課後。私はいつものように相原さんと公園で落ち合い、一緒におしゃべりをした。私から今日のあの出来事を話すことはなかったし、相原さんが私のことを気持ち悪いと言ったことを蒸し返すようなことはしなかった。
「ねえ、私たちって友達だよね?」
その代わり、私はそんな言葉を口にした。その質問に対して、相原さんが笑って返事をする。
「何言ってるの?」
相原さんが私のほおにそっと手を当てる。
「当たり前でしょ? 私と裕子は、内緒の友達だよ。私のことをわかってくれる、大事な大事な友達」
その言葉に私はぐっと唾を飲み込み、力強くうなづいた。相原さんが私に手を差し出し、私はその手を握り返す。クラスの人気者である相原さんの手は氷のように冷たかった。何があっても、友達だからね。私がそう言うと、相原さんが嬉しそうに微笑み返す。それから私たちは立ち上がり、歩き出す。
夕焼けが後ろから私たちを照らす。手をつないだ二人の影が、灰色のアスファルトの上に映し出されていた。