竜を断つ者・後編(五)
あらゆる光を集め飲み込む闇。そのただ中で開かれた両の眼は、透明な黄緑の色に輝いていた。
牙骨丘へ来るときに見たのと同じ。ロクハは手を強く握り合わせて天を見上げる。
竜は巨大だった。目に入るかぎりの空をおおってしまうほどの翼。ゆっくりと頭を下げるにしたがって強烈な風が巻き起こり、容赦なく地表を襲った。少女の身体が大きく揺らぐ。
そこへ、一角の獣が静かに寄り添った。
「吾、今ひとたびそのものと相対し、古き争いの主と語らん」
争い?
思いも寄らない話を聞き、ロクハは驚いて一角を見つめる。しかし言葉を継いだのは影の竜だった。地鳴りのような声が空気を震わせた。
「地の白星か。その命、とうについえたと推したが……」
「否。汝が爪に裂かれども、吾死せず。長き眠りに傷を癒し、天の緑星落つを待ちぬ」
勇ましい答えにあい、竜の瞳がさらなる光を放った。
「ドラクペルティカの借りを返そうと申すか」
「留爪丘の!?」
ロクハが思わず上げた声は天に届き、竜は少女へと顔を向ける。一角が立ち上がる旋風から彼女をかばった。白い身体はひんやりとして生命を感じさせないが、確かな意志が宿っていた。
「我が魂の欠片よ。なぜその名を知る」
真っ向から視線を交わすと、その尋常でない大きさが改めて迫ってくる。あまりの圧力にロクハは恐怖すら忘れ、一生懸命に声を張り上げた。
「私はここで茶屋を開き、お客人を迎えていました。そこで色々の縁が重なって、伝え聞くことができたのです」
黄緑色の眼がすうっと狭まった。まさしくこの牙骨丘が起き上がったような顔、姿だ。
「留爪丘は、我が時の流れから削り取ったはず…… なにをした、地の白星」
と、竜が一角に問う。
白い獣は「吾にあらず」と冷たく答えた。
「その名は野生の血脈に。汝の爪よりこぼれし、小さきものにこそ伝わらん」
ふたりを交互に見ていたロクハだが、意を決して懇願した。
「どうか教えてください。留爪丘でなにが起こったのですか? 私の前に欠片を守っていた方が、そこにいたのでしょうか」
影の竜はしばらくのあいだ考えていた。ロクハはどきどきしながら待つ。大いなる存在にとって彼女の願いなど取るに足らないものだ。一瞬で払いのけられ、この身を奪われてもおかしくない。
しかし、竜は重々しく口を開いた。その声音に少しの苦みを含んで。
「留爪丘では、数多くの守が欠片を共有し、力を得ていた」
「それは…… あなたが与えたのですね」
少女が問いかけると、過去を見据えた竜はゆっくりとまばたきをし、光と影があたりをさまよった。
「ことの始まりは、なお遠い。かつて、人と妖が等しかった時代がある」
「人と、妖が?」
つい見上げると、一角はロクハと視線を合わせるように顔を向けてきた。自身の源流が、この獣や玄たちと同じところから来ていたとは。
「我は塒として二つの山を造り、川を治め、地を均した……」
己の影のようなドラクグリーフと、険しく雄大なドラクペルティカ。大河の流れを聞き素朴な生命たちを庇護する。穏やかな時間をもはや数えることもしなかった。
しかし決別の時が来る。
小さき者たちはみずからの手で国を作らんとした。支配者はそれを許さず、戦いが始まる。
竜は皮肉を込めて言い放った。
「お前はあの時も筆頭に立っていたな。白星の燃ゆに衰えなしとみえる」
牙骨丘で奇襲にあった竜の魂は砕かれ、いくつかの欠片が留爪丘へ落ち、そのまま隠された。反乱者たちも多大な代償を払ったが、竜をしりぞけ初めて自由と権利を手にしたのだった。
「それが、今の世の成り立ち……」
ロクハが呟くと、一角が静かに答えた。
「吾、新たなる世の到来を欲し、汝らに賭せり」
「そして選び違えたのだ。人間どもはどうなった? 妖とも道を分かった末、この地を…… 我が築いた安寧を汚し、争いつづけたではないか!」
深い傷を負った竜は、数百年のちに目覚め舞い戻る。先の戦いを伝え聞く留爪丘の民たちは大きく揺らいだ。
「魂の欠片を返すべきだ。みなを失いたくはない」
「しかし、我らが竜にひざまずけば人の世が終わる。これまで築き上げたものを、太古の犠牲を無に帰すというのか!」
ふたたび闘うことを選んだ彼らは、一角に助力を乞い激しく抵抗したという。だが竜は魂を取り戻し、その爪が歴史からえぐり取った。留爪丘とそこにいた者の存在を……
綻びはないはずだった。
しかし最後の一瞬、彼らは持てる力を振り絞り、仲間の一人を時のはざまに送り出していたのだ。たったひとつ残っていた小さな欠片を託して。
イスイ。やっぱり留爪丘から来たんだ、とロクハは彼の面影を浮かべる。戦いを逃れ身を削り、欠片に耐えうる新しい守を…… 私を見つけた。
「けして抗ってはいけない」
幾度も説かれた約束は、孤独な旅のはてに悟った答えだったのだろう。
