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竜の丘の茶藝館  作者: 小津 岬
第六話
35/74

夏散花草(四)

「ああ、千穂! いないかと思ったじゃない」

 厨から現れた叔母が声を上げた。千穂が飛び出したときから、さほど時間は経っていないようだ。茶藝館では陽が落ちかけていたはずが、ここでは夕刻までまだ間がある。

「ごめんなさい、外の空気を吸いたくて。だいぶ楽になったわ」

 これは本当だった。家までの帰り道を、リリン少年はずっとついてきてくれていた。

「実は、初め、あの時の子どもだって分からなかったんだ。姉さんはすぐ見抜いたらしいけれど」

「おあいこですよ、私だってすっかり忘れていたんですから」

 なんとも不思議な会話だが、今の彼女にとってはなにより自然なものだった。

 例の花は、悲しいことに千穂の絵では判断がつかず、リリンが持ち帰って調べてくれることになっていた。庭先に着いて、あちらにと示そうとしたとき、千穂は目を見張った。

 膝丈に伸びた茎と大きな葉を残して、すべての花が消えている。散ってしまったのだろうかと探してみたが、残骸は見あたらない。

「昨日までは確かにあったんです…… まさかあの子ども、本当に?」

 うろたえる千穂に、

「大丈夫だ」

とリリンが言った。

「なにも怖がることはない。お前は成長して、自分で思うよりずっと強くなっている」

 そのまなざしに懐かしさを覚える。彼に励まされるのは、どうやらこれが初めてではなさそうだった。

 夕食が済むのを待って、千穂は何気なく父に尋ねてみた。

「母さんの遺したものを見たいんだけど、いいかしら」

 ぼんやりとうちわを動かしていた父は、お、と間の抜けた声で答えた。

「どうしたんだ、月命日でもないのに」

 そう言いながらも廊下に消え、しばらくすると小さな行李(こうり)を持ってきた。この飴色に編まれた箱は、今までにも何度か開けたことがある。

 しかし、なにかを探ろうとしたことはなかった。

「種は過去に植わり、いま芽吹いたのだと思います。忘れていること、知らなかったこと…… あなたが夏を(いと)う訳も、その中に隠れているはず」

 ロクハに言われて、彼女の胸は高鳴った。幼い千穂に関わる話をよく調べる必要があると、主は続けた。

「それは千穂ちゃんのことだけではなくて、周りにいた大人のことも。たとえば、身近な人が辿ってきた道のりについて……」

 そう聞いたとき、真っ先に思い浮かんだのが母だった。

「覚悟なさい、兄さんからの恋文が出てくるわよ」

 叔母が茶化しながら傍らを通る。やめろよ、と顔を振る本人も、実のところまんざらでもなさそうだ。千穂は微笑みながら蓋を外した。

 古びた香りがふっと立ち上る。

 母の澄架(すみか)は飾りものに頓着しないたちで、日々の品も最低限しか揃えていなかった。くしや手鏡を千穂が受けついだこともあり、衣服の他はこまごまとした紙の類がほとんどだった。

「俺の名が入ってるのは読むな」

「はいはい」

と答えつつ、まさに結婚を申し込む決定的な文を広げたとき、小さな包みが卓の上に落ちた。

「あら、いけない……」

 拾い上げてみると、それは布で作られた簡単なお守りだった。表に“桃実童子廟(とうじつどうじびょう)”とだけ書かれている。子どもの健やかな成長を祈るために国中の寺で配っている、ありふれたものだ。

