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竜の丘の茶藝館  作者: 小津 岬
第十話
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薄氷の彼方へ(五)

 凍てつく闇に身をかがめ、キアラは岩場の先を凝視していた。

 ついにつきとめた。低い丘陵の石室(いしむろ)になっている場所に粗末な木戸があり、そこが男のすみかだった。

 じきに朝が来る。彼女は待っていた。男が目を覚まし、戸の隙間から光がもれ出でるのを。

 夜に乗じて終わらせてしまうには憎しみはあまりに深すぎた。やつは成長した私を見、おのれの罪を悔いて死なねばならない。はるか後方からユトゥが見守っている。そして、家では父が待っている。

 私は一人じゃない、と息を吸ったとき、待ち望んでいた瞬間が訪れた。かすかな明かりを見逃さず岩陰を飛び出し、走りながら半月刀を引き抜く。

 わずかに動いた戸を乱暴に引き開け、キアラは刀をつき出した。

「我が仇、セブ! タール・イルシの命を償い……」

 言葉が途切れた。

 小さなろうそく灯の光の中で、什族の男が立ち尽くしている。綿を入れた長い上着に幅広のズボン。布でぴったりとおおった頭。目の下を一文字に走る刺青(いれずみ)…… なにもかも、亜族であるキアラとは違っている。

 しかし。

 彼をひと目見て、キアラはここへ来たことが間違いだったと悟った。

 向かい合った二人の顔は、敵対する部族の装いでありながらとてもよく似かよっていたのだ。

 過去が音を立てて崩れ始める。セブは、幻を見たような面持ちで片手を挙げかけた。

「う、動くな!」

 真っ青になったキアラが半月刀を向ける。彼女は混乱と絶望でぐちゃぐちゃになった頭を必死に叩き起こした。

「母の命を返してもらう」

 震える声でやっと告げた。セブのベルトには短剣が下がっているが、彼はそれを取ろうともせず彼女を見つめる。やがて、

「……ああ。そうだな」

と、噛みしめるように呟いた。

「俺を殺せ。お前にとって、それが一番いい」

 男の穏やかな口調はキアラを激昂させた。

「知ったような口を利くな! 貴様に何が分かる、この私のなにが……」

 急激に恐怖が込み上げ、叫びそうになった口を押さえる。半月刀の切っ先が揺れ、次いで全身ががたがたと震え始めた。セブは思わず動いた。亜族の娘を支えるために、不自由な右手もろとも懸命に差し伸べる。

