我が月を君に(六)
人を殺めたことはあるかい。
生まれ変わらせてやる、と言ったあと、早矢と名乗った鳥男は静かに尋ねてきた。白斗が素直に「ない」と答えると、彼はわかったというふうにうなずいた。
「そこまで行っちまうと、なかなか戻ってこれないもんでさ」
あんたは大丈夫だと呟く横顔は、戻れなくなった誰かを思い返しているようでもあった。
その誰かのことを、聞いてみればよかった。
かつての名を捨てて長きの年月を経たが、白央は今でもそう思うことがある。
「白、濯ぎだ」
「はい」
親方が吊りあげた糸束をざるに受け、力を込めて持ち上げる。外に出れば、小さな工房の裏手に不釣合いなほど立派な井戸がある。汲み出した水の冷たさに秋の深まりを感じた。
あの運命の夜、天狗に刺された白斗はすぐに彼らの導きで央旗の町を離れた。
まんまと騙された磯次は真っ青になって逃げたが、白斗を貫いた短剣は、押しつけると刃が柄の中に引っこむようになっている仕掛け玩具だった。迫真の演技で彼を殺した、少年もとい女天狗は、歩き出してから心配そうに聞いてきた。
「話、聞いてるよ。本当にいいの? お嬢さんに会わないままで」
先に立つ早矢の背に畳まれた翼を見ながら、白斗は「そういう約束だ」と短く返した。
「そう……」
と言ったきり、彼女も押し黙った。
夜どおし歩く中、あの茶藝館の近くを通ったような気がした。
そして朝日が昇りきるころには、もとの場所から信じられないほど離れた、翠端という町に辿りついていた。
ここは南なんだ、と白斗はそびえ立つ峰を見上げた。これだけの山は初めて目にする。重々しい緑を抱いた雄大な連なりは、彼にとってまったく新しい世界だった。
少し登ったところに工房はあった。話は先についていたらしく、天狗たちは迎えに出てきた中年の男に頭を下げると、さっさと引き返してしまった。
このとき礼を言い忘れたことも、白央の胸にずっと引っかかっている。
「少し休め。起きたら始めるぞ」
無骨な親方はぼそりと告げ、ついでと言わんばかりに付け足した。
「やり直す最後の機会だと思っとけ」
その日から彼は、染め師見習いの白央として生きることになったのだった。
もともと器用な彼に、親方はどんどん仕事を教え込んだ。大っぴらに褒めたりしないものの、たまにかけられる「いい勘だ」という言葉は、白央の意欲を引き出し続けた。
親方の妻と小さな息子と、四人での忙しく充実した暮らしに、不満などあるはずがなかった。
しかし自分でも呆れることに、時が流れても薫の面影は薄れない。何度も思い出されたのは、いつか裏門の前で手を重ねてきた彼女の姿。そんなとき、白央は鈍い痛みとともにこう考えた。
昔、俺が盗み出した人形。彼女によく似た、あの陶器人形はどうなった?
