我が月を君に(五)
月夜の山道を下った先は、夕暮れの見知った街角だった。ぜんぶ夢だったのかもしれない、と白斗は少しだけ怖くなった。
「白斗、これを。ありがとう」
薫は、帰りだけでもと貸した羽織を差し出した。茶藝館の中でどんな会話があったのかわからないが、月の宴などなかったかのような振る舞いに遭うと突き放された気持ちになった。
無言で歩くうちに、屋敷の裏門が近づいてくる。書生がためらいながら柵を開けようとしたとき、薫の細い手がそれを止めた。
重ねられた手は震えていた。
なにを言っていいかわからず、白斗はただ薫を見下ろす。見上げる薫も言葉を探して迷っているようだ。思いつめた顔に、いつかの陶器人形が重なる。
盗み出せ、と心の中で白兎丸がささやいた。こいつは外の世界につれていって欲しいのさ。俺ならそれができるじゃないか……
しかし彼は柵を押した。
「……どうぞ」
うながされた薫も、大人しく門をくぐる。そして屋敷の扉を開ける直前、最後に彼をふり仰いでこう言った。
「違うかたちで、あなたに出会いたかった」
深い瞳は諦めの色をしていた。
日ごと涼しさが増すにつれて、周家は結納へ向けた準備でてんやわんやになっていった。
「縞なんて地味すぎます。鳥もだめよ、お食事の席なんですから。その下の花菱を見せてちょうだい……」
呉服屋を呼び込んで大はりきりの母親の横で、薫は言葉少なにうつむいている。それにつられたのか、あれだけうるさかった妹君までもがむっつり押し黙る日々が続いていた。
白斗は、もう薫に声をかけたりしなかった。
何度かの顔合わせが済めば、領主家から正式に婚約が申し込まれることになっている。今の薫は拒まないだろう。春が来るころには盛大な式を挙げるはずだ。
そう、もうじき関係なくなるんだ。なにもかもなかったと同じさ。
そんな中、育ちの寺の法要の手伝いに行きたいと申し出ると、家長は快く数日の休みをくれた。
「たまには羽を伸ばしておいで。いつも家のことをやってくれて、本当に助かるよ。薫が嫁ぐと寂しくなるが、お前はしばらくいてくれるだろうね」
弱々しく微笑まれると、色々なものを隠した胸がずんと痛んだ。
薫と両親が会食に向かった日、白斗はひっそりと屋敷を出ようとした。
「お待ちなさい、話があります!」
久しぶりに美麗に呼び止められ、彼はひょろ長い身体を跳ねさせた。
「あの、俺はこれからお休みを……」
「お姉様には、どなたか好きな方がいらっしゃるわ」
心臓を掴まれた気がした。動揺を隠し、怒りを込めた目をしている美麗を見下ろす。
「……だったらどうなんです? ご本人は納得されたんでしょう」
「逆らえないだけよ! あの縁談、私ぜんぜん気に入りません。どうにか壊したいの、手を貸してちょうだい。頼めるのはあなただけです」
この台風娘となら可能かもしれない。ほんの一瞬、気が乗りかけたが、やはり彼はかぶりを振った。
「決心された薫様を困らせ…… いえ、悲しませることはできません。失礼します」
そう頭を下げると、まだなにか言いたげな美麗を残して屋敷を後にした。
しばらく歩いた先に、林に囲まれた大きな池がある。磯の兄貴とは、そこで落ち合うことになっていた。
「どう薫、優しげな方で安心したでしょう。次は勇閣様のお好きな曲を弾いてさし上げたら?」
初めての顔合わせを終え、夜の道を行く馬車の中。母がしきりに声をかけるが、娘の方はうわの空だった。
「疲れたろうから、静かにしてやりなさい」
見かねた父がたしなめ、心配そうに薫に目をやった。
間近で見た領主の息子は、とりたてて言うところのない、間延びした男に思えてしかたがなかった。あの夫を持って、この子は幸せになれるだろうか……?
