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竜の丘の茶藝館  作者: 小津 岬
第十話
56/74

薄氷の彼方へ(一)

挿絵(By みてみん)


 (じゅう)族の縄張りには入っているはずだったが、まだ一つの人影も見ていなかった。

 並足で馬を進め、キアラは油断せず目をくばる。小ずるくて臆病な什のやつらのことだ、どこになにを仕掛けているかわからない。

 うす明るい氷原を雪まじりの風が吹き荒れる。日の残るうちに渡りきらないと氷の上で夜を明かすことになってしまう。()族の勇士はなにをも耐えられるが、愛馬のユトゥが凍えてしまうのはかわいそうだ。少し急ごう、と手綱を引いた。

 母の仇を討つと決めたとき、キアラは迷うことなくユトゥを供に選んだ。集落が率いる群れの中で一番かしこく勇敢で、忠実な馬だと知っていたから。

 すでに病に伏していた父は、娘の決意を聞いて喜んだ。

「……そうだ、その言葉を待っていた。お前が葬るがいい、あの男を」

 骨に皮が張りついた青黒い顔に二つの目が燃える。恐ろしくおぞましい笑顔だったが、母が世を去って以来はじめてキアラに向けられた笑みでもあった。

 小屋を後にした彼女は身を震わせた。

 あの男を殺せば、父さんは私を認めてくれるに違いない。よくやったと褒め、笑い、抱きしめてもくれるかもしれない。

 まだ短い夏のさなかで、北の平原も青い草におおわれていた。走り出たキアラが指笛を吹くと、丘に散っていた群れの中から灰色の馬が駆けてくる。張りのある大きな身体を彼女は勢いよく撫でた。

「ユトゥ、旅の許しが出た。復讐の旅……!」

 特別な鍛錬を積む必要はなかった。キアラはすでに優れた乗り手であり、剣の腕も日々磨いてきた。他の部族と小競り合いになったときだって、男たちと並び前に出るくらいだ。

「よし、その意気だ。もういっぱしの勇士だな」

 集落の者は誰もが彼女を褒める。父以外は。

「まだまだ未熟だ。いい気になると隙ができる」

「父さん、キアラにあまり厳しすぎですよ」

 そう言って止めるのは、年の離れた兄姉たちだ。彼らは末の異母妹を気づかってくれたが、キアラ自身は父に邪険にされる理由をよく知り、納得していた。

 あの日、母さんが一人きりでいたなら逃げおおせただろう、と酒に酔った父はいつも言う。しかし幼い私が一緒だった。什族の男に襲われた母さんは、私をかばったせいで死んでしまった。

 若く美しい第三夫人を奪われてから、父はずいぶんと人が変わったそうだ。そして生き残った娘に愛情を注ぐことができなくなった、無理もないことだと周りの大人は言う。

 私のせいで母さんは死に、父さんは苦しんでいる。罪の意識は物心ついたときからキアラと一緒に成長し続けてきた。

 復讐を償いとすればいい。

 死んだと思われていた男の消息を聞いたとき、その考えは自然に芽生えた。それから彼女は、ただ一つの目的のためだけに生きてきたのだった。


「また降ってきた! 朝、止んだばっかりなのに」

 窓に目をやったロクハは声を上げた。

 店の真ん中に火鉢をすえて、それでも寒さがしんしんと染み入ってくる。牙骨丘(がこつきゅう)の冬は、例年どおり静かで深いものだった。

「これは積もるな。そんなに頑張らなくてもいいものを」

 リリンがぼやきながら碗を配る。温かな汁で平麺をよく煮込み、たっぷりの根菜を鶏卵でとじた寒い日の昼餉(ひるげ)の定番だ。いそいそと箸をとったロクハが、はあ、とため息をつく。

「どうしてリリンちゃんが作ると美味しいの。同じ材料なのに……」

「飯店を開けばもっと儲かったかな。茶を淹れてる場合じゃなかった」

 のんびりと会話を交わしつつ、少し遅い昼食を終える。雪はいよいよ降りしきり、あたりは早くも白い世界に変わりつつあった。

「道を開けてくる。庭も払っておこうか?」

と雪べらを手にしたリリンに、ロクハは「手分けしよう!」と笑った。

「食べてばかりで丸くなっちゃう。お庭と離れ、見てくるね」

 どうもこのごろ弟に甘やかされているようだ、と彼女は感じていた。

 炊事から何から、気がつけばリリンが済ませてしまっている。これでは私のやることがないと主張しても、彼は「そうかな」と首をひねるのみ。本人も無意識で動いているらしい。

 ふたりの別れは近い。姉のため、なにか少しでもしてあげたいという気持ちなのだろう。

 しかしこれまで通りに過ごすことこそが彼女の望みだった。その日々で暗い思いに襲われたときは、リリンや友たちに遠慮なく頼ろうとも決めている。本当に気持ちの整理がついたのは、ごく最近になってからだった。

 竜が来る日は、と彼女は障子を開け放つ。

 どうか、いいお天気でありますように。

 渡り廊下が一瞬で冷気に染まり、ロクハは「きゃあ!」と綿入れをかき合わせた。寒さに震える、そんなささやかなことも今は楽しい。

 中庭の(こも)にかかる雪を払っていたときだった。ぱたぱたと足音がしたかと思うと、

「姉さぁんっ!」

と血相を変えたリリンが廊下を駆けてきた。

「どうしたの!?」

 ロクハも急いで走り寄る。一瞬、心が不安に縮まったが、弟はひたすらに驚いているようで怯えの色は見られない。どうやら悪いことではなさそうだ。

 リリンがびっくり顔のまま言った。

「きゃ、客人が……」

「うん。どなたがいらしたの?」

 姉にうながされると、彼は少し落ちつきを取り戻した。

「扉を開けたら、馬が」

 まあ、と(あるし)も目を見張った。騎馬でやってきた客は初めてだ。

「じゃあ、お馬は軒下か垣根につないで…… その方はお通しした?」

「違うよ、馬だけ。馬が客人なんだ」

「え、ええっ!?」

 びっくり顔がふたつになった。これはいよいよもって初の事態だ。

 店を抜けて扉を開けると、まさしく馬がいた。ずいぶん走ってきたのか、ほのかに湯気を立てる灰色の身体に、たてがみと尾は黒い。変わった房飾りのある鞍には雪片がはりつき、ここまで騎手がいなかったことがうかがえた。

 堂々たる駿馬(しゅんめ)を前に、姉弟は並び固まっていた。

「よ、ようこそ……」

 主の矜持(きょうじ)をもって、ようやくロクハが呟く。灰の馬は穏やかな瞳で二人を見返した。

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