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竜の丘の茶藝館  作者: 小津 岬
第六話
36/74

夏散花草(五)

 蒸し暑い夜になった。

 離れで休んでいたロクハは静かに身体を起こした。ゆっくりと戸を引き、真夜中の庭に下りる。彼女はそのまま木戸を通り抜けて店の正面まで歩いていった。

 角を曲がって、灯かりを落とした扉の前。小さな影が古びた看板を見上げている。ぺったり座り込んだその姿はなかば透き通っていた。

「もう、閉めていますよ」

 ロクハが冷静な声をかけると、ぼやけていた影が輪郭を取り戻した。粗末な単衣(ひとえ)をまとった青白い子どもが、切り髪の頭をついっと向ける。

 その子には顔がなかった。どんなに目をこらしても黒い(もや)がまとわりつき、小さな顎から上は闇に溶けてしまう。泣いているのか、怒っているのか。

 弱々しく細い腕が上がり、店の入り口を指す。

 しかし主は毅然として首を横に振った。血肉を持たぬものを招き入れることはできない。

 わずかに対峙(たいじ)した挙句、子どもは立ち上がり、なにかをぽとりと地面に放った。かと思うと、薄い身体をひるがえしてロクハの脇を駆け抜けていった。ひとつの風も起こらなかった。

 彼女は、子どもの残していったものを拾い上げる。星明りにかざしたそれは、丸まって萎び、乾きはじめた大きな花だった。ふいに千穂の絵を思い出す。

 しかし真っ白だと聞いたはずの花弁は、いまや濃い赤色に染まりかけていた。そっと血につけた縁からじわりと侵されるように。

 少女の厳しいまなざしの下、花の亡骸が虚ろな音を立てた。

 夜明けはまだ遠い。

 距離を隔てた伏野の町で、千穂の目が寝苦しさにうっすらと開かれていく。頼りなげにさまよった視線が、吸い込まれるように定まった。半開きの戸のすき間から確かに見える、廊下に立つ小さな足が。

 彼女は息を飲んだまま動けなくなった。声すら上げられず、ただ唇を震わせて顔を引きつらせる。

 青白い足、それにつながる身体が、少しずつ近づいてくる。枕のすぐ横で気配が濃くなったのがわかる。目を閉じることができない……

 顔のない顔が千穂をのぞき込んだ。


 目は、真夜中の道を確かな足取りで進んでいた。

 両脇に並ぶ家々はすっかり寝静まり、見とがめるものは一人もいない。うるさく邪魔をされないでいるとますます視界が澄んでいくようで、目は安堵した。これで町を守ることができる。

 まだ誰も知らないが、この一見おだやかな町にも悪いものが潜んでいる。放っておけば周りに災いをもたらすのだから、印をつけて見張らなくてはいけない。それがよき目を与えられた者の使命なのだ。

 見慣れた竹垣が現れる。大きな夏蜜柑の木が、夜に影の葉を繁らせている。家の中に動きがないことをちらりと確認すると、握りしめた手を、胸ほどの高さの垣根の上から素早く差し出そうとした。

 そのとき、カッと音を立ててまたたく間に視界が明るくなった。

「動くな」

 抑えつつも厳しい声が背中を刺す。照らし出されたみずからの影が竹垣の上で震えている。

「種がなければ芽も出ない。お前の仕業だな」

 角灯を掲げたリリンは、じわじわと追いつめるように聞いた。光の中心にある痩せた背中が身じろぎした。

「……これは、しるしです」

 老婆の声が答える。

「この家には悪しきものが。()(ばな)を植えて見張らなくては」

 かすれた声はひどく老いている。喋っているのは一体誰だろう、と目は考えた。狭い庭の先で、窓に光がはね返った。

「そんなものはいやしない」

「いいえ、いいえ。私だけがわかる……」

 握った手を胸にあて思わず振り返ろうとした彼女を、庭を越えた千穂の声が止めた。

「関の、奥様……?」

 そう呼びかけたものの、明かりを背負った老婦人はまったく知らない人物のように見えた。のっぺりとした不気味な顔の中で、ふたつの目だけがぎらぎらと光っている。

「……この子よ。この子で終わりにしないといけないの」

 あからさまな憎悪を込めた視線に、千穂は家の壁に寄って身をすくめた。

「あれだけ言い聞かせたのに相手を探し始めて…… 代をつなげばあなたにも不幸があるのよ、お母さんがどうなったか知っているでしょう!」

「とんだ見当ちがいだな。千穂はただの善良な娘だ」

 その声を聞いて、千穂は明かりの向こうにいる少年にようやく気づく。そして彼の後ろにロクハの幻影を見た。

 心配しないで、私は大丈夫。子どものころのような、向こうみずな気力が湧き上がってきた。

「奥様。母も私も、平凡な人間です。なんの力も持っていません」

「嘘よ! そうやって長い間みんなを欺いてきたんだわ。呪いを振りまきながら人のものを、そうよ、奪われたのあなたに! 返して、返してちょうだい私の子を!」

 子ども。

 千穂はハッとなって、手に隠していたお守りを強く握った。関夫人の目には過去や作られた真実がひしめき、めまぐるしく色を変え続ける。老いさらばえた両手が思いがけない素早さで垣根にかかった。

 囲いを乗り越えようとしたのだろう。だが、老婆の動きは急に止まった。

 千穂はとなりにいるのを感じた。ついさっき彼女を起こし、庭先まで導いてきたあの子が、強い気配を漂わせて。

「見張るというなら見るがいい。さあ、お前の目になにが映る!」

 凛々しく言い切った少年が角灯をつき出した。もはや老婆の視線は千穂ではなく、その脇の一点に注がれている。まなじりが裂けんばかりに見開かれた。

 千穂の目もまた、光の先へと向かっていた。茶店の少女が立っていたはずの場所には、いまや遠く懐かしく、そして永遠に温かいあの姿が見える。

 お母さん。

 そう呟いたのが自分だったかどうか、千穂は後になっても判断がつかなかった。

 誰の言葉であれ、老婆の悪意を折るにはじゅうぶんだった。わなわなと口を開けた彼女は、全身の毛を逆立てて激しく震え出した。

「千穂、どうした!」

 戸口から、ばたばたと父が飛び出してきた。関夫人が悲鳴を上げ始めたのは、それと同時だった。

「父さんっ」

と千穂は玄関に駆け寄る。廊下の奥から叔母も走り出てくる。三人は、怯えた目を庭に向けて手を取り合った。悲鳴は続いている。

 なんだ何だ、と周りの家からも人が現れ始めるころ、いつの間にかリリン少年は姿を消していた。それからあの子も……

「関の婆さんじゃないか。しっかりしなさい!」

 駆けつけた町番に肩を揺さぶられても、老婆の甲高い悲鳴が止めることはなかった。やがてその声には嗚咽が混じり、夜を引き裂くような慟哭(どうこく)へと変わっていった。

 顔を覆ってしゃがみ込んだ彼女のまわりに、ぱらぱらと種子がこぼれ落ちていた。

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