Introduction
唐突だが、ここで『完全』というものを考えよう。
完全とは何か。ある辞書による定義は、『すべてそなわっていて、足りない所のないこと。欠点の無い事。すべてに及ぶ事』とのことらしい。視覚的イメージとしては、ある領域をべちゃっと一色で塗り潰してしまう、そういう状況だろう。ただ一部の隙も無く、見渡す限り己の色だけで塗り潰された孤独な世界。
だから、完全ということは孤独ということなのだろうか。そんな益体も無い事を子供の頃に思い至った記憶がある。
無論、自分ひとりの力で其処に至った訳ではなかった。生憎と人として完全というには七百ピースほど足りていない私である。不完全な私をそんな素敵な思考に引き上げてくれた要因が当然あった。
近所に暮らしていた中年紳士がそれである。蛇足だが英国紳士を気取っていた。そんな彼と私は何の変哲も無い公園でしばしば出逢い、話し込んだ。とんだ洟垂れ小僧だった私に、彼は何を思ったのか様々な事を教え込んでくれた。それこそ、ゆりかごから墓場まで、マシン語からRubyまで、ビックバンから世界の調和まで、私が理解出来ていなかろうと容赦無く知識を浴びせかけた。知識だけでは物足りないと、知恵の引き出し方や思考の転がし方まで吹き込んでいった。もっとも、こうした先行投資も今の私を見てくれれば分かるとおり、失敗に終わっているのだが。唯一、突飛な話に対する耐性がついたのは投資のお陰だろう。
そうした延々と続く彼の講釈の中で、特に記憶に残っているのが『完全』の話である。
「だからこそ、マトリクスや最近のラノベに見られる様にだね、脊髄にインタフェースを作るなんて事は有り得ない、否有り得てはいけないのだよ。感染症後遺症その他のリスクを鑑みても、脊髄を損傷させるよりも脳に直接インタフェースを置いた方が余程良い。そこが分かってない。いいかい、篤望君。荒唐無稽な実しやかに垂れ流される情報を鵜呑みにしてはいけない。自分でしっかりと検証した上で得た情報だけを頼りに生きなさい」
「はい、先生」
「うむ、良い返事だ。さて、先の君の質問に答えよう。『完全』とは何かだったね」
「はい、先生。小学校の先生が失われた自然と男運を完全に元通りにする事が自分の目標だと仰られていたので。失われた自然を完全にするというのは失われた部分を埋めるという事でいいと思うのですが、元々無い男運を完全にするというのはどうしようもないと思うのです。そうすると、ふたつの完全というのが違う意味になってしまうような気がするのです」
「ふむ。生徒に気遣われる教師の情けなさはさておき。『完全』というのはだね、篤望君。形而下では確かに形が異なるかもしれないが、形而上では常に一定の意味を示しているのだよ。つまり、『完全』という言葉によって、その対象の抽象的な概念を固定化しているのだね。言い方を変えれば、他の概念が入り込まない様に防壁を作り閉め出している。それが『完全』、complete。数学においては、よりスマートにこれを定義している。全集合におけるある空でない部分集合において、上に有界であれば上限を持ち、下に有界であれば下限を持つ事、これ即ち完備である。正にこれこそ定義だよ」
「先生……」
「ああ、篤望君。まだ君には集合の話をしていなかったね、申し訳無い。多少の誤解を承知の上で、いささか簡単に簡潔にまとめるとすれば。他を寄せ付けない、『自分』だけで占められた領域の事だ。そういう理解において、先の教師の言葉は少々不適切と言わざるを得ない」
「えーと、そもそも男運という『自分』が無いから、領域が無いということですか?」
「ああ、理解が早いね、篤望君。先程の数学の定義において、前提となる空集合でない部分集合という部分が当てはまらない訳だ。まず、君の教師は自分の男運という領域を作る事から始めないといけないのだね。まぁ、そうした事を踏まえてだ、君はもう一つの完全なる自然とそもそも『完全』という事について、何か思うことはないかい?」