 中に戻しかけたが、わずかな違和感が千穂の手を止めた。

 誕生に際して贈られた品々は、このようなお守りも含めてすでに彼女へと託されている。嫁ぐ日、ともに家を出ていけるように。

「これ、父さんが? それともお祖母ちゃん?」

 お守りを見せられた父は、うーんと首をひねった。

「さあ、見覚えないな。母さんがお寺に頼んだんだろう」

 ずっと後になって手に入れたお守りを、わざわざ求婚の文と一緒にしまうだろうか。

「結婚を決めて、すぐ貰ったのかしら。ちょっと気が早いと思うんだけど……」

と叔母に聞いてみると、彼女は少し考えたあとで遠い目をした。

「きっと、子どもを授かるのがそれだけ楽しみだったのよ。義姉(ねえ)さんよく言ってたの。自分は家族の縁が薄かったから、今の暮らしが夢みたいだって」

 母は南の生まれだが、一家は困窮のはてに離散してしまったと聞いている。それから大河を越え町へ出て、鍛冶工の手伝いで身を立て直すまで、ずっと一人で頑張ってきたのだ。

 工房どうしの使いとして出会った父は、ためらいがちに明かされた身の上を一片も疑わなかった。他人の苦労をもしのぶ人柄が、そこに嘘がないことを示していたからだ。

「俺はね、生まれ変わっても母さんと添い遂げたいよ」

 思い出に誘われた父がこぼした言葉に、二人は目を丸くした。

「やだ兄さん。隠れてお酒でもお召しになったの?」

 叔母の大笑いにあい、父は恥ずかしそうに背を丸めて退散した。


 母が亡くなったのは、蝶々が舞う春の朝だった。

 少し息苦しいからと床についたまま、医師を呼ぶ間もなく静かに逝ってしまったのだ。幼い千穂は、母はぐっすり眠れば起きてくるものと思いこみ、どうして父たちが騒ぎ泣いているか不思議に思っていた。

 だが、そんなことを聞いて叱られた記憶はみじんもない。家の大人たちや、飛んできた僧に(さと)された覚えもない。

 誰かが私に死をわからせた。

 暗闇の部屋で布団の上に座り、千穂は母のお守りを握りしめていた。となりで寝息をたてる叔母を起こさないように、そっと立ち上がる。

 真夜中の居間には、月明かりだけがひっそりと差し込んでいる。彼女は影に沈む廊下に向かって小さく口にした。

「あなたなの?」

 あの日、別れを教えてくれたのは。

 大丈夫、大丈夫と心の中で唱え、激しく鳴る心臓を抱えて微動だにせず待ったが、物音ひとつ返ってこなかった。

 考えが高じてなかなか寝つけず、翌朝、千穂は叔母に追い立てられながら慌てて身支度するはめになってしまった。しかし、駆け回れるほどに体力が戻ったことが嬉しくもあった。

 叔母も笑顔になり、

「もう平気そうね、これお願い」

と水汲み桶を手渡してくる。庭の横を通りしなあの花の名残を探したが、ついに萎れてしまったのか、すっと立っていた茎すらも見えなくなっていた。

 ただの花をあんなに怖がっていたなんて。もしかしたら、子どもの影も不安の招いた幻だったのかもしれない。

 千穂は拍子抜けした気分で井戸に向かった。晴れ上がった陽気に、共同の水場にはすでに人が集まっている。彼女を見るや、ご婦人方が一斉に沸き立った。

「千穂さん、お見合いですって! やっとねえ」

「本当におめでたいこと。お相手はどちらのお方?」

 違います、と否定したところで聞いていやしない。初めに席に着く様子を観察するといいとか、私は見る目がなくて失敗しただとか、すでに本人を置き去りにして盛り上がっている。あとで叔母から訂正してもらうしかないだろう、と彼女は諦めた。

 近所の人々に母のことを尋ねようかという気も、すっかり失せてしまった。水を満たした桶を抱えてさっさと歩き出したとき、後ろから「やあ!」と声がかかった。

「志典さん。この間はご心配いただいて」

「元気そうだな、よかったよ」

 朝市帰りの料理人は、両手に野菜の籠を提げて彼女に並んだ。そして、少しためらってからこう切り出した。

「見合い、するのかい」

 井戸端の騒ぎを聞かれてしまったようだ。千穂はため息を隠してかぶりを振った。

「お話を断っただけです。尾ひれがついて泳ぎ出して、そのうち海まで辿りつきそう」

 わざとおどけてみせると、青年は「なあんだ」と大きな声を上げ、急に元気になったようだった。

「そりゃ千穂さんが困るだろうに、おばさま方は本当に噂話が好きだな」

 人の寿命を縮めやがって、と小さくつけ足すと、千穂が「えっ、なにか?」と聞き返した。

「いや、今日もがんばらなくっちゃ! たまにはうちに食いに来てくれよ、おまけで大盛りにするからさ」

「あら、それじゃあ三人で押しかけましょうか。みんな遠慮しませんよ」

と、笑いながら道をゆく。

 その姿をじっと見ている目があることに、二人は気がつかなかった。

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