あやにしき(一)
綾錦とて糸繰れなくば 成らぬ、成らぬと機の泣く
あやに継がれる骨の道形 つばら、つばらに愛でゆかん
「姉さん?」
中庭に出ていたはずのロクハが見えず、リリンは離れの方へと声をかけた。しかし居室はひっそりとして返事もない。少年が焦り始めると、庭の木戸を押し開けて彼女が帰ってきた。
ほっとした彼は笑みを浮かべたが、異様な気配をとらえるや縁側から駆け下りた。
「どうしたの、なにかあった」
と、木の前でぼんやりとたたずむロクハの肩を揺さぶる。何度目かで、姉はやっと目を覚ましたように顔を上げた。
「あ、リリンちゃん」
一転してのどかな声を出され、リリンの手は安堵にずり落ちかけた。弟の様子に気づいたロクハは弁解するように両手をふった。
「ちょっと歌が聴こえて…… 誰かきたんじゃないかと思ったんだけれど、気のせいだったみたい」
ごめんね、と微笑む。だいぶ冷たくなった風がぴゅうっと吹きあげると、気の早い落ち葉がからから舞い上がる。その中にたたずむ姉がやけに弱々しく見えて、リリンは急いで手をとった。秋風に持っていかれては困る。
「寒いから入ろう。南瓜を茶巾絞りにしたんだ、小豆あんと白あんで」
「やったあ、両方たべる!」
つないだ手を振りまわすロクハの様子は、普段どおりに戻っている。少し神経質だったかな、とリリンは息をついた。
しかし、厨房に入っていく彼を見送った主は、みずからの手を見つめ張り詰めた表情をしていた。
このごろ、彼女の勘が不安定になっている。
驚くほど遠くの人々を感じ取れたかと思えば、何日も鈍ることが続く。灰色の壁が目の前に建ったように、なにひとつ読み取れなくなることもあった。
今までにない変化は、怖ろしいものだった。まだ先であるようにと願い続けてきた日は確かに近づいている。ひょっとすると、ふり向いたならすぐ後ろに息を潜めているのかもしれなかった。
「今日は僕が淹れる。茶葉も選んでいい?」
のれんから顔をのぞかせた弟は、無意識のうちに彼女の不調を察しているのか、どこか心細そうだった。
「ええ、お願いね」
あえて明るく答える陰で、いつ打ち明けたものかとロクハは大きな瞳を曇らせた。
それにしても、さっきの歌。
聴いたことのない不思議な節回しだった。少し不安になるような、それでいて幾度も聴きたくなる……
「あやにしきとて、いとくれなくば」
たどたどしく音をなぞってみたとき、店の扉が大きく叩かれた。椅子をとび下りて入り口へ急ぐロクハだが、その心は暗く沈みはじめていた。
今も、お客人の気配がわからなかった。
「ああ、もっと早く知りたかったわ。この町にこんなに素敵なお茶屋さんがあったなんて!」
卓に通された客人は、落ち着きのある店内を見るなりうっとりとして声を上げた。
「お褒めいただいて恐縮ですわ、汀蘭様」
ロクハが笑顔で迎え杯をすすめる。山査子に黒糖をあわせた酸味のある香り湯を、夫人は満足げに味わった。
四十を二つ、三つすぎたくらいの、見るからに裕福そうな女性だ。堂々と結い上げた豊かな髪と、笑ったときの綺麗な歯並びが若々しさを補っている。ふっくらした顔や手からも、なにひとつ不足のない暮らしぶりを伺うことができた。
「大きな町だからといって、いいお店ばかりじゃありませんからねえ。保丹次だってそうよ。あの大広場の向かいにできたお茶屋、入ったことおあり? 薊館というところ」
「いいえ、ございません。あまり店を空けられないもので」
主がはにかむと、汀蘭は大きくうなずいた。
「若くして立派な心がけだわ、あの茶屋もどきとは大ちがい。あそこの給仕は不躾だし、空いているのに待たせるし、やっと出たお茶は渋すぎて香りもなし。せっかく娘と出かけたというのに、本当に腹立たしいこと!」
「娘さんとは、離れて暮らしていらっしゃるのですか?」
あっという間に干された杯を下げつつ、ロクハが尋ねた。汀蘭夫人はにっこりと笑う。
「そう遠くはないけれど。三人娘が片づいてやっと肩の荷が下りたと思ったら、ささいなことでも愚痴を聞かせにくるのよ。夫がくれた帯の趣味が悪いとか、近所で鶏が増えすぎてうるさいとか。まったく誰に似たのかしら」
忙しく語る表情は、おどけつつも優しい。彼女を中心とした賑やかな家庭の姿がありありと浮かび、ロクハもつられて微笑んだ。
「姉さん、湯が……」
と顔を出したリリンを見るや、客人は「あらまあ」と嬉しそうに言った。
「お兄さん、じゃなくて弟さん? いいわねえ、男きょうだいがいると頼りになるでしょう。うちは女系家族でね、一人は男の子をと思ったけれど、こればかりはどうにもならなかったわね」
茶葉はお任せで、と注文した彼女のもとを離れ、ロクハは思案しながら棚の前に立った。横からこっそり現れたリリンがささやく。
「よく喋るな、本当に。喋りすぎだろう」
「幸せなのね、きっと。けれど……」
それならば、どうしてここに辿りついたのだろう。
遠いところから道がつながるには、客人自身の強い思いや迷いが不可欠だ。この夫人は、気ままな散歩の途中で店を見つけたと言ったが、明るいふるまいの下で深い悩みを抱いているのだろうか。
もしかしたら、とロクハは考える。これも自分の力が弱まっているせいかもしれない。
「鎮静効果のある茶でも出してやれ。騒がしくて仕方ない」
そっけなく呟いたリリンはのれんの奥に引っこんだ。お客様ですよ、とたしなめながらも、弟の変わらない物言いに彼女の不安は少しずつ溶けていった。
そして、今はおいしいお茶を供することに集中しよう、と気持ちを切り換えた。手を伸ばしたのは、満ち足りた夫人にふさわしい円熟した香りの茶葉だ。
その背中に楽しげな声が飛んでくる。
「この小菊、とてもきれいだわ。あなたが育てたの? お上手ですこと! うちの主人も土いじりをするんだけどね、時間ばかりかけて最後には枯らしてしまうの。荒れた庭は猫の城なのよ……」