「えーと……自然については、僕は良く分かりません。昔あった自然の領域が人によって壊されて欠けてしまった。だから、その領域の部分を埋めようという事だと思います。えーと、だから先生から聞いたときに思った事と変わりありません。それと……『完全』についてですが。えっとえっと。ちゅーしょー的でちょっと言い難いんですが。寂しいなぁって。えっと、そう! 孤独だなって思ったんです」
「そうかそうか。篤望君は実に優秀だね。その発想は実に面白い。『完全』が孤独」
「はい、そう思いました。先生はどう思われたのですか」
「そうだね。私の意見を言う前に、自然の話を先にしておこうか。そもそも自然とは何か、という事を考えなければならない。屡、自然は人工と対比して用いられているね。恐らく、君達の教科書に対義語として掲載されているのではないかな。しかし、こうした視点というのは何とも人第一主義と言おうか、自然から超越した存在としての人を見据えている様に感じられる。しかし、人とは自然があって初めて存在可能なのであって、人は自然に内包される事を忘却してはならない。従って、人の手によって、例えば土地開発と銘打った破壊行動によって失われた『自然』は、確かに一側面から見れば欠けた様に見受けられるが、『自然』の破壊された後もまた自然なのだよ。人の手で左右される等と傲慢なエゴイズムも大概にしておくべきだね」
「ですが、先生。最近は事あるごとにエコエコと叫んでいませんか? 街を歩いていても、テレビをつけてもそんな話題ばっかりです」
「確かに限りあるエネルギを無駄にしないという事は大切だが。巷で言うエコを本当に考えている人間がいるとすれば、そんな人はとっくに自決しているだろうね。人間、生きている事自体が環境を破壊しているのだから。さて、話が逸れてしまった。こうした視点で自然を捉えれば、自然は既にして自然であり、完全であると言えよう。何をせずとも、篤望君の教師の目標は叶っていてのだよ」
「なるほど。えーと、自然の中にある人が何をしても、その後に残るのも自然だから、自然は欠ける事がないんですね!」
「そうだ。篤望君は実に優秀だ。それでは、もう一つ。そうした自然の部分集合である人間だが、その人間の『完全なる人間』とは何だと思う」
「えーと、えーと。……分かりません。先生はお答えを持っていらっしゃるんですよね?」
「私もね、今以てその答を得ていないのだよ」
にっこり笑った彼の顔が今でも忘れられない。
結局、その日の話はこれで終わってしまい、『完全』の話もこれ以降語られる事は無かった。そして、『完全なる人間』に関連ある話も彼自身から聞かされる事は無かったが、後程ある論文誌で語られているのを見るに終わっただけだ。
しかし、返す返す思うことがある。あの洟垂れ小僧の時が自分の最も知識を得た時代だったのだろうと。あれから十数年経とうと、そしてこれからさき数十年経とうとも、そこで得られる知識は十中八九初見のものではなく、既知の――自分の記憶領域の奥底で眠っているだろう――知識に過ぎないに違いない。そうした意味で、あの中年紳士には感謝してもし切れないほどの恩がある。
だがまぁ。あの頃の私が少しでも、彼の『孤独』を、『完璧』『天才』等と謳われた彼の『孤独』を癒せたのなら、僥倖である。
「おーい、アジモフ。手ぇ止まってんぞ」
どうやら私は随分と回想に耽っていたようだ。脳にあるスイッチを押すイメージで、意識を覚醒させる。
私の居る場所は都内某所、某研究室の一席。各人のスペースは仕切られ、イヤーシート――耳介に貼るタイプのイヤフォン――を装着すれば周囲を気にする事無く、作業する事が出来る。私は滅多にシートを貼り付けないが。
目前のモニタを見るに、どうやら五分ほど回想に浸っていたようだ。コンソールのカーソルがチカチカと私の現実回帰を催促している。
一応、私を呼んだ男の方にぐるりと顔を回転させ、了解とのハンドシグナルを送っておいた。ちなみに“アジモフ”とは私のあだ名である。私の名が由来なのだが、恐らく普通の人にはどうしてこうなったのか分かるまい。暇があれば考えて欲しいものである。
「言語処理モジュールの進行はお前の力量に掛かってんだからよ。もっと頑張ってくれないと困るぜ?」
