夏散花草(一)
※少しだけですがホラー要素を含みます。苦手な方はご注意ください。
庭のすみに見知らぬ花が咲いた。
朝餉の席で千穂がそういうと、父も叔母も揃って窓に目を向けた。
「なにか植えたのかい、糸江」
「庭は千穂にまかせっきりですよ。どれ?」
叔母が粥をよそいながらさらに首を伸ばしたので、千穂は手を挙げて遮った。
「ここからじゃ見えなくて、垣根のきわの白い花。擬宝珠の陰になってて気づかなかったの」
あとで見てみるわ、と叔母は簡単に答え、湯の沸きあがった鉄瓶へとせわしなく歩み寄る。粥をすすって早くも汗をかいている父は、それ以上の関心を示さなかった。
「朝のうちに追坂飯店さんが受け取りにくるから。預り証をちゃんともらうんだぞ、よく確認してな」
と、いそいそと器を片づけて立ち上がる。娘が仕事を手伝うようになってもう十年以上経つのに、いまだに細かく言い置かないと不安らしい。
「はい、確かに。いってらっしゃい」
戸口に見送りに立った彼女に目をやると、父は自然なふうを装って言った。
「見合いの話、考えたか」
考えるもなにも、と千穂は眉を下げ、静かに答えた。
「お断りしてって、言ったはずよ」
「考え直したかってことだ」
朝の光を浴びた四角い顔は、いつもより年をとって見える。いま言い合いしても仕方ないと思い、彼女はあいまいに微笑んで手を振った。
うつむいて歩いていく父の姿に居心地の悪さが残り、ごまかすように庭に出る。
庭といっても特別なものではなく、夏蜜柑の木だけでいっぱいになるほどの狭さだ。今年もよく花をつけているので、じきに大きな実を結ぶはずだ。
普通、夏蜜柑の収穫期はもっと早い。八月生まれの千穂のために、両親がわざわざ晩生りの種を探したのだった。
一緒に育ってきた、私のための木。それなのに、見上げるたび気分が重くなるのはどうしてだろう。
「千穂、洗い物をお願い。早くしないとお客さんきちゃうわ」
窓から叔母の元気な声が飛んでくる。千穂は謎の花をあらためるのも忘れ、急いで中に戻った。
父は鍛冶工房にかよい、鍋だの鋤だの日用の品を作っている。家の方では雑貨の修繕を請け負っていて、近隣からこまごまとしたものが運びこまれる。それを受けつけたり、時にはみずから直したりするのが千穂の仕事だった。
この先もこうやって続けていくのだろう、と彼女は思っていたが、このごろ父がこんなことを漏らすようになった。
「いつまでもうちにいることないんだ。もっといい家に嫁に行きな」
八月が終わるころ、千穂は二十五になる。同年代の娘さんたちがとっくに他家へ嫁いでいることに気づき、さすがに心配し始めたようだ。
「私は、今の暮らしが好きなの」
そう答えると、彼は複雑な表情で黙ってしまう。家業に心をさいてくれるのが嬉しい反面、うちじゃ婿はとれないだろうなと諦めている顔だ。
静かな親子のかけひきを終わらせるのはいつも、明るい叔母だった。
「兄さん、今すぐは無理ですよ。式を挙げるにもその髪を伸ばさなきゃね。一年はかかるかしら」
千穂の髪は、成人女性にしては珍しいほど短くしてある。首にまとわりつく感覚や、結って引っぱられるのがどうしても嫌で、子どものころからずっと同じような頭だ。
これについても父は時々なにか言いたそうにしていたが、やはり叔母が収めてしまうのだった。
「いいじゃないですか、千穂らしくて」
この言葉のとおり、少し変わった子、という周りの認識は昔から一貫している。
口数の少なさは父ゆずりだが、外を走り回るより、じっくりと景色や物を見ることを好んだ。家の中でも、ただの壁や板目を熱心に眺めていることがよくあって、一体なにが見えているのやらと大人たちは訝しがっていたという。