屋敷に着くと、碁会に出かけていた祖父も戻ったところだった。「どうだったね」と尋ねる彼に、父は、
「まあ、終わりました」
とだけ呟いた。薫が静かに階段を上がっていくのを不安そうに見守る。
「お茶にしましょうか。美麗が留守番だからって、勇閣様がお土産を用意してくださったのよ。ほら、いいお店の上菓子……」
「よろしゅうございますねえ。では、すぐにお湯を」
母と召使いが盛り上がっていると、書斎の方から祖父の声が響いた。
「だ、誰か。だれか!」
「父上!?」
「どうなさいました、大だんな様!」
みんなが一斉に駆けつけると、青い顔をした老人が桐の箱を手に飛び出してきた。平たい箱の中を見せるように立てたとき、つややかな袱紗がするりと落ちた。
「“月の水鏡”が、ない…… ないんだ。消えてしまった!」
暗い池のほとりに立つ白兎丸が見えてくると、盗人の磯次はほくそ笑んだ。のろまのウサギ、手間取っていたかと思ったが、ようやくうまいことやったじゃねえか。
「おい、ブツは無事だろうな」
藪をかき分けて近づいた彼に、弟分はひもで封をした薄い包みを差し出した。両手で持ってちょうどいいほどの大きさがある。
よしよし、と磯次が手を伸ばしかけた、その時。ひゅっと空を裂いた石つぶてが彼の手を激しく打った。
「痛っ、なんだぁ!?」
「兄貴、上っ!」
白兎丸が指した先、高い木の間で膝を立てるものがいる。濃紺の装束に頭巾をまとい、鋭い目だけがのぞく。ばさっと乾いた音を響かせ、夜目にも鮮やかな翼が広げられた。焦げ茶の合間の強い緑色が影の中で輝いている。
「ここは我ら天狗党の領分。こそ泥どもに縄張りを荒らされ、黙っているとでも思うたか」
ぞっとするような冷たい声だった。しかし場慣れした磯次のこと、迷うことなく腰の小刀を抜き払った。
「天狗だか鬼だか知らねえが、こいつは俺らが先に盗ったんだ。譲る気なんてさらさら…… むっ!?」
「おっと用心なされ、天狗が一羽であるものか!」
少年のような声とともにザザザッと枝葉が鳴り、磯次はハッとして頭上をふり仰いだ。
「さあさあ囲まれた。大人しくそいつを渡しなよ」
枯葉の舞う中に、装束に羽姿の新たな影。ちっ、と舌打ちした磯次が素早く目配せをする。
「走るぞ!」
言い終えるより早く、林のはて目指し駆け出す。彼を追って二羽の天狗がふわりと木を離れた。
なんだありゃあ、人間じゃねえってのか!?
混乱しながら必死で走っていた磯次は、足自慢のはずの弟分がいないことに気づき、慌ててふり返った。白兎丸はまだ池の近くにいて、ようやく走り出したところらしい。
ちくしょう、亀足ウサギめ。磯次の顔に冷や汗が垂れたとき、白兎丸の後ろに大きな影がかぶさった。
「おいっ危な……!」
手甲でおおったしなやかな手が、白兎丸の胴をお宝ごとすくい上げ抱きとめる。胸の真ん中を押さえられた弟分は、なにが起きたかわからずぽかんとした表情で中空を見つめていた。
その先は素早かった。細い身体の天狗は、高々と掲げた手に幅広の短剣を握っていた。大きく欠けた月の光を受け、刃は無慈悲にきらめく。
「御免」
輝きは低い呟きとともに獲物へ突き立てられた。
同じころ、周家では屋敷じゅうひっくり返した騒ぎになりかけていた。
「誰か、町番に知らせてくれ!」
「お義父様、だから他の品と一緒にしましょうと申しましたのに!」
「し、しかし窓は閉めてあったぞ……」
部屋で休もうとしていた薫は、階下のやりとりを聞きつけてそっと扉を開けた。
「待って、白斗が見えないわ。あの子はどこ?」
母の鋭い声。「今日から休みを……」と言いかけた父が、
「そんな、まさか」
と口をつぐんだ。
不穏に静まり返ったその一瞬、薫は「違う、白斗じゃない!」と強く感じた。
すると手前の扉が勢いよく開き、美麗が飛び出してきた。彼女はそのまま階段の手すりへ走っていくと、声の限り叫んだ。
「鏡ならここにあるわ!」
勝ち誇ってかかげたのは、まさしく“月の水鏡”だった。丸く輝く美しい鏡面に、浮き草を模した繊細な銀の縁どり。曽祖父がなにより大事にしていたという宝を、妹はお盆でも持っているかのように軽々と扱ってみせた。
「美麗! いたずらはお止しなさい!」
階下の母が金切り声を上げると同時に、薫が妹のそばへ駆け寄る。美麗は意に介さず、両手で持った鏡を紫檀の手すりの上から突き出した。
「な、なにをする気だ」
祖父がうろたえて叫ぶ。
「みなさま、どうぞそのまま。一段でも上がってきたらこれを落っことすわ。こんな鏡、一瞬で粉々になるわ。こなごなよっ」
「美麗、やめて……」
おずおずと声をかけた薫に、彼女はきっと振り向いた。
「いいえ、やめません」
と底光りする美麗の瞳こそ、鏡うつしの月のようだ。挑みかかるような視線の強さは、薫がなによりも羨んできたものだった。
「お姉様、正直に仰って。本当に領主のお家に入りたいのか、それとも否か。この私だけを見て答えてくださいませ!」
薫の身体が雷に打たれたかのように震えた。妹は、おのれの強さを私のために使っている。臆病でずるい、逃げてばかりの私のために。
誰もが息を飲み、階上の姉妹を見つめていた。
「いま嘘をついたなら、お姉様のこと一生軽蔑いたしましてよ」
鏡にはね返った光が、妹の張りつめた顔を美しく照らし出した。