再度、了解と送る。そうした発破をよく掛けられる事があるが、自分の取り掛かっている仕事が自分の力量に左右される事は当然だろう。あまりにも分かりきった事を何度も言われるので、思わず閉口してしまう。
「しかし、あれだよな」とルーチンの様に、男は口を働かせ続ける。
「俺、機械系出身だからよく分からなかったんだが、お前の提案した『ワーキングメモリシステムに基づく言語学習カオスニューラルネット』だっけか? あれ、学会でも評判だったし。お前が居ないとプロジェクト成功しないよなぁ」
そんな事は無い、と適当に手で答える。何しろ、他分野の研究を自身の分野に持ち込んだだけである。基になる計算論的脳科学は少々衰退していたり、その中心にあったモジュール構造――異なるタスクを処理する為の独自の処理系が存在し、各々が並列及び直列に結合したシステム――は『脳部位機能局在論の功罪』とも言われ衰退していたり、と古い考え方なのだから。
『彼』ならば、数秒で思いついたに違いない。ついでに欠点も改良案も出してくれたかもしれない。
「おーい、アジモフ。ちょっとは話に乗ってくれよぉ」何とも情けない声で男はこっちに手を振っている。
私に作業させたいのか作業妨害したいのか、よく分からない男だ。
そういう目で彼を見ると、確かに服装にも彼のカオティクさが見て取れる。上半身は裸に黒ネクタイ、下半身は紫のジャージ。最早、何を主張したいのかも分からない。兎に角、上半身に何かを羽織って欲しいものである。左の乳首が黒々として気持ち悪い。
「……」羽織れというジェスチャを送っておく。
「あ。やっぱりそうだよな! 暑いよな、この部屋。あまりにも暑すぎて、思わず紳士スタイルになっちまったさ」
意志伝達は容易ではない。
彼の乳首から放射される何か――文字通り黒体輻射だけれども――から眼を背け、自分の仕事を再開する。現在はモジュールのプログラムを組んでいる所である。市販のメモリや記憶媒体の容量やアクセススピード等が向上している為、プログラムにある程度の余裕を持たせる事は出来るが無駄はなるべく無くした方が良い。デバッグの為にも、シンプルで小規模の関数に区分けされている方が好ましい。
目前に展開されたモニタに処理アルゴリズムのフローチャートを表示させ、それに従うように記述していく。完成まであと七パーセントという所か。
「そういえば、紳士で思い出した。お前さ、紳士の神って言われてた茶別教授知ってるだろ? 茶別駆教授。二次元の世界に飛んでいく事が出来なかった俺達に、一筋の光を与えてくださったあの神様だよ」
モニタ上のカーソルが早く私を(先に)イかせて、焦らさないでと主張しているが、研究室内のコミュニケーション円滑化の為にも黒乳首に目をやっておく。その際、知っているがどうかしたか、と目で合図を送っておいた。
彼の言う、『紳士の神』とは茶別駆教授にオタク達――広義の意味での――が贈った称号である。
ここ最近、既に二次元――アニメや漫画といった平面モニタに展開されたもの。立体モニタに展開されたものも含まれる様だが――世界の相手に、己の感覚を接触させる事がある程度可能になった。例えば、卑猥な表現になるが、二次元キャラの胸の感触を確かめたり、髪の匂いを嗅げたりする。無論、多少の装置を装着しなければならず、二次元世界に没入可能には至っていない。
そんな折、偶々メディアに茶別教授が出演する。メディアへの露出自体稀有な事なので注目を浴びたが、それ以上に教授の隣に居たメイドに関心が集まった。古風な小間使いの服装をきちりと着こなした、楚々とした黒髪の乙女。まるで二次元世界から抜け出してきたかのような、瀟洒で麗しいメイド中のメイド。だが、どう見ても人間のメイドなのだが、それだけでは――我が家のメイド特集ならいざ知らず――教授と共に映る必要性は無い。何故、という視聴者の関心を他所にインタビュは淡々と進められる。そして、最後に教授はこう言い放ったのだ。
「今まで色々な分野に携ってみた結果が彼女だ。まぁ、所謂一つのヒューマノイド。まだ未完成だがね」
「お客様に対してご挨拶が遅れてしまい申し訳ございません。ノエットと申します」
教授とメイドの言葉に、全世界が驚愕した。正しく、震撼した。
