あやにしき(六)
「さあ、千両役者のお手並み拝見だな」
僕は騙されないぞとリリンがうそぶき、ロクハも「そうね」と意を決する。弟には、身に危険が及びそうならば逃げるように、と言い含めてあった。それを守ってくれるかどうかはわからないが。
彼女は扉へ顔を向けた。
「……来る」
ふたりが勘定台の前で息を潜めていると、すり硝子の上にゆらりと影が現れた。
音もなく開かれた入り口に比太屋弐織が立っている。少し首をかしげ、長い髪を風に遊ばせながら。
「ようこそ、おいでませ。牙骨丘茶藝館が主、ロクハと申します」
主と少年に向けて笑みを返した客人は、なにも言わずに通された卓へついた。磨きぬかれた褐色の木目を指でなぞり、傍らに立った少女を静かに見上げる。大きな明るい窓を背に、彼女が口を開いた。
「比太屋弐織様でございますね」
ロクハの言葉に、彼は「ええ」とうなずいた。
「芝居をするときは、そう呼ばれております」
「本日はお話をお聞きしたく、お呼びいたしました。あなた様のことを」
穏やかに会話を進める二人を、リリンは厨房から見守っていた。
霊的な存在ではないかという考えは杞憂で、客人にはれっきとした肉体があるようだった。派手派手しい柄の上下と青い長羽織のいでたちは、弐織という役に合わせた衣装のようにも見える。そして彼は確かに、華やかな見目に反して妙な不気味さを持つ男だった。
万が一のことがあれば、とリリンは拳を握りしめる。ここは厨房、武器になるものならたくさんあるぞ。
弐織の卓に飾られているのは、まだつぼみのない山茶花の枝葉だった。彼の指がその輪郭に触れる。
「わたしはしがない三文役者。お耳にかけるほどの身の上話など、とてもとても……」
さようでございますか、とロクハがいったん退く。茶葉の好みを尋ねると、彼は少し考えてから「ご店主の心のままに」と呟いた。
厨房へ入ってきた姉に、リリンは声を下げて聞いた。
「どう?」
「半分。半分だけ、こちらにいる」
ロクハが厳しい顔で答える。真意はわからずとも、少年はその様子に勇気づけられた。姉の方に打つ手はありそうだ。
「お湯をお願い」
大盆に茶器を携えた彼女は、迷いのない足どりでのれんをくぐっていった。
赤い茶葉にのぞく青紫の小さな粒たち。緊張気味のリリンによって湯を注がれた薫衣草の花は、かすかに甘く爽やかに香り立った。
「実しき香、聞かれますことを」
姉弟が頭を下げると、客人はゆるやかに茶杯を口もとへ運ぶ。卓を離れながらロクハは祈る。供したお茶が彼の心を鎮め、沈黙の中でもういちど己を見つめさせることを。
そして、此岸に強い根を下ろす草木の誘いで、どうか彼がこちらへ戻ってくるようにと。
「ご店主」
呼び止められた少女は、ためらわず振り向いた。不安げな弟を先に行かせ、ふたたび客人のもとへ歩み寄る。弐織は、伏せていた長いまつ毛を上げた。
「現し世には無駄が多すぎる。そうは思われませんか」
前掛けの上でつつましく両手を組み、ロクハは「たとえば、どのような?」と落ちつき払って答える。
「まことを隠すすべて。人は誰しもいちばん純粋なものを隠してしまっている、そのもののかたちを。あなたのかたちは」
と、ふたつの瞳が少女の顔を探りかけたが、弐織は怪訝そうに目を見開いた。
「いまだ成らずや。これはこれは、実に興味深い……」
男の手が小さな頬に伸びる。
厨房からリリンが飛び出してくる気配を感じながら、ロクハは強いまなざしで弐織を見返した。
ばっ、と音を立てて景色が一変した。
黒いかがり火の焚かれる薄暗い舞台と、中央にそびえる大きな雛壇。その上には、数え切れないほどの髑髏が並べられていた。
「……あなたの場所ですね」
舞台の片すみ、卓と椅子はそのままに、首に手を添えられたロクハは呟く。
彼女は、炎の照り映える骨たちを見て、彼を呼び戻そうという考えが甘かったことを悟っていた。この男はすでに多くのものを奪いすぎている。汀蘭のように、魅入られた人々を選りすぐり……
「いかにも。されど、完成にはまだまだ足りません。さきほども逃したばかり、大事なひとつを」
ひとつ?
