竜を断つ者・後編(二)
重い足をひきずり、東青は大きな街道からあぜ道に入った。
あれだけの人の力を借り、運にも恵まれたのに、首都への旅は徒労に終わってしまった。博物荘では貴重な史料の細かな記述を確かめられたものの、翼ある竜の影はどこにも見当たらなかったのだった。
せめて噂の切れ端だけでも、と都のあちこちで聞き込みもした。が、手がかりどころかまともな返事もかえってこない始末で、彼は失意のうちに首都を離れた。
次は、どこへ?
考えは何一つ浮かんでこない。真っ白になった心には、ずっと追いやっていた不安と諦めが忍び寄っていた。
気づけばもう五月になってしまう。学生だったころ、初めてロクハに出会った特別な季節。私はそれを絶望のうちに迎えることになるのか?
彼は、伏せていた目を上げた。
身を凍らせる風、冬の息吹がふきつける。深い木々と藪がざわざわと揺れる。ああ、と東青は空を見上げる。
ここは牙骨丘だ……
ゆるやかな坂を上りきった場所に茶藝館が、いや、すでに閉じられた店が見えてきた。看板の外された跡を目にして、恐怖に襲われた東青は激しく扉を叩いた。
「はい」
小さな声とともに戸が開いたと思うと、顔を出したロクハが大きな目を見張った。
「東青様……!」
彼女を顔を合わせた東青は、安心のあまり膝からくずおれかけた。慌てた少女が彼を支え、やっと言葉をつぐ。
「どうなさったのですか! 早く中へ」
そう言いかけたロクハの手を取り、東青がすがるように呟いた。
「あなたと共に生きたいのです」
少女は弾かれたように青年を見上げる。切実に焦がれた瞳が彼女を見つめていた。ここへ来るまで彼がなにをしていたのか、ロクハはすぐに悟った。信じられないといった面持ちで、優しく手を握りかえす。
「道を、探してくださったんですね」
「しかし成りませんでした! なにも見つけられずにここまで……」
苦しげに声を震わす東青の瞳から透きとおった涙がこぼれた。ロクハは彼を包み込まんと腕を伸ばし、両肩に手をかけた。
「いいんです。それだけで、私は……」
必死に微笑んでみせると、東青は言葉を失って首を垂れた。その頭を抱き、ロクハは目を閉じる。
ずっとこうしていられたら。そう思いながらも、やがてそっと腕をほどいた。
「そのお召し物では寒かったでしょう。すぐにお茶を淹れます」
目じりと鼻先を赤くした東青は、たったひとつ残された卓に静かに座った。物が取り払われて広くなった床に、思いがけず強い冬の光が陽だまりを作っていた。
彼の飢えと渇きを見抜いたロクハは、大盆に乗せられるだけの食物を乗せ、慎重に運んできた。白湯の碗をすすめつつ東青をのぞき込む。
「リリンが話したんですね。口止めしたのに、あの子ったら」
ちょっとおどけたふうに言われると、彼は弱々しく微笑んだ。
「御山祭の席で…… 彼も、あなたを救おうとしたのでしょう」
「ええ、以前は。さだめを受けいれようと話してからは、ひたすらに私を支えてくれました」
当の弟は使いに出ているらしい。ロクハは湯を満たした急須を持ってくると、東青の向かいに腰を下ろした。
「東青様。少しだけお話したく思います、私のことを……」
彼らを牙骨丘につれてきたイスイという男は、幼いロクハに辛抱強く説いた。
「竜がやってきたら、けして逆らってはいけない。問われたなら答え、求められたら差し出すのです。それが人々を守ることになる」
香りの立ち上る茶杯を両手で包み、東青が顔を上げた。
「差し出すというのは、それはあなたの……」
命、という言葉を飲み込んだ彼に、ロクハは微笑みかけた。
「イスイは、私に竜の魂のかけらを預けたのです。牙骨丘に来て以来、この身に隠し守ってまいりました」
驚くべき告白のはずだが、東青は呼吸をするように納得した。大いなるものはみずからの一部を取り戻しにくるのだ。
「魂と私は溶け合って、もう境目もありません。それをすべて捧げることが彼から託された使命です」
欠片とともに得た力が衰えたのは、魂の本来の持ち主が近づいている証。店を閉じた今、彼女は静かにその時を待っている。
そう語るロクハは落ちついていたが、東青の心はふたたび波立っていた。