二次元世界の一つの極致である瀟洒なメイド。その体現がそこにあるのだから。二次元に行きそこなった男達は――一部女性も混じっていたようだが――狂喜乱舞する。或る者は道頓堀へとダイブし、或る者はええじゃないかと鴨川の川辺を爆走し、或る者は神社の境内で手を組みメッカへ頭を垂れ念仏を唱え、我々の生地獄に二次元が光臨したのだと喚き、歓喜の涙で滝を作った。
そうして、教授は『紳士の神』と相成ったのだ。
「でよ。あの神様、ついに神の国に行ってしまったんだよ。昨日辺りに自宅で亡くなっているのを確認したとか何とか、ニュースで出てたからよ」
「……」それでどうした、と身体で表現してみる。
「や、うん、そうなんだが」
頭を二三度掻き毟って、黒乳首は口ごもる。どうやら、言い難い事というよりは、私にもっと早く伝えるべきだったという焦りがあるらしい。
その事を悟った私の目は何時に無く剣呑な様で、黒乳首の顔は青くなるばかりだった。
「えっと、何かその件でうちの教授がお前さんに話があるって、一時間前くらいに居室に着たんだがなー……や、ちょっと待て。流石にそれをやられたら俺だって、ダメージ食らうっというか、駄目千切れちゃう! だって、お前がふらりと飯食いに行くのが悪いんじゃ、アッーーーーー!」
「……」
取り敢えず、制裁を加えておき、私は教授室へと向かう。
彼の黒体にダメージを与えた眼鏡ケースは隣のボブのものだった。ボブ、申し訳ない。
鉛色の雲が澄んだ青色の空を吹き飛ばして、自己主張していた。どうやら、あの中には弾丸を大量に抱えているそうで、二十分後には大学周辺地域を絨毯爆撃するそうだ。車に搭載されているDSDが自慢げに教えてくれた。
教授室に向かった私を教授は遅いと一言愚痴を洩らし、口早に一つの指示を与えた。人付き合いが上手くなかった茶別教授は他の研究者や研究室と連携する事は殆ど無く、大概の研究は一人で行っていた。そんな教授であったが、うちの教授とはそれなりの仲だったようで、あるアルゴリズムに関する連携を取っていたらしい。そのアルゴリズムを取りに行って欲しい、というのがうちの教授の指示であった。態々亡くなった翌日に訪問するのは如何なものかと思ったが、技術の漏洩を考えれば致し方がないかもしれない。そう思い直すことにした。
そうした経緯で現在は車中の人となっている。
行き先の設定を行い、車の操縦を自動に切り替え、私は暫し思考にのめり込んだ。
自分の仕事の事、教授の欲しがったアルゴリズムの事、そして突然に亡くなった茶別教授、ノエットの事を。
灰色の豆腐を巨大化するとこうなるだろう。
そう思わせる建物が茶別教授の家であった。
鉛色の雲は大学から離れた地域でも健在で、猛然と雨粒を大地に叩きつけている。雨粒に濡れた吹きさらしのコンクリート壁が濃いねずみ色へと変色していく。
敷地内に車を停め、雨が降りしきる中小走りに建物に近付くと、既に扉は開けられ彼女が端然と立っていた。
「こんにちは。ノエット。この度は真に……だね」
「はい。篤望様。有難う御座います」
今日私が発した初めての声に、ノエットは愁いの表情をかすかに滲ませ挨拶する。仕えるべきマスタが亡くなろうとも、メイド服を外す事無く、瀟洒に彼女は在った。
ノエット。not yet。
あの日、『答』を持ち合わせていないと仰った我が先生、茶別駆が完全なる『人間』と見紛う程に作り上げた彼女。
「未だ至らない?」
私と彼女だけに通じる挨拶。
彼女から差し出されたタオルで被った雨粒を拭い、茶別家の敷居をまたぐ。小走りの間にも雨粒は容赦なく私を襲っていた様で、タオルはじっとりとその存在感と湿り気を増していた。
「……」
「ノエット?」
瀟洒な彼女の事だ。常の通過儀礼をあっさりと、「ええ、まだです」と返すものだと私は期待していた。先生が亡くなってしまった、という突然の事態に通過儀礼だけでも何時も通りでありたいと願う。ただそれだけだったのだが。
彼女は初めて見せる泣きそうな顔で
「至ったと」
「……え?」
「私は至ったのだとドクタは言い遺されました」
『至った』事を嬉しく思う素振りも見せず、私に返した。