我が月を君に(二)
「おいウサギ、書生になんな」
「げっ、足を洗えってのかよ!?」
そう聞き返した白兎丸の頭を、磯の兄貴が勢いよくはたいた。動きと一緒に酒の匂いが立ち上る。狭苦しいほったて小屋には数人の仲間がごろ寝していて、おしなべて人相が悪い。白兎丸が一番ましな顔、かつ一番の下っぱだ。
「長ぇ計画なんだよ、こいつは。そんだけの値打ちはあるんだぜ……」
お人好しの名家の主が、書生を探しているという。その家にお宝があると聞けば、これはもう入り込むしかない。しばらく真面目に奉公し、油断させたころにお宝かついでドロン、だ。
「宝ってのが、どうやらなかなかの品らしくてな。こいつを手に入れれば親分の覚えもよくなる。気ぃ張ってこいよ!」
兄貴の凶悪なにやけ面に、弟分もしたり顔でうなずいた。
十把ひとからげの身なし子が都で生き抜くには、よほど運がよくないかぎり影の世界に沈むしかない。元締めの顔は見たことがないが、この一帯を広く仕切っている人物だとは聞いている。これを機会と、手柄を立てるに越したことはなかった。
嘘っぱちの身分証をひっさげた書生ぐらしは、実にあっさり始まった。
人を騙すにも脳がいる、というわけで、読み書きは仲間の学士くずれに教わっていたし、白兎丸は何ごとも飲み込みが早い。家の用事を手伝いつつ私塾に通う生活に、数日でなじんでしまった。
お大尽の書生ってのは気楽なもんだ。
白斗と名乗るようになった彼は、ひとり呟くことがあった。一味の小屋より広い部屋で寝起きできる上に、温かで美味い飯が毎日食える。なにより、多少のへまをしてもボコボコに殴られたりしない……
しかし、困ったこともあるにはある。
「ねえ白斗、どっちが似合うかしら? なにを着ても同じなんて言わないでよ」
「美麗、騒ぐのはおやめなさい。黄色い方でいいでしょう」
「お母様には聞いていません!」
壁ぎわにつっ立った彼は、あくびを噛み殺してからため息をついた。呉服屋の店先で親子の口げんかを聞かされる、ということまでは織り込んでいない。このやかましい妹君は、荷物持ちとしてしょっちゅう書生をつれ回したがった。
それとなく屋敷のつくりを調べようにも、
「あら白斗、暇そうね。これから踊りのお稽古よ、ついていらっしゃい」
と捕まってしまう。お嬢様相手に邪険にもできず、しばらくままごとに付き合うはめになる。盗人・白兎丸の気力を削ぐことにかけて、彼女はずば抜けた才能を持っていた。
だが、お宝のありかに目星がついた以上、おさらばする日も近そうだ。
足の弱ったじじいの書斎は一階にある。つまり、楽勝だ。夕暮れの庭先で屋敷を見上げながら、彼はほくそ笑んだ。
「いいことでもあったの?」
急に声がして、不意を突かれた白斗は鋭い目で振り向いた。薄闇にたたずむ薫が、はっと身をすくめた。
「……嬉しそうに見えたから」
胸元で両手を組みうつむいた彼女に、書生が慌てて取りつくろった。
「今朝お話ししたとおり、見回りをしていたんですよ。改めて、立派な建物だと思いまして」
「そうなの」
薫は探るように彼を見つめた。
昔、美術品の収集家の蔵に忍び入ったことがある。そのとき盗み出した中に、薄く色づけされた陶器の天女像があった。薫を見るといつもその人形の姿がちらつく。頼りなげで儚げな、とても淡いもの。
しかし、それは外見だけのこと。使用人まで能天気な周家の中、なぜか薫だけは勘がいいと白斗は早々に気づいていた。
ということで、気をそらすのに唯一有効な手を使うべし。
「いや…… そうですね。たった今、いいことがありましたよ」
「あら、なあに?」
白斗は少しだけ微笑みを作った。こういう時はあんまり笑いすぎてもいけない。
