我が月を君に(三)
“月の水鏡”が結納の品になりそうだ、と伝えても、磯の兄貴は驚かなかった。それどころか「ブツが動くのはいい機会だ」と笑ってみせる。
「日取りがわかるまで目を離すなよ。ちっとでも隙がありゃかっさらって…… やいウサギ、なにボサッとしてんだ」
「うん? ああ……」
町はずれの雑木林で、兄貴分は押しはかるように白斗を見た。
「てめえ、カタギにかぶれたんじゃねえだろうな」
その声には少なからぬ羨望が混ざっているようで、書生姿の板についた弟分は思わず身を引いた。
「ばか言うなよ、あんなとこさっさと飛び出してえや」
「ふん、どうだか。下手打ちやがったらタダじゃおかねえぞ!」
荒んだ空気をつれて去っていく兄貴を、白斗はあいかわらずの棒立ちで見送った。
央旗の領主家にはいい年の長男がいて、どういうわけか嫁取りが遅れていたが、急に白羽の矢が立ったのが薫だった。
「お琴の納涼会を観ていらして、あの子を見初めて下さったんですって。なんて清楚な方だってたいそう褒めておられるそうよ」
まるで自分が選ばれたかのような浮かれっぷりの周夫人を見て、白斗は会ったこともない領主の息子に毒づいた。
遠くから盗み見ただけかよ、ただの助平野郎じゃねえか。残念だが、あのお嬢さんは金持ちのぼんくらに飼い慣らせるようなタマじゃないぜ……
いや待て。俺が腹を立てる道理がどこにある。
「へっ、知ったこっちゃねえや」
そう呟いたものの、もやもやした気分は晴れなかった。
当の薫はすっかり平静を取り戻していたが、時折よぎる暗い表情が白斗を不安にさせた。そんな様子で庭の池を見つめているところに行き会えば、無視するわけにいかない。涼しさの増した夕暮れの庭で、二人は数日ぶりに言葉を交わした。
「ふちに立つと、危ないですよ」
「そうかしら」
ぽつりと答えた薫は、ゆっくり振り向いた。夕陽に染まってわかりづらいが、白い頬は少し青みを帯びているらしい。光を受けているのに、陰っているようだ。
しおれた花を突きつけられたようで、白斗は無性に苛立った。
「薫様。従順なふりをするのはおやめになったらいかがです」
無礼にもあたるこの言葉を、彼女は「どういうこと?」と静かに受けてたった。
「あなたはただの大人しいお嬢様なんかじゃない。もっと尖ったもんを持ってるのに、周りにびくついて隠してるんだ。違いますか」
少し首をかしげた薫は、書生の言ったことを何度もなぞっているようだった。ややあって、
「それなら、私たちは似た者どうしね」
と、とても寂しそうに微笑んだ。こいつどこまで気づいているんだ、と白斗の鼓動が一気に高まる。
彼がなにも言えずにいると、薫はくるりと背を向け、屋敷とは反対に歩き出した。
「ど、どちらへ行かれます」
日が暮れますよ、と呼びかけても彼女は足を止めない。ついには裏門の柵を開いて外に出てしまったので、白斗は仕方なくついていくことにした。
丸く大きく黄色く明るい、みごとな月の夜。
照らし出された牙骨丘は、まさしく心地よい眠りに落ちた竜のようだ。その一角でなにやら楽しげな声が響いている……
「や、こりゃ白茶ですねえ。たまらん香りですや」
「ふふ、ちょっと奮発してみたの。もう一煎どうぞ、早矢」
「やあどうも、主どの。青の字もいるかい、いるよなあ」
目じりを下げた鳥男は、となりの青年に気安く声をかけた。ついでに勢いよく肩を組まれた東青は、
「早矢さんはお茶で酔っぱらうんですか? そう揺らさないで下さい、あの誰か……」
と助けを求める。その後ろ、そしらぬ顔でリリンと冥狐が小皿片手に話し込んでいる。
「耳は長い方がいい」
「それはそうだけど、すこし尖りすぎじゃなくて? これじゃ角、化け兎ですわ」
「強いうさぎなんだ」
どうやら少年お手製の栗蒸し饅頭の品評で忙しいらしい。
ささやかな膳の上には、饅頭の他に色とりどりの手毬おにぎり、干した小魚や乾き物、砂糖まぶしの寒天菓子などが添えられている。開け放した廊下に五人がおさまり、月の庭を見るやみずや、お喋りが止まらない。
「どうだいリリン、秋の虫がよく鳴いてらあね。怖くないか、怖かろう」
「まあ、声は悪くない。 ……声だけでいい」
ご尊顔も拝んでやれよ、と少年に絡みに行った早矢を見送り、東青とロクハは茶杯を手に並び座した。
「お久しぶりですね、ロクハさん。お元気そうで嬉しいです」
穏やかに笑いかける東青は、言葉どおり幾ばくかの年月を経ていた。この間までは前髪だけ長くしていたのが、いまや全体が伸び、首を過ぎるまでになっている。勤めていた農園から農地を統括する組合に移ったとかで、黒かった肌の色は抜け始めていた。
「東青様も、ご健勝で。すっかり学者先生みたい」
変わらぬ少女にしげしげと見つめられ、彼は照れながら手を振った。
「髪のせいでしょう。実は、友人の婚礼に招かれたので、結えるくらいまで伸ばしているんです。この歳だとさすがに正装で行かなくては」
いつか話をした、同窓の友人どうしの式だと聞くと、ロクハは「まあ素敵!」と目を輝かせた。
「寿里さんと、伊堂さんでしたね。なんておめでたいこと。いいお式になりますように」
ほくほく顔になった彼女を横目に、東青はからくり人形のごとくお茶を飲み、ぎこちなく尋ねた。
「やはり、憧れるものですか。結婚に」
沈黙が落ちかけたのを察して、彼は急いで付け加えた。
「その、女の方であれば、です」
「そ、そうですね。きっとほとんどが一度は……」
不自然に月だけを見ながら会話する二人を見て、冥狐は、
「いま、逃げに走りましたわね」
と囁いた。リリンも、並んだ後ろ姿にちらりと目をやった。
「お前は初めてだったか。あいつをどう思う」
「そうねえ、ちょっとぼんやりしてそうだけれど、人柄はよろしいんではなくて? ま、あとでじっくりお話しするとしましょうか」
おっかねえなあ、と干し昆布をかじりながら早矢が笑った時だった。
「あら……」
とロクハが首を伸ばす。
「おや、なにか?」
東青もリリンたちも、つられて庭の向こうを見渡した。前景の竜胆、中ほどに茱萸の木、さらに奥に金柑の木。五人が見守る中、垣根の木戸の前にふたつの人影が現れた。先に立っていた書生風の少年が、ほっとした表情で頭を下げる。
客人を迎えに、ロクハが立ち上がろうとした。東青は無意識のうちに彼女の手をとり、庭へ下りる短い階段を導いた。
「ほおう、やるねえ」
口笛を吹きかけた早矢の頭を、冥狐が素早くはたいた。




