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竜の丘の茶藝館  作者: 小津 岬
第六話
34/74

夏散花草(三)

「千穂、お茶を淹れてくれるの?」

 居間から叔母の声がして、彼女は手元を見下ろした。いつの間にか茶筒と茶さじを握りしめている。背後のかまどには火が入り、すでに鉄瓶が湯気を吹いていた。

 小窓から入る陽は妙に黄色がかっていて、不穏な静けさが漂う。かちゃかちゃと器のふれあう音が千穂を落ちつかなくさせた。

 茶葉をすくおうとして手が止まる。薄緑の葉に混じり、白く大きな花びらが一枚。その真ん中に、できもののような膨らみがある。

 目。

 そう気づいたとたん、花びらの眼球がぐりっと回って彼女をとらえた。ごぼごぼと不快な音を上げて茶筒から花びらが溢れ出し、冷たく湿った感触が手にふりかかる。なにもかも放り出して千穂は悲鳴を上げた。

「叔母さん!」

 居間に駆け込んだ彼女は凍りついた。叔母の座る卓の上に、あの花が飾られている。

「どう、した、の」

 ずずずずず、と空間がゆがみ始める。水の中のようにぼやけた視界、振り向こうとする叔母の声がでたらめに引き伸ばされる。

「ちほ、おちゃ、をおおぉいいいれてくれえええるのおおおおぉ」

 やめて! と叫んだ瞬間、一気に焦点が戻った。

 こちらを見すえる叔母の顔にはぽっかりと黒い穴だけが開き、もはや言葉もなく風のようなごうごうという音を発していた。千穂は(おのの)いて声を上げる。

「あなたは誰!?」

 卓上の花たちがすべての眼球を彼女に向けた。

 小さな寝室で千穂は飛び起きた。

 呼吸が速くなり、全身が冷たい汗でびっしょり濡れている。震える手で肩を抱くと、ようやく心が落ちついてきた。

 今朝から体調を崩し、店を叔母に任せて休んでいたのだった。そう思い出すと、彼女は壁を探りながら作業場へ立った。

「あら、まだ血の気が薄いわね。大丈夫?」

と、座布団の上で籠を編み直しているのはいつもの叔母だ。当たり前のことに千穂は心の底からほっとした。

「そうだ。お茶屋さん、少し前にお鍋取りにきたわよ。あなたによろしくって、しっかりした子ねえ」

 えっ、と千穂は声を上げてしまった。前と同じ茶葉を買いたいと頼もうと思っていたのに、間の悪いこともあるものだ。

 リリンを追いかけてみようか迷ったが、叔母がこれから直し物の配達に出るという。千穂が起きてくるのを待っていたのだろう、

「急ぎだから、今日中に届けないと」

といそいそ仕度を始めた。

 あの夢のあとで一人になりたくなかったが、引き止めるわけにもいかない。廊下まで見送りに立った千穂は、肩掛けをしっかり握って部屋へ戻ろうとした。

 ぼとり。

 と音を立て、足元になにかが落ちる。

 見てはいけない。瞬時にそう感じたが、誰かに頭を押されたようにゆっくりと顔を向ける。陰になった暗い板敷きから自分のつま先へ視線が移る。右足、かかとのすぐ横になにか白いものが……

 花。

 庭に咲いた白い花。私を見ていたたくさんの目。

 足元から寒気が駆けあがり、彼女を縛りつけた。

 ぼとっ、と次なる花が投げ落とされる。明らかに生者の色ではない小さな手が目の端に映った。次々と花をまいていく。その一つが足をかすめた。あまりにもはっきりとした感覚。

 これは夢じゃない!

