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竜の丘の茶藝館  作者: 小津 岬
第二話
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現を夢に溶き流し(二)

 娘は阿沙(あさ)と名乗った。

丸みを帯びた骨太な体つきはいかにも丈夫そうだが、顔を見れば心配ごとに囚われているのがありありと分かる。

「阿沙さん、坂道でお疲れになったでしょう」

と、ロクハが小さな杯を差し出す。梅蜜の水割りは甘く芳しいが、客人の緊張を解くには至らなかった。

「平気です。私、脚が強いから……」

 とつとつと答えて、彼女は機械的に杯を手に取った。飲みたいというより、そうしないと失礼だからといった様子で。これから明かされるであろう何かを恐れているようだった。冥狐は張り詰めた肩をさすってやった。

「まあまあ気楽に、気楽に。ロクハさん、先生はご準備できまして?」

「はいあちらに。リン先生、どうぞ」

 ロクハは奥に向かって可愛らしく声を張った。控えの間(ということになっている厨房)から、今日限りの主が姿を現した。髪を下ろし勾玉を首にかけた少年は、さっさと阿沙の前の席に腰を下ろした。

 驚いた阿沙はつい隣の冥狐を見たが、彼女はそ知らぬ顔で頭を下げた。

「この度はあたくしの力及ばずお出まし願うことになりまして、申し訳が立ちませんわ」

「阿沙、とか言ったな。探しているのは男か女か」

 リリンは冥狐を無視して事を進めた。なにせ、彼女が強く推した挙句のリン先生なのである。ごく自然に偉そうな空気を出せると言って。

 彼の仏頂面を自信の表れだと取った阿沙は、納得した様子で少しずつ話し出した。

「男の方で、壬得(じんとく)さんといいます。私の地元に仕事でやってきて知り合って、その……」

「地元と仕事とは?」

 これじゃあ取調べみたい。一歩引いて見守るロクハははらはらしたが、当の阿沙はかえって信じ込んでいるらしかった。

区辺(くべ)の村です、西の端の。海にも川にも近い所で、あの人は水辺の生き物を調べに来たんです。上に先生がいて、その研究を手伝っているって。普段は私塾で教えて生計を立ててるって言ってました」

「蛍雪の助手といった感じだな。老師や塾はどこの何と言うんだ」

「ええっと、内地から来たとは聞きましたけど……」

 リリンの問いかけに阿沙は言いよどんだが、三人が浮かべた疑念に気づくとむきになった。

「嘘じゃないと思います。川魚のことなんか何でも知ってたし、分かりやすく教えてくれて…… でも偉ぶったところは全然なくて、逆に区辺の海について教えてほしいって。とても優しい人なんです」

 まだ水の冷たい、一月の半ばだった。浜辺で網をつくろっていると、見知らぬ青年がふらりと現れた。数歩進んではしゃがみ、熱心に何をしているかと思えば足元のやどかりを追ってきたらしい。

阿沙がいることに気がつくと、壬得は彼女に向かって照れ笑いを浮かべた。その様子に阿沙もつられて笑顔を返した。

「こんにちは。それは漁の網ですか」

 彼は阿沙の手元を興味深く見つめた。濃い眉の下の目が輝いている。彼女は自分の荒れた手を恥ずかしく思いながら、ごまかすように明るく答えた。

「はい、河口で使ってたら、この前の大水で破れて。おんぼろ網ではしょっちゅうなんで、もう慣れてしまいました」

「ああ、ひどい大雨がありましたね。しかし上手い縒り方だなあ、不器用者には魔法のように見えますよ……」

 浜の無口な男たちと違って、壬得はよく喋り朗らかに笑った。二人はたちまち打ち解け、阿沙は毎日のように浜辺にやってくる彼を心待ちにするようになっていた。

 しかし半月ほどして、壬得が突然言った。

「実は、新設する塾に人手が足りないと知らせが来たんだ」

 手伝いに駆り出されることになったので、急いで出発しないといけないという。船べりに腰かけた彼は、広い海を見つめてしょんぼりとしていた。阿沙の心もずんと重くなったが、精一杯元気に振舞った。

「壬得さんといると、楽しかった。落ち着いたらまた区辺に来てね」

 恥ずかしさと遠慮とで、会いに行くとは言い出せずにいた。彼女の言葉に、壬得はようやくいつもの笑顔を見せた。

「行き先は乃鞠の近くらしいんだ。着いたら手紙を書くよ」

「本当?」

 思いがけない申し出を聞いて阿沙の心は躍った。そしてそんな自分がすぐに恥ずかしくなり、

「簡単に書いてね、読めないかもしれないから。なんなら絵でもいいよ」

と笑った。壬得も笑い声を上げたが、別れ際には真剣な調子でこう言った。

「阿沙さん、ありがとう。私も楽しかった、本当に」

 その時のまっすぐな瞳を、どうしても忘れられなかった。

 そう語りながら、彼女は目の縁を赤くした。ロクハがそうっと尋ねた。

「お手紙は届いたんですか」

「いいえ…… ふた月待って、何か分かるかと思って乃鞠に来たんです。でも塾も見つけられなくて、大通りならひょっとしてと」

 うなだれた阿沙の後を、腕組みしたリリンが引き取った。

「区辺からじゃあ急いでも十日はかかるだろうに、よく辿りついたな。資金はどうした?」

 今度は役所の手続きのような問答だ。

「道々、荷馬車に乗せてもらう代わりに力仕事をしてきました。漁で身体を使ってるので全然苦じゃないんです。親は騙されてるんだって怒ったし、村の人には笑われました。言い交わしたわけでもないのにって……」

