竜紋玉の約束(六)
「あなた、お茶が入りましたよ」
妻の声がして一真は手を止めた。やすりを脇に置いて、立ち上がりついでに弟子たちの手元を確認して回る。
「もう少し深く刻むんだ、箔を乗せたら埋もれちまうぞ。岳はそろそろ磨きに入れ」
「はい、親方っ」
やっと座敷に上がると、妻が笑いながら茶碗を差し出した。
「冷めちゃいますよ」
「なに、いい香りさ。大奥様の七回忌は来月だったな」
「ええ、準備してありますわ」
それを聞いた一真はうなずいて茶をすすった。
あの日以来、先代の領主夫人に会うことはついぞなかったが、彼は変わらぬ感謝の気持ちを抱き続けていた。
夫人は、姪にはかんざしを、その夫となった人には宝剣を贈ったのだった。揃いの意匠を喜んだ若い夫婦は、とある正装の席にそれらを携えて行った。それが大層な評判になったらしく、杜工房には町の人々からの注文が増え始めた。
「庶民相手ばかりでは腕が落ちるぞ」
と忠告する者もいたが、一真はどんな仕事も同じように誠実にこなした。それが更なる人を呼び、今では蘇安でも指折りの名工と呼ばれるまでになっていた。
「真さんにもお嫁さんが来たことだし、そろそろ工房の名を変えても……」
工房と店を増築した時、杜将の妻がこう申し出たが、彼はとんでもないと首を振った。
「ここまで来られたのは、兄貴と姐さんがいたからだ。うちはこれからもずっと杜工房だよ」
暮らしが落ち着いた頃、一真はふと思い出した。竜紋玉を探しに行って出会った、あの茶店の姉弟のことを。
もう一度、礼を言いたい。そう思い立つと気になって仕方なくなり、何とか暇を作り牙骨丘に出かけて行った。品評会からはすでに数年経っていたが、年若い二人はきっと元気にしているだろうと山を見上げた。
ところが、いくら探しても店がない。
焦ってふもとの町で尋ねてみると、人々はみな一様に首をかしげた。
「あんな場所に茶店なんてありませんよ、今も昔も」
「そんなはずねえ、確かにそこの山だ。ずいぶん歴史のありそうな建物だったんだぜ」
何度説明しても同じだった。しまいには、
「沢で転んだとか仰ってましたねえ。頭を打って夢でも見たんじゃないですか」
と胡散臭そうに言われてしまい、それきり彼も諦めた。
そんなこともあったな、と彼は懐かしく思った。本当に色々なことがあったものだ。
「父ちゃん、父ちゃん!」
「真さん!」
店先からバタバタと音がして、息子と兄嫁が走りこんできた。
「なんだい陸清、姐さんまで。揺れるじゃないか」
「父ちゃん、これっ」
息子の手の平には、澄んだ緑色の滴が乗っていた。
いや、滴ではない。閉じ込められた深い輝きの中、白い紋が波のように広がっている。
「……竜紋玉」
「やっぱりそうよね、本物よね! どうしましょう、お代にしても多すぎるわ」
兄嫁が青ざめた顔で言った。
「客が置いてったのかい」
「うん、俺よりちょっと大きい兄ちゃん。櫛とかんざし選んで、これで払うって。どうしようって思ったけど、何だか受け取らないといけない気がして、つい」
一真はハッとした。おぼろげだった姿が一瞬にして鮮明になる。
「そのお客、十五六くらいで、髪を結って飾り紐をしてたかい。くっきりした目で、あんまり笑わないような……」
喋っているうちに、二十年近く経った今ではあり得ないことだと気づいた。しかし二人はそうそうとうなずいた。
「真さんの知り合い? この辺じゃちょっと見かけない、きれいな顔してたわね」
「またあ、おばちゃんってばすぐそれだ」
と天を仰いだ陸清の手を、一真はしっかりと握らせた。
「持っといてくれよ、清。少し出てくる」
言い終えるなり履物をつっかけ、急いで外に出る。日に照らされた往来は人で賑わっていたが、それらしい者は見当たらない。
一か八かで、一真は川にかかる大橋へ走った。もし牙骨丘から来たのであれば、あの橋を通って帰るのではないか。
広い橋。たくさんの人や荷車を掻き分けて進む。まだ追いつけるはずだ、今ならまだ……
「僕はどちらでもよかったけど」
背後から、時を越えた声がした。
「姉さんがどうしてもと言うから」
振り返ろうとしたが、不意に湧き上がった不安が一真を止めた。彼は欄干をぎゅっと掴んだ。
「大きさは並でも、色は中々だろう。まあ今さらのことだが何かに役立ててくれ」
離れていく気配がして、一真はやっとの思いで振り向いた。そこには何一つ変わったところもなく、あの少年が立っていた。流れる人々を背に、相変わらずにこりともしていない。
「れ、礼を言いたかったんだ、君たちに」
「知ってるとも。一度探しに来たな」
リリンは目を細めた。それでは姉弟はやはり牙骨丘にいたのだ、しかし……
「どうして見つけられなかったんだろう」
呆然として呟いた一真に、リリンは当然のように返した。
「だって、お前はもう迷わないじゃないか」
向かい合う二人を避けて進む人々。彼らがけして触れることのない謎が、一真の首筋にぴたりと押し当てられた。
「君たちは、何だ?」
答えはなかった。
正気に戻った時には、彼は人ごみの端に一人で立ち尽くしていた。
「父ちゃん!」
ぱっと陽が差して、陸清の声が耳に届いた。駆け寄ってきた息子の確かな在りようを感じると、一真は心の底から安堵した。
「やっぱり追いつけなかったろ。顔青いよ、大丈夫?」
「ああ、平気だとも……」
彼は額の汗をぬぐい、心配する息子の肩を叩いてみせた。
「石はどうした」
「持ってるよ。母ちゃんとおばちゃんに任せたんじゃ、慌ててるうちに失くしそうだもん」
そっと開いた手の中に緑の輝きが息づいている。
本当に美しい石だ。怪しいものの影など微塵もないじゃないか、俺ときたら一体何を恐れていたんだろう? もっとしっかり礼をするべきだった。
しかし頭の片すみでは、彼らに二度と会えないことも分かっていた。一真にはこの地で重ねた時間があり、共に日々を続けていく家族や仲間がいるのだから。遥か遠くに揺らぐ謎が入り込む余地は、もうそこにはない。
「さあ、帰るか」
一真は息子と並んで歩き出した。そして店に戻るまでの間にこう考えていた。
明日、兄貴の墓参りに行こう。今日の出来事を話し、竜紋玉を見せて「やっと手に入った」と笑うのだ。何より兄貴の前でなら、こいつの一番いい使い道が思いつくはずだから。




