薄氷の彼方へ(六)
あの人に会えるのは短い夏の間だけだった。
私を抱き馬を駆る母さんは、いつも嬉しそうだった。集落ではけして見ることのできない、まぶしいくらいの笑顔。
記憶の逆流は止まらない。岩場が見えてくる。夏草で青く染まる丘、小さな白い花が星のように咲く。裏手のくぼんだ岩陰にあの人が座っている……
「キアラ、大丈夫か」
心配そうに声をかけられ、彼女は我に返って手をふり払った。
「触るな! 貴様、なぜ私の名を……」
いけない、と自分自身に叫ぶ。聞いてはいけない、これ以上この男に関わってはいけない。
「忘れるわけがない」
セブが呟いた。
「イルシが考え、俺が選んだ。大切な者の名前だ」
キアラは、過去を打ち消そうと激しく首を振った。
「そんな嘘を…… 母さんを、死者をこれ以上はずかしめるのは許さない!」
「キアラ、亜族の勇士よ。俺を殺すんだ。そうすればすべて嘘になる」
彼はそう言って両手を広げかけた。
その片方の手の動きがぎこちないことにキアラは気づいてしまう。さぞかし深い傷が残っているであろう、かつて切り離されかけた手。
遠い夏の光の下、母子をかばって伸べられた右手だ。
「イルシ、逃げろ! キアラを頼む……」
その言葉を裂くように振り下ろされた半月刀。柄を握っていたのは、父…… 今この瞬間まで父だと思っていた男だ。妻の裏切りを知って怒りに燃えるどす黒い顔を、あの日キアラはたしかに見た。
犬の吠える声、悲鳴。そして静寂。
なにもかも終わったとき、小さなキアラは草の上に転がっていた。母を貫いたのと同じ刃が近づいてくるのをぼんやりと見上げながら。
しかし新たな蹄の音に乗って「タール、どうした!」と仲間の声が響くと、半月刀は素早く鞘に収められた。
妻の亡骸と凍りついた幼子とともにタール・ハンの馬は集落へ戻ってきた。什族に襲われたと彼は言い、それを疑う者は一人もいなかった。
キアラは半月刀を取り落とした。
頭が真っ白になったまま身をひるがえす。夜は去りつつあって辺りは仄明るい。厳しい冷気の中を彼女はひたすら駆けた。
「ユトゥ!」
愛馬は現れなかった。指笛を吹こうとしても手が震えてしまう。やっと林に辿りつくと、灰色の馬は恐怖に顔を歪める主人をまっすぐ見据えていた。よじ登るように鞍に上がり、急いで手綱を引く。
だが、馬は彫像のごとく立っていた。
「どうしたのユトゥ、早く出発を!」
平静を失った声に涙が混ざり始める。騎手が焦ってもユトゥはかたくなに動こうとしなかった。
今ならまだ間に合う、とキアラは必死で手綱を繰る。早くこの場を離れなくては。彼が追ってきたら、もう一度あの手に触れてしまったら。
すべてが変わってしまう。
「進んで。お願い……」
彼女は両手で顔をおおい、馬の首に伏した。
やがて、泣きじゃくるその肩を大きな手が不器用に包んだ。
「キアラ、すまない」
そう語りかけるセブもまた、涙を流している。
「俺は守れなかった。イルシも、お前も……!」
葉を失った木立に陽が差してゆく。ひとつの悲しみに寄り添う父娘の姿が、清廉な朝の光に洗われていった。
あっ、とロクハは顔を上げた。
異国の客人がやってきてから数日が経った、とある午後。縁側に腰かけ豆の皮むきをしていたときのことだった。
今わかった。あの灰色の馬、ユトゥの願いが叶ったと確かに感じた。
「キアラさん。よかった……!」
それと同時に、残っていた勘がすうっと消えたことも感じ取っていた。眠る前に目を閉じたときのように彼女の力は完全に失われた。
しかしロクハは、晴ればれとした顔で青空を見上げた。
最後のさいご。私、ちゃんと役に立てた!
リリンが帰ってきたら一番にこの結末を伝えよう。きっと彼も喜ぶはずだ。素直に、とはいかないと思うけれど。そうしてこの気持ちを分かちあったなら……
店を閉める準備を始めよう。
彼女個人の力とは別に、牙骨丘を包む力は作用し続けているようだ。どこからか人が迷い込むこともあるかもしれない。そんなとき、古い平屋に住む姉弟は静かにふもとへの道を教えるだろう。ただ、それだけだ。
中庭を見渡したロクハは、誰にともなく、
「……ありがとう」
と呟いた。
さて、冬だろうが実るものは実る。
そう言わんばかりに茂った畑の、あぜ道の果て。粗末な小屋の前でリリンの心は重たくなった。
派手にケンカをした方がまだましだった、と彼は扉を見つめる。あのお人よしもさすがに歓迎しないだろうが、姉さんの頼みだから仕方ない。
観念して戸を叩こうとしたとき、ばたばたと足音が聞こえてきた。振り向けば、今きた道をまさに東青が走ってくるではないか。
「リ、リリン君っ……!」
何度かつんのめりながらも彼は辿りつき、あわあわと何か言おうとした。うまく口が利けないのは全速力を出したせいではなさそうだ。顔は引きつり、青ざめている。
少年は無表情に問うた。
「なにを勘違いしているんだ」
「わ、悪い知らせかと…… 違うのかい!? よかった……」
地べたに崩れ落ちる彼に向かって深いため息をついてみせたリリンだったが、心のうちでは東青の変わらぬ態度にホッとしていた。
そして不本意ながら、姉さんとこいつには確かに似たところがあるな、と考えているのだった。
国をつらぬき走る大河のひとつ、井筒川。その広い河口に翼の影が差した。一羽の大きな鳥が浜辺へ向かい滑空していく。するどく急降下した先、波打ちぎわに一人の男が立っている。
「ここだ」
と玄が挙げた手を無視して、早矢は坊主頭にとまろうとした。
「痛っ、やめろってんだこの嘴野郎!」
「お前も教わったろ、男なら高みを目指せってね」
そう返しつつ早矢は肩へと下りる。寄せる波しぶきと潮の香りの中、玄が顔をしかめた。
「ふざけてる場合か。首尾はどうだった?」
「や、悪い。片っぱしから当たってみたが、目ぼしいことは何も」
そっちも似たようなもんだろうと尋ねられ、玄は不承不承うなずいた。
「水底のやつにも会ってきた。なにも知らないし、人の世のことは人に任せろとさ。取りつく島もねえ」
「そうかい」
一人と一羽は無言で沖を見つめた。冬の陽に輝く海原は、ただ茫洋としてよそよそしく思えた。
「主どのは、俺らがこそこそしてんのを知ってるやな」
「ずっと釘は刺されてる。どうか危ないことはしてくれるなって」
あの子はよくわかってる、分かりすぎてんだと玄が呟いた。だからこそ選ばれたのだろうが、長く見守ってきた彼としてはやりきれない気持ちだった。どうにか助けたいと走り回ってきたが……
「……せめて、そばにいようと思う」
「結局、それが俺らに残された恩返しかね」
早矢も静かに同意する。海に住む友がごつごつした手で目じりをぬぐうのを、鳥はなるべく見ないようにしてやった。
ひとつ頭を振ってから、玄は息を吐き出すように言った。
「帰るか」
「おう、帰ろうや。われらが牙骨丘に」
玄は、早矢を乗せたままゆっくりと歩き出す。砂に残してきた長い足あとが、冷たい波にさらわれ消えていった。
(第十話 了)
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
第十一話は最終譚の前編となります。