「けど、どうしても心配なんですものねえ」

 冥狐がひどく優しく声をかけた。顔を赤くしながらも、阿沙はしっかりとうなずいた。

「話はわかった。始めるか」

 リリンが合図を送ると、ロクハがしずしずと茶道具を持ち出した。不意をつかれた阿沙がぽかんと口を開ける。

「こちらの専門は茶占い。茶葉の躍り方、開き具合を読むのですわ」

と冥狐が間を取り持つ。リリンはさっと立ち上がって準備にかかった。茶葉棚の前のロクハに歩み寄り、小声で告げる。

「任せたよ、姉さん」

「うん、やってみる。海風と太陽と、砂……」

 彼女は試験に挑むような顔つきでいくつかの壷を手に取り始める。姉弟は静かに目配せをした。


「ああ終わった! なんて茶番だ」

 扉が閉まった瞬間、リリンは首飾りをかなぐり捨てた。そして髪をまとめながらロクハを振り返る。

「まあ、上手くいったのはよかった。ぴったりの選定だったね」

 占いと称した一服をすすめられた阿沙は、茶の香りに驚いて目を上げた。

「なんだか懐かしいです。いいお茶なんて、全然飲んだことないのに」

 かすかに思い起こしたのは、日なたにある船べりの香り。よく二人で腰かけて話をした場所……

 それは彼女の記憶を誘った。ちょうどそんな場面で、壬得がぼんやりと口にした独り言を思い出したのだ。いつもと様子が違っていたので、その時は気になったという。

 傍流の小蛽(しょうばい)こそ角を留めん。

「何かで読んだ覚えがあるんだけれど。小蛽、貝とは言ってるがうちにそんな本あったかな」

「うう、そういうことは読書家さんにお願いしたいなあ…… 私の頭を振っても文字のかけらも出てこないよ」

 ロクハはどんよりしながら茶器を片づけた。字の詰まった本は彼女の大敵で、店の敷地にある書庫にもほとんど足を踏み入れることがない。

 ではさっそく、と本の城に向かいかけたリリンが、ふと立ち止まった。

「冥狐、あの娘にえらく肩入れしてると思わないか。自分から声をかけてここまで誘ってやるなんて」

 ロクハも手を止めた。柔らかな袖が半端に腕にかかる。

「うん、確かに初めて。でも今は、阿沙さんの件を第一に考えましょう。数日で結果が出るってことにしちゃったものね」

「占い師ってのは因果なものだな。化けるにしてもこれっきりにしたいよ」

 それから数刻。日が暮れたころ、気配を察したロクハが店の扉を開けた。ちょうど走り込んできたのは、一匹の大きな狐だ。歩み寄った獣の背を、ロクハが優しく撫でた。

「お帰り、冥狐さん」

「とんぼ返りじゃさすがに疲れますわね。あたくしも歳をとりました」

と狐が答え、慣れた様子で長椅子の脚元にとぐろを巻いた。飾り提灯の暖かい光の下、ふっさりと金色の波が打つ。

「あの独り言から、何か分かるでしょうかしら。何でも手伝いますわ」

 意気込んだ狐に水を張った器を差し出しながら、ロクハはじっと相手を見た。確かに普段の様子とは違うようだ。熱が入っているというか、我が事のように心に掛けている。

「虫でもついてます?」

 狐は目をぱちくりさせた。ううん、と小さな主は笑顔で首を振る。

 この優美な化け狐との付き合いは、それほど長くない。出自についても北方から来たということ以外は何も知らなかった。

 しかし望まぬものをあえて聞き出すこともない。冥狐が必要とすれば、いつか自ら語ってくれるだろう。その時が来るとは限らないが、知らずに終える道もあるものだとロクハは考えていた。そして物事をあるがまま受け入れるこの能力こそが、彼女を茶藝館の主たらしめているのだった。

「お夕飯、一緒にしましょう。ちょうどできるから」

「あらまあ、おねだりに来たのがばれてしまいましたわ」

 相好を崩した冥狐だったが、物音がしてつと首を伸ばした。リリンが廊下からの戸を押し開けながら、一冊の古書を掲げていた。

「見つけた、傍流の小蛽。“科運記文(かうんきぶん)”の一説だなんて、あの男ただの田舎助手じゃなさそうだぞ」


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