「しかし、突然そんな運命を与えられるなんて…… あまりに理不尽です」
卓の上でふたりの視線がぶつかり合う。ロクハの瞳に不思議な色がゆらめいたように見えた。
「世界の本質は、きっとそういうものなのではないでしょうか」
彼女が呟き、東青の心臓は大きく鳴った。
「だからこそ…… 生きるものが懸命に守る道理が、尊く愛おしいのだと思います」
まばゆい微笑みを受けた彼はもう一度泣きそうになった。
運命に抗って、ずっと共にあってほしい。だが、どんなことも受け入れられる彼女だからこそ選ばれたのだと痛いほどわかった。
照れ隠しなのか、ロクハは元気よく焼き菓子へと手を伸ばした。東青にもすすめてから「そうそう!」と声を上げる。
「リリンから、東青様が調べてくださったことを聞きました。留爪丘と牙骨丘は、同じ役割を持っていたかもって。おかげで謎がひとつ解けたんです」
最後の客人…… が連れていた馬が、ロクハたちを“留爪丘の守”と呼んだという。魂の欠片は、おそらく長いあいだ留爪丘で守られていたのだ。そのため、欠片を持つ彼女もそこに属するものと判断されたのだろうと姉弟は考えた。
「イスイも留爪丘から来たか、そこにいた人々を知っていたのかもしれません。彼はなにも語りませんでしたが」
幼かったにしろもう少し聞いておけたらよかった、と苦笑したロクハに向かって東青が尋ねる。
「その方は、それからどうされたのですか」
「一緒にいたのは短い間でした。私をつれて来るのに無理をしたんだと思いますけれど、どんどん弱ってしまったんです。心配していたら急に姿を消してしまい、代わりの世話人だというものが……」
紫瀬と名乗ったみごとな銀髪の老婆は、「イスイは遠いところへ帰って、もう戻らない」と告げた。なんだかんだで彼に懐き始めていた姉弟は大泣きしたが、からりとした紫瀬はさっさと新しい日常を作り上げた。
ただの雑草地帯だった中庭に小さな畑を作り、幼い二人にも家事を教え、ふもとから種々の食材を仕入れ…… その中にはお茶の葉も入っていて、ロクハたちはお茶屋さんごっこに精を出したという。
「私とリリンにとっては、紫瀬がはじめてのお客さんなんです。淹れ方もなっていなかったのに、いつも喜んで飲んでくれました」
お茶を飲み、歌をうたい、晴れたら沢に遊ぶ。三人の暮らしは賑やかで楽しかったが、やはり長くは続かなかった。老齢だった紫瀬も数年足らずで山を去ってしまったのだ。
ただし。置き土産がごとく、気のいい大亀を店に導いてから。
「玄さん!」
思わぬ名前を聞いて、東青は目を丸くした。
「その紫瀬さんと玄さんは、お知り合いだったんですか?」
「いえ、蛇に呼ばれたと…… それで私たち、紫瀬は大蛇だったんじゃないかって思ってるんです。手があるのは便利だねってよく言ってましたから、あれを書いてくれたときも」
と片すみに立てかけた看板を指す。すでに去ったものたちが交わした約束を知ることはできないが、書かれた字からは幼子への温かな思いがうかがえた。
「あっ、そのころの玄さんはお顔がつるつるだったんですよ! お髭のないほうがいいってずっと言ってるんですが、これだけは聞いてくれませんでした」
屈託のないロクハにつられ、東青もようやく自然な笑みを浮かべた。
「今いる方では、玄さんが一等古い友人なんですね」
「はい。いっぱい困らせて、いっぱい遊んでもらいました。お店の準備でも頼りっきりで」
ごっこではなく茶屋をやりたいと言ったとき、玄は喜んだという。閉じられた山にあって、少しでも外からの風を受けて欲しかったのだろう。
初めのうちはただお茶を供していた。だが、次第にあることに気づく。店に来るものは、誰しも心になにかを抱えて迷いついていた。
そして彼女は、宿命と共にさずかった力をもってささやかな手伝いを始めたのだった。
「私、お店を開いて本当によかったです。早矢に乙ちゃん、冥狐さんとお友だちになれて、人里のお客様も本当にたくさんの方が来てくれて。それに……」
言葉を切った彼女は、恥ずかしそうに東青を見つめる。
「あなたに出会えました」
大好きな人がたくさんいて幸せです、とロクハはにっこり笑った。その目じりに、涙の粒が輝いていた。




