薄氷の彼方へ(四)
見慣れた雪と氷の平原に帰りつくと、キアラはホッとしたような、飽いたような気分になった。
「ユトゥ、一体なんだったの。勝負をかける前に一服しろって?」
ロクハとリリン。見るからに仲のよい、おそらく兄妹であろう彼らは、どういうわけかキアラをもてなした。二人が出してくれた不思議なお茶を思い返し、彼女はわずかに微笑んだ。
亜族が飲む煮出し茶とは色も香りも違っていたが、緑色のしずくは青々として甘く、彼女を優しく温めた。「おいしい」と言ったのはわかったようで、ロクハは嬉しそうにうなずいていた。
添えられた豆菓子も遠慮なく食べてしまうと、客人と主は困ったように視線を交わす。
「ごちそうさま。もう、行かなくては」
と立ち上がったキアラは、亜族式の深い礼をした。腰帯に下げた色々のものが触れ合いがちゃがちゃと音を立てる。
半月刀に目をとめたロクハが、なにか言いながら人差し指どうしで打ち合う真似をしてみせた。キアラはうなずく。
「そう、私は戦う。これは父からもらった大切な刀だ」
そういって笑みを浮かべたが、ロクハは悲しげに首を振った。驚くほど無防備な様子を見れば、彼らに日々争う必要がないことはすぐにわかる。どちらの暮らしにもそれぞれの幸せがあるものだ。
「ごらん。亜族の子は、両親の名を刻んだ鞘と一生をともにする。タール・ハン、これが父。イルシというのが私の母」
刀を持ち上げて革に記された名前をなぞると、ロクハは大きな瞳でじっと見入っていた。少女を見下ろしたキアラは思わず口もとを緩める。母さんが殺されなければ、私にもこんな妹がいたかもしれない……
ユトゥのもとへ戻ると、空は晴れ上がっていた。名も知らぬ木から雪解けの水がしたたっている。
鞍に上がろうとしたキアラは、あることを思いついた。後ろについてきていた二人へ手招きをする。
「乗ってみる? 引いてあげよう」
とユトゥを指すと、これは通じたらしい。少年は素早く引き下がり、女の子が手を挙げて歩み寄る。
「ここを持って、足をかけて。そらっ!」
手を添えてやるとロクハの身体は軽々と上がり、横座りで鞍におさまった。びっくりした表情が笑顔に変わって、心配げなリリンになにやら弾んだ声をかける。キアラも微笑んで言った。
「大丈夫。ユトゥはいい馬だ……」
手綱を引いて歩き出しながら、キアラは遠くを見ていた。父さんも、こんなふうに馬の背に押し上げてくれたものだ。
夏草の平原と明るい日差し。大きく温かな手に持ち上げられ、気がつけばうんと高いところから世界を見渡している。やわらかい頬にいっぱいの風を受けて、声を上げて笑った。それがいちばん幼い日の記憶だった。
店の前をひと回りして、ロクハを優しく下ろしてやる。
「さあ帰ろう、ユトゥ」
と、マントをなびかせ鞍に飛び乗ると、鮮やかな軌道に少年が「おおっ」と感嘆の声を上げた。
「さようなら、ロクハ、リリン」
知ったばかりの名を口にするのは少し気恥ずかしかった。手綱を繰るとユトゥが大人しく蹄を上げる。ここまで無理やり引っぱられたことが嘘のようだ。
走り出した背中に名前を呼ぶ声が届く。キアラが少しだけふり返ると、二人は扉の前に並び立っていた。そして少女の小さな両手は、祈りの形に握り合わされていた。
「こんなに自信がないの、初めて……」
茶器を片づけたロクハは、ふたたび曇り出した空を見上げてため息をついた。リリンが豆菓子をつまみながら励ます。
「姉さんはよく頑張ったよ。馬にまで乗って」
「あっ、リリンちゃんも乗ればよかったのに! すごいよ、景色が全然ちがって見えるの」
弟は「いやだ」と短く答え、
「なにもかも変則的だったな。まあやるだけやったさ、結果を待とう」
と肩をすくめた。
それが分かるといいけれど、とロクハは内心で呟く。どこか遠い土地での結末を感じ取る力は、もう残っていないかもしれない。
キアラの仇というのが、どうやら大切な人…… おそらく肉親に関わっているのは推測できた。対して、なじみのなさそうなお茶と不器用な説得。彼女の強い気持ちを揺るがせたとはとても思えなかった。
もっと上手いやり方があったはず。私の積み重ねたものは、言葉を越えるだけの力もなかったの?
そう頭を抱えたとき、
「ご免くださいよっ」
と大きく戸が叩かれた。ふたりが答える間もなく、やたら薄着の乙矢が顔を出す。となりにはしっかり厚着をした冥狐が、なぜか数本の大根を掲げて立っていた。
「乙ちゃん、冥狐さん!」
笑顔になったロクハが二人を迎える。踊るように入ってきた乙矢は楽しげに話し出した。
「こんちはロクちゃん、あのね、冥狐が見料炊いてくれるって! それが傑作なのさ、ねえ冥狐」
「傑作なものですか。ひどい客に引っかかりましてね、さんざ占わせてから金がないって抜かすんですのよ!」
のらりくらりしたその男は、町番につき出す前に姿を消してしまった。だが執念深く追いかけ回したら金どころか小作人のいる畑まで持っていることがわかり、化け狐の怒りは心頭に達した。
いきさつを聞いたロクハが目を丸くする。
「そ、それでどうしたの? その人……」
「二度と朝日を拝めなかったんだろう」
合掌したリリンが呟くと、冥狐は「こんなにか弱いあたくしが、まさかそんな」と切ない顔で胸に手をあててみせる。
「ま、頭からかじってやろうかと思ったんですけれどね。脅しに脅したら、奥さんに断りなく金を使えない哀れな身なんだって泣き出して。もう馬鹿馬鹿しくなって、そこに生えてる野菜でいいからって現品で支払っていただきましたの」
「それで見料大根か、お前らしくもない失敗だな」
「いよいよ前金制にするべきですかしら。リンさん、厨お借りしてよろしい?」
と、二人は厨房へ連れ立った。
「お店に行こうとしたら冥狐が大根抱えて歩いてるじゃない。うちにちょうど柚子味噌があったからさ、どうせならみんなで食べようと思って」
乙矢が忙しく喋って風呂敷づつみを広げる。味噌の小壷や魚の燻製、干菓子の類。そして最後に小さな花束をつかみ出した。
「あ、これは兄者から。なんでか今年はかなり早咲きなのさ」
厚い紙の中から鮮やかな黄色の水仙があらわれ、ロクハは「わあ!」と声を上げた。小ぶりな花たちはみずみずしく、可憐に咲いている。
「本人はどっか飛んでっちゃった。直接わたせばいいのにねえ、兄者が照れるなんて気味が悪いったら」
呆れながらも愉快そうな乙矢に、厨房からは冥狐とリリンの話し声。沈みかけた心が温かくすくい上げられた。
弱気になってちゃいけない。最後まで気持ちを保つんだわ。
明るい黄色の花に顔をうずめ、ロクハは異国の客人に思いを馳せる。すでに効力を失った祈りだとしても、そうせずにはいられなかった。