「……キアラ」

 戸惑いながら名前を呼ぶ声。たったいま肩に添えられた、大きく温かい手……

 キアラの目が見開かれた。


 もうすぐ短い夏がやってくる。

 什族の青年は、供の犬をつれて沢を渡っていた。この時期になると毛長鹿たちが南から戻ってくる。群れの中には春に生まれたばかりの仔も多く、狩りをするのには都合がいい。

 彼は、じきに成人の刺青を入れることになっていた。一人前の証を受けるからには立派な働きをしなくては、と張り切って弓矢を背負ってきたのだった。

 しかし(はや)る心が伝わったのか一向に獲物に行きあわない。気がつけば、いつもの狩場からかなり外れたところまで来てしまっていた。

 広大な平原に住むいくつかの部族たちは、長きにわたり限られた資源を奪い合ってきた。そのほとんどが敵対関係にあり、縄張りをおかせば何をされてもおかしくない。

 これはいけないと引き返しかけたとき、犬が急に吠え出した。

 サッと緊張が走ったが、鳴き方をみるとどうやら敵でも獲物でもないものを見つけたようだ。指示を迷った主人を待たず、犬は小高い丘の方へ駆けていってしまう。

「トーカ、待て!」

 あっという間に頂上の向こうに消えたと思うと、ちょろっと顔を出してもう一度吠える。来て、と言っているのだ。青年は急いで斜面を上った。

「まったく、何があった…… うわっ!」

 彼は危うく踏みとどまった。丘の裏はえぐれたような崖になっていた。

 その下に人が倒れている。高さはそれほどでもないが勢いよく滑り落ちたのだろう、斜面の凹凸に籠や小袋が散らばっていた。

 目をこらした青年は、声を低くして犬に話しかけた。

「亜族の女だ。俺は助けないぞ」

 言われたそばからトーカは崖を走っていく。この猟犬、頑丈なのはいいがあまり賢くはないのだった。彼は渋々あとを追い、なだらかな場所に下り立った。

 固い土に伏した少女の肩を、こわごわと揺すってみる。血の匂いがしないので安心したが、それでも気が気ではない。誰かに見られてあらぬ疑いをかけられたら困る……

 すると少女が、

「う……」

と身じろぎをした。青年が反射的に手を離すと、仰向けになった少女のまぶたが一気に開かれた。青年が止める間もなく、トーカが嬉しそうに走り寄っていく。

「あっ戻れったら!」

 毛むくじゃらの犬にいきなり顔をのぞきこまれ、彼女は悲鳴をあげて跳ね起きようとした。しかし立ち上がりかけたかと思うと、片足を押さえてうずくまってしまう。

「……歩けないのか?」

 青年が思わず声をかけると、少女は尻餅をついたまま後ずさりした。たったひとりで他の部族の男を前にすれば当然の反応だろう。

 身体を抱き震えている少女を見て、青年は犬を押さえ込みながら煩悶(はんもん)した。

 深く関わるのはどう考えてもまずい。しかし運よく亜族の者が見つけてくれるとは限らないし、このあたりは狼も出る。顔を合わせてしまった以上、放っておくのは夢見が悪かった。

 彼は弓矢と小刀を外して犬の背にくくりつけた。「そこで待て。今度こそ聞けよ」と厳しく言いおき、少女に向かって両手を広げる。

「武器はない。傷つけない、わかるか」

 少女は涙を溜めた目で青年を見ている。長く編んだ髪は乱れ、怯えて引きつった顔にほつれ掛かっていた。頬の片側が汚れていて、ほっそりした面立ちを少し子どもっぽく見せている。

「丘の下まで運ぶ。それだけだ」

 彼がゆっくり手を差し伸べると、彼女は迷いながらもそっと触れた。

 幸い、怪我をしたのは片足だけで、それも折れてはいないようだ。しっかりつかまるように言うと青年は彼女を背負う。這うようにして慎重に崖を上りきり、丘を下ることができた。

 岩陰に優しく下ろしてやると、彼女はかすかに笑みを向けてきた。あいかわらず震えていて強張った笑顔だが、純粋で美しかった。

「籠を拾ってくる。トーカ、守りをしていろ」

 ふたたび丘を上りながら彼は何度も額をぬぐった。気温はまだまだ低いはずが、やたらと汗が流れてくる。おかしいな、と呟くと余計に暑くなってきたようだった。

 集めた持ち物と杖にできそうな枝を渡してやり、彼がすべきことはなくなった。そして静かに身を返そうとしたとき。

「待って」

 初めて、少女が口を開いた。彼女は枝を支えにしてなんとか立ち上がった。

「亜族は恩にそむかない。相手が什であっても…… 私はエリバ・イルシ、あなたの名は?」

 思いのほかはっきりした口調だ。これなら無事に家まで辿りつけそうだな、と青年は微笑んだ。

「俺はセブ、ツグィレ・メ・セブ。足を大事にな」

 名を交わした瞬間に予感がした。きっとまた会うことになる。敵の部族どうしとしてではなく、新たな心を持って。

 彼の予感は当たった。二度目の邂逅(かいこう)は偶然に近かったが、その先は互いが望んで淡い約束を結んだ。同じ岩場で、あるいは場所を変えて、彼らは何度も顔を合わせることになった。

 年をまたいで少し経ったころ、いつものように現れたイルシは髪を結い上げていた。それが婚姻のしるしだとは知っていたが、セブはあえて触れなかった。大事なのはこの平原の一点に二人でいることだったから。

 イルシも同じ思いだったのだろう。いつからか、彼に会いに来るときは髪を解くようになった。彼女の美しい髪は、早馬になびきながら束の間の自由を(うた)っていた。

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