髪のことも手伝って、長じた今では、近所での評判は「働き者だけど、少し変わったお嬢さん」とあいなったのだった。もうすぐお嬢さんとも呼べなくなるが……
夏が憂鬱なのは、年をとるせいかしら。
飾りっ気のないわりに、こんなところだけ人並みの女性のようだ、と千穂はくすりとした。
「ご免ください、追坂飯店です!」
と、のれんを張った戸口から威勢のいい声がして、彼女は帳面を手に立ち上がった。
「そういえば、志典さんはまだ独り身だったわねえ。あれはいい人よ、千穂」
一息ついた午後、ついに叔母までそんなことを言い出したので、千穂はつくろっていたざるを置いて天を仰いだ。
志典とは、朝方やってきた料理人の青年だ。鍋などの修繕を頼んでくるなじみの飯店に勤めていて、引き取り役はいつも彼だった。
「おはよう千穂さん、朝から暑いな」
身長があまりなく、ずんぐりとした天道虫のようだが、はきはきしてよく通る声が人柄を表している。
「本当に。厨房は大変でしょう」
「うん、牛脂より先に僕が溶けちまうよ」
そう言ってはにかんだ顔を思い出す。確かに彼は好人物で、顔を合わせれば少々の会話はする。しかしそれだけの間柄でしかない。
開け放した部屋でも、じりじりと暑い。窓にのぞく庭は鮮烈な光の中で静止画のように目に焼きつく。早くこの季節がすぎてしまうように、彼女はこっそりと願っていた。
預かった道具を直しては返し、また引き受けて……
いつもと同じ日々のはずが、今年は特に時間の進みが遅いように思える。そのくせ、なにかに追われているような気持ちが消えず、千穂の疲れはたまる一方だった。
数日して、再び店にやってきた志典は、その顔色を見るなり心配そうに言った。
「暑さ負けかもしれない。一度、診てもらいな」
「そうかしら……」
大げさではないかと千穂は迷ったが、青年はきっぱりと告げた。
「だってあんまり食べてなさそうだし、そいつはよくないよ」
料理人らしい判断のつけ方に、彼女はやせた頬を思わずゆるめた。
ちょうど次の日、店を休みにしていたので、千穂は買い物のふりをしてさりげなく家を出た。父や叔母にいらぬ気苦労はかけたくない。
日よけの頭巾をかぶって歩いていると、脇の家から、
「あら、こんにちは」
と声がかかった。白髪の老婦人が軒先で笑顔を見せている。
「関の奥様。今日もお暑いですね」
千穂が頭を下げると、彼女はうきうきした様子で声をひそめた。
「お見合いの話がきたんですって? どんなお相手か教えてちょうだいよ、必ず内緒にしますから」
どうといわれても、釣り書きすら見ていない。噂の走る速さにうんざりしながら、お茶を濁してそそくさと立ち去った。彼女は古くからのご近所さんで、幼いころなどよく面倒をみてもらった優しい夫人だが、長く知り合いすぎているというのは時にやりづらい。
ぱっきりと青い空に、もくもくと積みあがる雲。すばらしい眺めにも心は沈んでいくばかりだった。
おや、と彼女は足を止めた。
下ばかり見て歩いたせいか、知らない道に入ってしまったようだ。両脇に木々がしげり、目の前には坂が続いている。こんな場所、町にあったろうか。
困った千穂があたりを見回していると、突然に声がした。
「そこの人、どうか」
はっと振り向いた先には、籠を背負った少年が立っている。深くかぶった笠の下から、意志の強い目が彼女を射抜いた。町の人々とは様子が違うように思える。
「あの、道に迷ったようで…… 伏野の薬師さんには、どちらに行けばよいでしょう」
鼓動を落ちつかせながら問うと、少年は千穂の顔をじっと見つめた。
「薬より、休息が必要に見える。ついてこい」
「えっ、は、はい……」
神託を告げるかのような、妙な説得力のこもった口調につき動かされ、千穂は背を向けた彼を慌てて追いかけ始めた。




