あやにしき(三)
「お前、また芝居小屋かい? 今度の出し物は何回見るつもりだね」
仕度もそこそこに出かけようとした汀蘭を、居間の夫が呼びとめた。軽い口ぶりだったが、彼女は必要以上にとがめられた気がした。
「今しか観られないの。遠出するより安くつくんだから、とやかく言われたくありません」
思いがけず苛立った声に我ながら驚いてしまう。夫はむっとした様子で口をつぐみ、椅子に沈みこんで猫を撫でた。
「夜までには戻りますから」
気まずい思いで声をかけたが、反応はない。汀蘭は息をついてひとり家を出た。道は覚えたし、遅くなっても人通りがあるからと、召使いを置いていくことにしたのだ。
家のことを頼みたいなどと口実をつけはしたが、いちばん底には誰にも邪魔されたくないという気持ちがあることはわかっていた。家から完全に離れ、ただ弐織と向き合いたい。自分を射抜いた視線の意味を知らねばならないのだから。
「危険? あの変な芝居の役者が?」
汀蘭を見送った翌日のこと。椅子に上がって窓を拭きながら、リリンは姉を見下ろした。床を掃いていたロクハは、
「姿絵からね、よくない感じがしたの。汀蘭様は、それを教えにきてくれたんじゃないかと思うんだけれど……」
と考え込む。姉を信用している弟は、真面目な顔で提案した。
「一度、そいつを見てこようか。冥狐あたりが頼りになりそうだな」
広い店内を清めきってから、彼はてきぱきと上着を着こんで菅笠をかぶった。
「ひとまず乃鞠に行ってみるよ。あいつが暇しているのを祈ろう」
「うん、お願いするね。 ……リリンちゃん」
歩き出した少年が足を止め、「え?」と振り返る。戸口に立ったロクハは、
「なんでもない! いつもありがとう、気をつけてね」
と笑顔で手を振った。リリンも笑みを返し、草木の生い茂る山道を下っていった。
小さくなっていく背中を見つめて、ロクハの心は鈍い痛みを感じていた。
比太屋弐織への警鐘。その先は、見えないかもしれない……
リリンがなにか掴んできてくれることを祈りながらも、頭の中は不安でおおわれていく。彼女はうつむきがちに店へ入ろうとした。
「汝、惑いしか」
乾いた空気に高い声が響く。ロクハは息を飲んで振り向いた。
声の主は、神の手でたった今そこに置かれたかのように、唐突に出現した。六つ、七つくらいの小さな子ども。浮雲を刺繍した美しい衣服は、微笑ましいお祝いの席を思わせる。
しかし、雪のように白い髪とそれを割って伸びる一本の角、氷の色をした瞳が、その子が人外の存在であることをはっきりと告げていた。
さあっと陽が差し、縦に長い虹彩がきゅっと狭まる。
茶藝館の主は、長らく忘れていた感情を思い出した。胎の底から湧きあがる、止めることのできない恐怖を。
こないで。
血の気の引いた顔を震わせたが、言葉にならない。一角の子どもが、白の切り髪をふわりと揺らしながら足を踏み出した。
「刻を告ぐに機の若し。然れども吾、此処に在り」
一句一句はっきりと口にされるたび、少女の身体はちぎれるように痛んだ。この子は計り知れないほどの力を持っている……
扉にすがりついてやっと立つ彼女の目の前に子どもが足を止め、ぐっと顔を向ける。薄い瞳がカッと光を放つ。
「汝が途を他に延べんと惑いしか、竜の魂よ!」
ふっつりと、糸が切れた。
ロクハの細い身体は音もなく地面へと崩れ落ちた。
東青は、ふと頭を上げた。
目の前には、視察し終えたばかりの農地が広がるだけだ。繁った蔓の上を赤とんぼがのどかに飛び交っている。
「次の場所まで半里もありません、歩いて参りましょう。東青どの、どうかされましたか?」
現地の管理人が彼をのぞきこむ。
「いえ、なんでもありません」
東青は笑顔を作り、一団に続いて歩き始めた。しかし途中でふり返ると、はるか遠く見えない山々をとらえようと目を細くした。
いま、誰かに呼ばれた気がした。
「あのう、こちらですよ……」
ふたたび声をかけられ、彼は後ろ髪を引かれながらも身を返した。
急ぎ足の秋の陽がかたむきかけたころ、リリンは冥狐の居城・占柳庵を出るところだった。
「それじゃあ、二、三日のうちにお届けしますわ。他ならぬ姉さまのお頼みなれば、よろこんで一肌脱ぎましょう」
狭い戸口に立ったあでやかな占い師は、少年に向けてにっこり微笑んだ。
ふらりとやってきたリリンが、今をときめく比太屋弐織を見たいのだと切り出したときは「リンさん、何に目覚めてしまったんですの?」と驚いたが、ことは客人に関わると知って居ずまいを正した。
そして詳しい話を聞くと、なんとかして切符を手に入れてくる、と請けあった。
「少々お時間をいただければ、必ず。いまは確か、保丹次の近くで興行がかかっているはず……」
その地名を聞いて、リリンは眉をひそめた。あの騒がしい夫人が住んでいる町ではなかったか。
「ありがとう。姉さんも僕も、お前を頼りにしている」
去りぎわにそう言われ、化け狐は切れ長の目をまん丸にした。が、すぐに満面の笑みに変わる。
「どういたしまして。それくらい素直な方が、可愛げがあってよろしいですわよ!」
口もとに手をあてて笑う彼女に見送られながら、リリンは憮然として呟いた。
「そんなもの、かけらも欲しくない」
ともあれ用事は済んだのだ、さっさと帰ろう。大通りを抜けようとして、彼はたくさんの人とすれ違った。この歓楽街はそろそろ目覚めるころあいだ。
楽しそうな、疲れきった、あるいは悲しげな顔。それぞれの今日を抱えた者が奏でるざわめきは、なぜか少年の郷愁を誘った。
わずかな時間を離れただけで懐かしくなったのは、予兆だったのかもしれない。
牙骨丘に入り、いつもの道を登りきった彼の目に、店の入り口で倒れているロクハの姿が飛び込んできた。
「…………!」
言葉を失ったリリンは転がるように駆け寄った。ロクハは、横向きに身を丸めた形で目を閉じている。その表情や身体からはあるべき力が抜けきってるようだった。
震えながら抱き起こした肩が冷たかったので、少年の心臓は大きく跳ね上がる。
しかし、姉のまぶたがわずかに動いたように見えた。
「姉さん!」
慌てて手首をさぐると、脈は確かに打っている。そのまま温めるように手のひらを合わせてみると、やがて弱々しいながら握り返された。
ロクハは目を開いた。
すぐそばで息をつめていた弟は、視線が交わるとこわばった顔でぎこちなく微笑んだ。いつもは凛とした瞳がにじんでいる。
彼の顔を見て、彼女は思った。隠しごとはもうやめよう。前からの懸念も、いま起きたことも、なにもかも話さなくてはいけない。初めからそうすればよかったのだ。
運命を共にする者どうし、いかなる変化からも逃れることはできないのだから。