いつの日か、竜は必ずやってくる。どれだけ犠牲を払おうと大いなる力を討つことはできない。争いこそがあやまちであり、はじめから従うほかに道はなかったのだ、と。
「愚かなことだ。この翼の下にあれば平穏でいられたものを……」
噛みしめるような言葉は素直な響きを持っていた。ロクハは、竜が抱いていた確かな愛情に触れた気がした。
しかし、追想をはねつけるような冷気が襲ってきた。
「遠き日は戻らぬ。もはや過去など必要ない」
咆哮が世界を揺るがす。一角に包まれながらロクハは身をすくめた。小さな身体に雷鳴のごとき声が注がれる。
「さあ、今こそ我らは欠くものなき存在になる。そして新たな世を統べるのだ!」
すさまじい圧力にぎゅっと目を閉じたとき、
「瑕なき玉のこの世に在らず!」
と、一角の凛々しい声が空を割って響いた。氷の目が清らな光をたたえて影を見上げていた。
「天の緑星、小さきものを見よ。今こそつながれし思いに触れよ!」
「この期に及んで邪魔立てか!」
轟く一声とともに刺すような風が吹きつける。大きな力の流れがぶつかり合った。
すがりついていた妖の身体が少しずつ塵と化していくことに気づき、ロクハは悲鳴を上げた。一角が苦悶の声とともに首を反らせる。その姿をとどめようと少女が両手を伸ばすが、霧を抱くがごとく感触が失われた。
「雪ちゃん!」
風に散ってゆく姿は、呼ばれた名のとおり穢れない雪のようだった。
「ああ……」
少女の腕が虚しく空を抱く。白い輝きは消え去り、荒れ狂っていた風がぴたりと止んだ。
薄闇が一転し、あたりは閃光に照らされる。翼をはためかせた竜が天命を下した。
「我が最後の欠片よ。時のへだたりを越えこの身に還るがよい!」
ロクハは避けなかった。迫りくるものをとらえようと必死に目を開き天を見上げる。そして、大きな波が届いた瞬間。
「待て……!」
新たな声が光を裂いた。
「ちくしょう、どうなってやがるんだ!」
と、玄が闇に包まれた道の先をにらむ。隙間を探していた早矢が上空から戻ってきた。
「だめだ、どこも閉じてる。リリンは?」
「まだ見えないが、これじゃあ下りるにも下りれないかもしれねえ…… どうするか」
彼は青ざめた顔を傍らに向けた。乙矢に介抱された冥狐は、獣の姿でなんとか立ち上がっていた。
「冥狐、気力は残ってるか。お前たちも」
問われた三人は玄の目を見て強くうなずいた。彼は、よし、と呟いて大亀の姿へ戻る。そして小岩のような甲羅から仲間をふり返った。
「俺が盾になる。当たって砕けるかもしれんが、力を貸してくれ」
返事の代わりに鳥へと変わった乙矢が、「あたし目になる! なんか飛んできたら言うからねっ」とまっさきに背中へ飛び乗った。彼女はもう待っていられなかった。見守ろうと誓いはしたが、こんな状況を前にして誰が律儀に引けるものか。
「頼むぜ、乙矢。しんがりは早矢で、冥狐は俺の後ろにつけ。大丈夫か?」
「ええ。少しでも側にいられるなら、たとえ消えても……」
そう呟いた化け狐を鳥がつっつく。
「なにも消えやしないさ。花丸保証だやね、この俺が」
いい加減なこと、とかすかに笑った冥狐だが、小さな声で「ありがと」と返した。
「みんないいか。行くぞ!」
玄の勇ましいかけ声とともに、妖たちは一丸となり深い闇へ向かっていった。
そのとき、ロクハは光の渦の中にいた。
懐かしい光、竜の御魂の色。
顔にかざした指先が透ける。身体の境目がなくなって、溶け出していく。しかし、なかば竜と同化しながらも彼女は確かな感覚を保っていた。
あれは……?
張りめぐらせた壁がどこかで激しく揺れているのがわかった。誰かが破ろうと、ここにやって来ようとしている。
私はあの人たちを知っている、そのはずなのに。
「もはや、必要のないこと」
それは今や彼女自身の声でもあった。生まれたときと同じ真っ白な気持ちで、彼女は尋ねる。
「でも、最後に名前を呼びたい。どうして忘れてしまったのかしら、とても大事なのに……」
「忘却は過程に過ぎない。恐れるな。我を埋める欠片として心をゆだね、不変の安寧に眠るがよい」
その言葉は深く優しかった。遠く離されていた一部を迎え入れようと、慈しみにも似た響きを持っていた。このまま従えば、私はなににも煩わされない満ち足りた存在になれるだろう。
けれど。
飲み込まれる直前のたった一瞬、私を両側から支えてくれた。もう会えないと思っていた大切な人たちのぬくもり……
なくしてしまうの?
「待って」
彼女は必死に叫んだ。
「魂も身体も、全部あげる。だから、心も受けとって。私の代わりにあなたが持っていて!」
瞳があれば涙が流れ、両手があれば祈りに組まれただろう。しかし彼女はすでに形を失っていた。それでも精一杯の声を上げる。
「たったひとつでもいい。消してしまわないで、お願い……!」
彼女は奪われるより早く与えていた。
天と思しき方向へすべてを差し出したと同時に、訪れた光がなにもかも包み込んだ。




