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竜の丘の茶藝館  作者: 小津 岬
第八話
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あやにしき(二)

「ああ、うるさかった。有閑夫人っていうのは、口の閉まらない病にでも(かか)っているのか?」

 器を洗いながらリリンはぐったりと声を上げた。

 汀蘭はずいぶん姉弟を気に入ったらしく、いつまでも二人を留め置いて話を続けた。「娘たちの小さいころを思い出す」とロクハを愛で、身を引きがちなリリンに「あと数年で女泣かせね」と冗談を投げかける。

 なにより、上質なお茶と素朴な茶菓子が心に響いたようだ。文字どおりの長居からようやく腰を上げ勘定に立つと、

「あら、そんなにお安くちゃいけないわ。私とってもよい時間をすごせました。倍はお払いしないと」

と眉をひそめた。真剣そのものの顔をして、お喋りついでのお世辞ではなさそうだ。彼女の率直な態度は、嬉しくもあり面映(おもは)ゆくもあった。

「そのお言葉でじゅうぶんに過ぎます。私どもも楽しゅうございました」

 主はていねいに頭を下げて送り出した。

 客人の辞した卓を拭きながら、ロクハはひそかに安堵していた。汀蘭の話を聞く中で、ある事柄に強く惹きつけられたのだ。

 昔から芝居を観るのが好きで、最近また通い出したと彼女は言った。

「先ごろは首都の近くまで足を伸ばしたのよ、比太屋の新作がかかっていたので。比太屋(ひたや)弐織(にしき)、ご存知?」

 姉弟が首を横に振ると、夫人は陶然として語りはじめた。

 その男は、顔や立ち姿は勿論のこと、歌・踊り・演技と三拍子そろった花形役者なのだという。長らくパッとしなかった比太屋の筋だが、突然あらわれた麒麟児(きりんじ)に界隈は大いに沸き立った。評判に誘われて芝居小屋に押しかけた奥様連中は、だれしも骨抜きにされて帰っていくらしい。

「一番いいのはね、声。ちょうどいい低さで、張りがあってよく響いて…… すこし陰がある台詞なんか、そりゃあもうばっちりはまるのよ。そうだ、姿絵があるわ!」

と、いそいそと手提げを探る。

 華やかな絹でおおわれた本のようなものを開くと、手のひらほどの大きさの役者絵が束に綴じられていた。

「これがこの間の新作、“洞花房彼岸道行(うつろはなぶさひがんのみちゆき)”。道ならぬ恋に苦しんだ貴族が無理解な家族を次々手にかけて、最後は想い人と刺しちがえ、花散る地獄で永遠に……」

「物騒すぎるだろう! 都の者は、それに喜んで金を出すのか?」

 われを忘れて異を唱えた少年に、夫人は面白そうに答えた。

「これぞ浪漫ですよ。あなた、悲恋ものはお嫌い?」

 二人がやいやい言うのを背に、ロクハは比太屋弐織の姿絵に見入っていた。

 多色刷りの鮮やかな版画は、胸から上の大写しだ。貴族役らしい豪奢(ごうしゃ)な衣装、胸もとで粋にかまえた扇。ややかたむけた顔ははっきりとしながら端正で、なにかを耐えるような表情からは確かに魅力が匂い立つ。

 しかし、ロクハはそこに(まが)々しいものを感じとった。

 この役者は、触れることはおろか、近づくことさえためらわれる黒く燃えさかる魂を持っているのではないか……

「どう、男前でしょう?」

 嬉しそうな汀蘭にうなずき返しながら、主は客人がれっきとした理由をもってやってきたことを知ったのだった。


 このところついてるわ、と汀蘭は芝居の切符を握りしめた。

 日帰りできる場所で打たれた舞踊の興行に、ひいきの役者が勢ぞろいしているのだ。勿論、弐織の名も大きく掲げられている。

 芝居小屋には朝からたくさんの人がつめかけ、競争は熾烈だったが、数を間違えたとかで戻された券を運よく買うことができた。

「では、私は用事を済ませてまいります。ごゆっくりどうぞ、奥様」

 苦笑いの召使いに送り出され、彼女は軽い足取りで席へと向かう。そして、

「まあ……!」

と目を見張った。ほどほどに前方の、ぴったり真ん中。一等席ではないか。

「奥さん、ちょいと失礼」

 立ち尽くしているところを迷惑げに押しのけられ、汀蘭は慌てて腰を下ろした。

 幕が開いてからはまさに夢の中。囃子方(はやしかた)の音にのせ、手の届きそうな距離で役者たちが舞い踊る様は、秋の爛漫(らんまん)と呼ぶにふさわしい。汀蘭も周りの観客も、その華やかさにひたすら圧倒されていた。

 長い一曲が終わり、小屋じゅうが激しい拍手で包まれる。すると、余韻の冷めぬ間にふっと音がして、花行灯の火が一斉に消えた。

 ひゅるる、とうら寂しい笛の音とともに、ひとつの灯かりが進み出る。

 弐織だわ。汀蘭は握った手に力を込めた。

 役者が掲げてきた角灯を黒子が受けとった。微弱な光に照らされた弐織は、ふわりと薄い紗をかぶったまま幽玄に舞い始める。

 宙に伸べられる手や滑らかな足運びは、ここが舞台であることを忘れさせるほど真に迫っていた。人々は魅了されながら支配されていく。

 曲が最高潮に達したとき、観客のふいを突いて灯かりが弾けた。

 輝く光を浴び、弐織はすでに群雲(むらくも)のごとき紗を脱ぎ捨て、黄金の扇を両手に開いていた。世界は夜から昼、死から生に転じたのだ。

 まさしく天晴れな役者っぷりにあちこちから声が上がる。わーわーと盛り上がり、ふたたび弐織が動き出す中で、汀蘭は信じられない面持ちで舞台を見つめていた。

 目が合った。弐織が、私をまっすぐに見抜いていた……

「新しい演目、すごかったわねえ!」

「一人であれだけ見せるんだから、大したもんだよ弐織は」

 興奮した観客たちに混ざり、汀蘭はふらふらと外に出た。切符売りのもとにはすでに明日の券を求める人々が殺到している。

 彼女は、そこから離れた植え込みのふちに腰を下ろした。

 にぎやかでお喋り好きの汀蘭だが、ひとりの女性としてしっかりと地に足をつけている。役者と目が合ったと思い込み、不相応な夢を見て浮かれるたちではない。

 しかし、先ほどの弐織のまなざしは、甘やかな気分とは切り離された絶対的な意志で彼女を貫いていた。偶然ではなく私を見たのだ、という確信があった。

「奥様、お待たせしました…… あら、お寒かったですか?」

 戻ってきた召使いは、顔色の優れない彼女を心配そうに見つめた。

「いえ、平気よ」

 汀蘭は立ち上がりかけたが、なにかに引き戻されるように座り直した。そして、召使いを見上げて言った。

「明日の券があるか、見てきてくれる……?」

 その後ろで、小屋にかけられた長いのぼりが、彼女を誘うがごとく風に揺れていた。

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