汀蘭は、これからも濃密な人生を歩んでいくひとりの人間だ。この男によって身勝手に数えられるいわれはどこにもない。茶藝館の主は大きな瞳をいからせて弐織をにらみつける。
「そう、ひとつ逃した。あなたの所為で」
対する弐織の両眼も黒く燃え上がり、ロクハの細い首を両手で締めつけてくる。だが彼女は恐れない。激しい怒りが、残された勘を鋭く砥いだ。
そして見えた、男の背後に笑う大きな髑髏が。
捨て身の覚悟で意識をつき立てようとしたとき、ふいに闇を割って声が響き渡った。
「進みし者へ、いま途を定めん」
あの一角の子だ!
ロクハが驚いて天を仰ぐと、間髪いれず膨大な光が降りそそぐ。白く埋めつくされる一瞬のうちに、上を向いた弐織が眩しそうに目を細めるのが見えた。
「姉さんっ」
駆けてきたリリンが、ロクハの肩をつかんで卓から引き剥がした。彼女がはっとして見回すと、そこは変わらず秋の陽の差す店の中だ。
そして、まだ温かい茶杯を残し、客人は消えていた。
「変ねえ。このあたりだと思ったんだけど」
保丹次の町はずれで、長いこと歩き回っていた汀蘭は足を止めた。
芝居小屋での恐ろしい夢から数日が経った。ようやく気力を取り戻した彼女は、もう一度あの姉弟に会いたくなったのだが。
きょろきょろしているところに、息を切らした夫がやってくる。このところ元気のなかった妻が急に出かけると言い出したので、心配してついてきたのだ。
彼はだいぶ後退した額をぬぐいながら言った。
「店を畳んだんじゃないかね。子どもだけでやっていくのは難しいだろう」
そんなはずはないと感じた汀蘭だが、「そうかもしれないわね」と素直に応じることにした。
そういえば、あの子たちには親類縁者がいないようだった。自分ばかりべらべら喋らなければよかった、と彼女は恥ずかしく思った。店を続けるのが大変だったなら、なにか相談に乗ってやれたかもしれないのに。
けれど、きっともう会えない。
他の店で休もう、と町へ引き返すと、広場に小さな人だかりができていた。折り込み草紙の売り子が枯れた声を張り上げている。
「さあ、花形役者が煙と消えた! はたして事件か陰謀か、比太屋弐織は今いずこ!」
「あれ、お前のひいきの役者じゃないのかい」
無邪気に首をめぐらせた夫の袖を、汀蘭は急いで引いた。
「この前までは、ね。早く行きましょ、薊館以外ならどこでもいいわ……」
そのころ、茶藝館の扉を開けてリリンが戻ってきた。冥狐に改めて礼を告げに行っていたのだ。
「移動しっぱなしで疲れたって、丸二日眠りこけていたらしいよ」
まだまだ眠たそうな彼女の顔を思い出し、少年は可笑しそうに言った。卓に新たな菊を活けながら、ロクハも微笑んだ。
「たくさん走らせちゃったものね。今度、目一杯ごちそうしないと」
リリンが言うには、弐織がロクハに触れたとき、二人の姿が薄暗く陰って見えた。しかしそれも一瞬だけのことで、卓に辿りついたと思ったら客人だけが消えていたのだという。
弐織の舞台で起きたことを話すと、彼は安堵してこう言った。
「その一角が助けてくれたと思っていいのかな。敵じゃあないわけだ」
リリンの表情に、ロクハはふと鋏を下ろす。客人を迎えつづける決意はしたが、それは弟が思い悩む種を増やすことにもなる。
「リリンちゃん」
「うん?」
厨房に向かいかけていた彼が振り返る。卓の間に立つ主はしょんぼりしていた。
「ごめんね。こんなお姉ちゃんで」
「そんなことない」
真剣に答えたリリンだったが、すぐににっこり笑ってみせ、
「と、言ってほしいんだろう」
とつけ足した。
のれんの奥に消えた背中を見つめ、ロクハは「うう、読まれてる……」ときまり悪そうに呟いた。
弐織がどこへ行ったのか、正確なことはわからない。
しかし完全にこの世を離れたわけでもなさそうだ、と彼女は思っている。ときおり、聴こえてくるからだ。
「綾錦とて糸繰れなくば」
成らぬ、成らぬと機の泣く。
「あやに継がれる骨の道形」
扇とともに美しい手がひらりと返される。男が歩いているのは、幾千もの骨の欠片にうずもれた長い長い道だ。よどんだ隙間の世界に歌は止まず、どこでもない場所へと彼を誘う。
「つばら、つばらに愛でゆかん……」
荒涼とした空には、太陽の代わりに大きな氷の眼が浮かび、凍えるまなざしを注ぎ続けていた。
狂うことも逃げることも許されないまま、ただこの道の尽きるまで。永遠の終末の中を、男は舞い進んで行った。
(第八話 了)
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
第九話は山の祭に思わぬ客がやってきます。