 彼女は凍っていた身体を弾けさせ駆け出した。走っている間、自分が悲鳴を上げているのかどうかわからなくなるほどに鼓動が鳴り響いた。

 気がつくと、彼女は林の中で膝を抱え、子どものように声を上げて泣き続けていた。

 その背中にそっと手が置かれる。生きた人間の温かさが伝わってきて、千穂はしゃくりあげながら顔をぬぐった。

「さあ、帰ろう」

 少年は優しく言って、千穂を立ち上がらせた。彼女の涙は止まらなかったが、片手を引かれると大人しく歩き始めた。さくさくと枝葉を踏みわける感触。

 やがて、懐かしい茶店の扉が開く。姿を見せた少女が千穂に向かってふんわりと両手を差し伸べる。どこか痛ましげな、限りない慈しみを込めた表情で。

 彼女はためらわずその中へ飛び込んだ。この時をずっと待っていたと感じながら。


 店のすみの長椅子で、客人は長いことロクハの膝に伏していた。主は小さく童謡を口ずさみながら、千穂の肩で穏やかな拍子を取っていた。

 ゆっくりと、千穂が身を起こした。泣き濡れてはいるが、意志の宿るしゃんとした顔をしている。

「……私、ずっと前にもここへ来ました。子どもの時に」

 そう呟いた彼女の髪を、ロクハは優しく直してやった。

「千穂ちゃん、大きくなったね」

 まったく同じ微笑みを見たのは、どれほど昔だったろう。十年、二十年……? そう、ちょうど母が亡くなったころだ。

 ついたての向こうからリリンが声をかけた。

「これ、間に合わせに。冥狐(めいこ)乙矢(おとや)か知らないが、置いていったならいらないんだろう」

 仕切りの端から青い靴が押し出される。土に汚れた足を見下ろし、裸足で走ってきたことに千穂はようやく気がついた。

 ロクハが足を拭いてくれようとしたので、彼女は慌てて「自分でやります」と遮った。

「そう?」

と少女は少し残念そうに手ぬぐいを渡す。彼女からすると、千穂は小さな子どものままらしい。赤面したところに少年が追い討ちをかける。

「葛きりがあるぞ、千穂。お代わりの新記録を作るか」

 おぼろげな記憶しかない彼女は、一体どんなふるまいをしていたものかと空恐ろしくなった。

 二人の話によると、とある夏、幼い千穂が何度もやってきたそうだ。そして彼女はいつも泣いていた。

「みんないなくなっちゃった、って。覚えている?」

「いいえ…… きっと家族のことだと思います。母が亡くなった年は、色々と生活が変わったので」

 ともに暮らしていた叔母の夫は出稼ぎで町を離れたし、叔母自身も外に働きに出ていた。父は工房に行かねばならず、千穂は近所の家に預けられることが多くなった。しかしどうしても余所の家になじむことができず、結局はひとりで留守番をするようになったのだった。

 という話は、すべてあとになってから聞いたもので、当の本人はほとんど覚えていない。遠すぎる思い出は、成長していく中でとうに脱ぎ捨てられてしまった。

 靴を履いた千穂を卓へ導きながら、ロクハが問いかける。

「さっきは、あのときと同じかと思ったの。誰かに置いていかれてしまったのかなって。けど、別の訳があるのね?」

 千穂は、花を散らしていた小さな手を思い出し、決意したように顔を上げた。

「初めに、花が咲いたんです」

 そして目にしたものすべてを、順を追って話し出した。見知らぬ花、心身の不調、おぞましい夢に子どもの断片…… いつもと違う不穏な夏と、そこから逃げてきた理由を。

「私、おかしくなってしまったんでしょうか」

 青ざめて尋ねた千穂を、姉弟はきっぱりと否定した。

「誰にだって、ものが見えすぎる時はあります」

「本当におかしくなっていたら、ここに来れなかったさ。ところで姉さん、その花のこと、なにか分かるんじゃないか」

 弟の言葉に、主は「そうね」と紙と木筆を持ち出してきた。

「千穂ちゃん、描いてごらん」

「えっ。あの、絵は苦手で……」

 戸惑う彼女に、リリンが「そんなことないだろう、前は僕たちを描いてくれたのに」と横やりを入れる。取ってあるから見せようか、というのを固辞し、千穂はなんとか線を形にし始めた。

「ほら描ける、苦手なんて思い込みだ。大人になるって寂しいものだな」

「分別がついたんです。これ、似てないって自分でもわかりますよ」

 釈明しつつ見せると、のぞき込んだロクハは、

立葵(たちあおい)、の一種、かしら……」

と言ったきり難しい顔で考え込んでしまった。煮くずれたような花の絵を前に、千穂はひたすら縮こまって汗をぬぐった。

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