あやにしき(五)
せわしなく回るみずからの頭の中を、汀蘭は遠くから眺めていた。
なにかが掛け違っている。私は昼の興行を観にきたのではなかったかしら。けれどこの世は夜の底にある。
弐織のあの演目が、今まさにくり広げられていた。死の気配を供にひとり舞う彼は汀蘭の心を凍りつかせる。しかしもうすぐ、もうすぐ光が差す。美しい太陽の光が……
「お客さん、終演ですよ」
掃除夫の手が肩にかかり、彼女はぼんやりと顔を向けた。
「そんなはずは……」
「いえ、仕舞いでさ。昼の部だけなんでね、きょうは」
荒っぽく追い立てられても汀蘭は腹を立てなかった。頭に残るのはたった一つ、現れるべき光はどこに行ったのかという問いだけ。
たゆたうように小屋を出るが、空は重い灰色に閉ざされていた。ほら、陽がないじゃない。一体どうすればいいの、私はどこへ帰るんだったかしら。
おぼつかない足どりで数歩進んだときだった。
「奥様、お待ちあれ」
聞き違えるはずがない。汀蘭は弾かれたように振り返ったが、その顔はすでに怯えきっていた。
「日ごとに足を運んでいただいておりますね」
舞台で見たままの弐織が優しく微笑んでいる。待ち望んだ光であるはずなのに、彼の瞳はどこまでも暗かった。
「熱心なお客さまと、お話をしたく存じます……」
ゆるやかに伸べられた美しい手は獲物に食い入る牙の形だ。しかし汀蘭は、それと知りながらも手を重ねた。
その瞬間、闇に落ちる。
わずかな薄日を、急激に湧いた雲が完全におおい隠す。顔に身体に吹きつける風を感じるが、周りの景色からは一切の音が消えていた。
「こ、これは?」
我に返ってあたりを見回す汀蘭の首すじに、弐織の手がやわらかく添えられた。ハッと身を硬くした彼女を落ちつかせるように、役者はなにやら歌を口ずさみ始める。
それに合わせて細く長い指がじわじわと這い上がり、夫人の輪郭を味わいながら撫でた。
茶藝館に弐織を呼び込みたい。
ロクハがそう言うと、人の姿で卓につく冥狐は猛烈に反対した。
「だめ、危険すぎます! あんな得体の知れないもの、あたくしは姉さまに会わせたくありません」
「僕もそう思う。もし怨霊みたいな存在だとしたら、そもそも店に入れられないし…… 難しいな」
と、リリンも考え込んだ。
明け方に冥狐が駆け込んできたあとの作戦会議だが、謎の役者の姿を正す名案は浮かんでこない。しかし、対面できるなら店の前だっていい、一か八かでやるしかない、と主は言い切った。
「冥狐さんが見かけたのが汀蘭様なら、もう時間がなさそうだもの」
姉の表情をうかがっていたリリンは、揺るぎない心を読み取って「やれやれ」と肩をすくめた。
「それなら、僕はなにをすればいい?」
弟の言葉を聞いてロクハは笑顔になった。
「いつもと同じに。あの人がお店に入れたなら、お茶の仕度を。入れなかったら……」
一緒にいて、と告げる。
不安と不満で情けない表情をしていた冥狐だが、ふたりの様子を見て上目づかいで問いかけた。
「あたくしは、いらないんですの?」
「だってお前、怯えてるじゃないか」
リリンに平然と指摘されると、彼女は着飾った姿で子どものように怒り出した。
「そんな、ちょいと驚かされただけですわよ! 霧だろうが霞だろうが、この次は噛み傷の一つくらい、こうやって頭から……!」
「あのね、冥狐さんは、汀蘭様を探して守ってあげてほしいの。きっとあの人の近くにいるはずだから」
少女に頼まれ、冥狐は「おやすい御用ですわ」と胸を張った。
「ありがとう、二人とも。さあ、私こそがんばらないと」
頬をぺちぺち叩いて気合を入れる姉を、リリンはひそかに心配してながめた。
腹ごしらえを済ませた冥狐がふたたび保丹次に向かうのを見送って、主は扉の正面にあたる卓に座りなおした。
弐織を探し出し、ここへ招く。見極めた正体によっては、そのまま人里に帰すことはできないだろう。長く茶藝館を開いてきたが、客人と果たし合う覚悟をしたのは初めてだった。
彼女は目を閉じて耳を澄ませた。
深まる秋の空気、冥狐の軽やかな足音、風に流れる雲…… 感じ取れる気配はかすかだったが、ロクハは辛抱づよく意識をめぐらせた。
やがて、ちら、と汀蘭の顔が見えた気がした。目をこらすと、やはり彼女だ。冥狐が現れるまで見守ろうとしたロクハだが、様子がおかしいことに気づく。
そこはどこ。どこに立っているの?
夫人の周りは暗く、薄墨を流したようにもやもやとしていた。もっと近づけないか苦労していると、ぼうっと顔を上に向けて立つ汀蘭めがけて、闇から白い手が伸びてきた。
いけない!
呼びかけようとしたが声は届かない。このままでは彼女がつれていかれてしまう……
「あなたは特別に美しい。どうか隠さずにいてください」
弐織が囁く。
汀蘭はすでに口もきけず、微動だにしないまま男を見つめた。彼の目は、彼女をえぐるほどに鋭かった。視線をうける頬から少しずつ肉が削がれていくように。
カチカチ、と音が聞こえる。ああ其処だわ、あなたのうしろで笑う髑髏。あれは私の骨、私はあんなに美しかったの? 白く確かで偽りのない、とてもとてもきれいな……
「あなたのかたちです」
弐織がすぐそばで微笑んで、汀蘭は震えるまぶたを閉じた。
しかしその時、閉ざされかけた世界にあるものが滑り込んできた。
茶の香りだ。温かさと幸せな会話の記憶をつれて、汀蘭と男の間を分かつように素早く吹き抜けた。
「汀蘭様、逃げてください!」
ありったけの気が込められた少女の声を聞いて、彼女はついに目を覚ました。耐えきれずに上げた悲鳴がかえって力となり、勢いよく二つの手から逃れ夢中で駆け出した。
「だ、誰か助けてえ!」
「奥様、こちらへっ」
前方に金色の狐がとび上がる。汀蘭の瞳が、陽をあびたように輝いた。
あれが光だわ。本当の光!
ただそこだけを目指して、彼女はまっすぐ走っていった。
「おや、おや」
弐織は、さきほどまで汀蘭の顔を包んでいた両手を名残惜しげに見つめていたが、やがてにっこりと微笑んだ。
「呼ばれたならば、参りましょうぞ」
と、懐に差しいれていた扇を引き抜くと、拍子をとりながら歩き出す。上機嫌な歌声が、薄闇にいつまでも尾を引いていた。