「薫様が、俺を探しにきてくださった。でしょう?」
陳腐なやり口は磯の兄貴の受け売りだが、箱入り娘にはてきめんに効く……
はずだった。
「薫様?」
目を見開いて固まってしまった彼女に、白斗は戸惑って声をかけた。上等な筆ですっと刷いたような瞳に、みるみるうちに涙が溜まってゆく。
白兎丸は、ここへやってきて初めて仕事を忘れて狼狽した。
「し、失礼を申しました。からかったつもりでは……」
いいえ、とだけ言い残し、薫は屋敷へと身をひるがえす。取り残された書生の後ろで、小さな池がさざなみを立てた。頭の上では、初秋の宵に薄い月が昇りはじめていた。
栗名月を待つ庵は、芒わすれのうさぎ跳び……
厨房から聞こえてきた弟の歌に、ロクハはぎょっとなった。これでは月見が修行になってしまう。
「リリンちゃん」
そっと声をかけると、栗を煮ていた弟ははたと顔を上げた。鍋から立ち上る湯気が、ふり向きかけた頬にかかっている。
「うさぎ跳び、じゃなくて“憂さに富み”」
了解、と真面目くさってうなずいたリリンは、鍋に向き直って箸を動かし始めた。
茶葉棚の前に戻ったロクハは、情けない表情で微笑む。小さいころ、二人は色々な替え歌を作って遊んだものだが、なぜか月見唄だけは弟の頭に強く残っているらしい。彼はこれを歌うと、必ずどこかしら取り違えてしまう。
さて、と気合いを入れ直し、彼女は茶葉の選定にとりかかった。
姉弟は、間近に迫った月の宴の準備をしているのだった。
満月の夜に渡り廊下の障子を開け放ち、中庭を前にして茶や菓子を楽しむ。特に声をかけるでもなく、居合わせたものだけで行われるささやかな宴だ。二人きりのときもあれば、知った顔ぶれが揃ったこともあった。
勘定台に茶壷を並べつつ、今年は誰がくるかしらと思いをはせる。
茶葉も菓子も余分に用意しておくのがいいだろう。飛び入りの客を迎えることだって、ないとは限らないから。
「どなた様も、お待ちしておりましょう」
茶藝館の主が呟いたころ、周家の夕食は重苦しい空気に包まれていた。卓につく家族の中に薫の顔はない。
「薫は大丈夫かい、身体に障ったのでは……」
と、おろおろしている夫に向かって、妻が憮然として答えた。
「そんなことありません。私が言って聞かせますから」
召使いが足音を殺して立ち働く中、祖父が白髪頭をひねる。
「しかし、そんなに嫌かね。十五、六にもなれば、縁談など当たり前だろうに」
「驚いただけですよ、お義父様。領主様のところからお話をいただくとは、さすがに思っていなかったでしょうから。そのうち落ちつきますわ」
黙々と膳を片づけた美麗は、つんとした様子で「ごちそうさまでした」と席を立つ。そして、
「あら、お茶はいらないの」
と尋ねる母には返事をせず、召使いに「お部屋まで運んで」と言いつけるなり、食堂を飛び出していってしまった。
「なんじゃ、美麗まで。二人ともどうしたというんだ?」
途方にくれた老人に答えられる者は、誰もいなかった。
広い階段を駆け上がった美麗は、自室の前を通りすぎると、となりの扉の様子をうかがった。
「お姉様」
小さく声をかける。しかし物音ひとつ返ってこない。彼女はためらわず扉に手をかけた。
そうっと開けたすき間からのぞいてみると、姉は明かりを消した部屋の寝台に伏しているようだった。うすい天蓋の向こうで、細い身体がやわらかな線を描いている。その肩がわずかに上下しているのを認めると、美麗はホッと息をつく。
誰かが階段を上がってくる気配がしたので、彼女は静かに扉を閉めた。
だめね、大人って。なんにも分かってないんだから!
「……あのう、美麗様?」
廊下の真ん中でやれやれと首を振る彼女を、盆をかかげた召使いが不思議そうに見つめていた。