そう、俺が手を滑らせたせいで砕けて散ってしまったじゃないか。強引に奪ったなら、きっと同じことが起きていた……
あれでよかったのだ。今ごろ彼女は、領主家夫人として不自由のない生活を送っていることだろう。
頭を振りながら山道を下っていくと、やがて翠端で一番大きな店屋通りに出る。白央は、慣れた様子で仕立て屋ののれんをくぐった。
「こんにちは、お届けに上がりました」
「やあ白さん、待ってたよ!」
主人が愛想よく出迎える。工房では布染めも行っていて、いくつかの店から注文を取っているのだ。
「またどっさり買い付けさせてもらおうか。さっきもね、青に薄黄の裳が売れてったんだ。月見の季節にぴったりだってね」
濃淡をつけた二色を組み合わせた生地は白央が得意とするもので、特に人気が高かった。白央は微笑んで頭を下げる。新たな生地を引き渡し、楽しげに品定めする女性たちを横目に店を後にする。
月見と聞いて、彼は一度だけ行き会った奇妙な宴をかすかに思い出した。あの山では、今も彼らが集まって、和やかに茶を楽しんでいるのだろうか。
本当に遠くなった。なにもかも過ぎ去った……
軽くなった籠を背負いなおし、頼まれた買い物を思い出しているときだった。
「白斗」
数年の空白から不意によみがえった名前に、彼は驚くほど自然にふり返ることができた。
他の誰であるはずもない。秋の陽の差す通りに、薫が立っていた。
あの日、割られることのなかった鏡は、数年のちに美麗の結納として領主家に納められた。
薫の縁談を取りやめにしてもらうよう話し合いに行き来する中で、あちらの末の息子が美麗に惚れこんだのだ。明るく冗談好きな末弟を、彼女も次第に気に入った。ゆるやかな時間をすごしてからの、互いの気持ちが満ち足りた婚礼だった。
「お姉様、お先に。こればかりは私の勝ちでしたわね!」
美しい花嫁姿で笑ってみせた妹を、薫はひしと抱きしめた。そして強く優しい彼女の幸せを、心から願った。
ところで、縁談の破棄に向けた諸々は準備以上にあわただしかった。そのせいか、書生が帰郷していた寺から、事情により彼が周家に戻れなくなったと詫びの文がきても、深く追求する者はいなかった。
薫が待ち続けられたのは、ある朝、窓に差し込まれていた小さな手紙のおかげた。
彼は遠くで暮らしている。二人の思いが途切れなければ、必ずめぐり会うことができるだろう、と癖の強い字で書かれているものだった。
爽やかな窓辺で文を開いたとき、大きな鳥が羽ばたいていく音を聞いた気がした。
それからの日々、薫はお嬢様気分を捨てて過ごした。家の手伝いに精を出し、算学や地理を学びなおし、知り合いの商家にみずから頼んで仕事を手伝い始めた。
「うちの娘が帳簿付けなんて。働く必要はないんだから、もっとほかの事をなさいな」
「そろそろ婿でも取ったらどうだね。話ならいくらでも来とるぞ」
母と祖父は渋い顔をしたが、父は薫の味方をした。
「そのうち仕入れも教えていただきなさい。よく学んで、自分の店を持つのもいい。私もかつて、そんなことを夢見たりしたよ」
夢、といえば、不思議な夢をみたのはつい先日のことだった。
彼女は月明かりの山道を歩いていた。
いつか白斗と迷い込んだ場所のように思えたが、となりに彼はいない。寂しげな虫の声や葉ずれの音に包まれ、なおも進んでいくと、ぽっかり開けた野原に出た。
真ん中に誰か立っている。翼のある、すらりとした人影……
くるりと振り向いたのは、はつらつとした若い娘だった。高く結んだ長い髪が月光をはね返す。薫をみとめた彼女は、ふっと微笑んだ。
「あたし、お節介でさ。気になると気になっちゃうの。兄者には内緒ね」
目覚めてから、薫は急いで彼女に聞いた地名を書きつけた。国の南。翠端の、山ぎわにある町……
そうして薫はやってきた。
彼女の目の前でふり向いた白斗は、あれからずいぶん背が伸びている。細かった身体はたくましくなり、青竹のような強さを備えていた。髪を後ろでまとめた職人然とした格好は、書生姿よりずっとよく似合っていた。
忘れられているかもしれない。読みきれない彼の表情を見つめながら、薫は心細い思いで立ち尽くした。
雲が流れる。やわらかい秋の陽が、往来で向かい合ったふたりに降りかかる。
白斗は口を開こうとしたが、そのまま動きを止めてしまう。大きな目がまばたきをすると、引き締まった頬に一筋の涙が伝った。
その瞬間、共に過ごした半年の続きが始まった。どちらともなく歩み寄っていく。ぎこちなく手を伸ばす。
手がふれた。
「薫様……」
低く、深くなった声が耳をくすぐり、薫はようやく微笑んだ。
私たちは互いに知らないことばかり。けれどきっとそれを埋めていける。どんなかけらであっても私は受け入れたい。
見上げた瞳に秋の青が映りこむ。そして長い時間と距離を越えて、今やっと告げることができるたった一つの言葉。
「あなたを、探していたの」
(第七話 了)
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
第八話は怪しい歌が誘います。




