太刀風渡る海(四)
「玄さんってば、どこまで行っちゃったのかしら」
珍しく書庫に陣取っていたロクハは、散らばった本に囲まれてため息をついた。川を通れば一日ほどで帰ってこれるはずが、すでに五日が経っている。
こちらの進展もほとんどないに等しかった。彼女は改めて丈灰門に関係ありそうな茶を探していたが、これというものは見つかっていない。
中庭の木戸を開ける音がして、ロクハは窓にかけ寄った。
「姉さん、ただいま。なにか見つかった?」
ふもとの町まで買出しに行っていたリリンが、籠を背負ったまま近づいてくる。姉は残念そうにかぶりを振った。その顔色に疲れを見てとった弟は、手招きして言った。
「だいぶ暑くなってきた。少し休憩しな」
ほっとした表情で「そうね」とうなずいた姉に向かって、彼はちろっと舌を出して笑った。
「実は、桂皮を仕入れてきたんだ。あの外道茶がどんな味か試してみたくて」
提案を聞いたロクハも面白がった。
「わあ、やってみましょう! でもお酒は抜きね」
ということで、甘い大麦茶に芳香が移った子ども用の外道茶ができあがった。どうせなら冷やして飲もうと、二人は薬缶をぶらさげて仲良く沢まで歩いていった。
「ああ、水が流れるところっていいね」
ロクハが両腕を伸ばし、気持ちよさそうに空気を吸い込む。背の高い木々に守られる冷たい清水に薬缶が浸される。
せせらぎに葉ずれの音、鳥や虫の声…… まったく穏やかな夏の午後。リリンがふと不安にかられるのは、そんな小さな幸せを覚えるときだった。
あとどのくらい時間が残されているか、僕にはわからない。
岩に小さな足を投げ出して鳥を数えていたロクハが、弟の視線に気づく。やわらかい静寂の中、二人は長い間、瞳を交わしあった。
ふっ、とロクハが頬を緩める。
「まだ、一緒にいるよ」
「うん」
そう答えながらも、彼の凛々しい目は見通せない未来に揺らいでいた。
その心を知ってか知らずか、小さな姉はぴょこっと立ち上がり、「冷えた!」と薬缶を引き上げた。注ぎ分けた茶を、それぞれ慎重に味見する。
「あれ、おいしい。あんまり外道じゃないよ」
「まあまあかな。酒が入るとなると恐ろしいけど、玄なら薬缶まるごと飲みたがりそうだね」
と、このころにはすっかりいつものリリンに戻っていた。
「しかしあいつ、亀足にしても遅すぎる。海辺は迎えに行ける距離じゃないし……」
気を揉む彼の肩をロクハがぽんと叩いた。
「もしかしたら、いい話をつかんで追っかけてるのかも」
「それか、諦めて酒蔵をめぐってるかだな」
さもありなん、と二人は並んで息をついた。
さらさらと音を立てる水面を眺めるうち、ロクハが呟いた。
「どうして流しちゃったのかしら」
なにが? と言うように弟が顔を向ける。
「丈灰門の、最後。基豪にしたら実のお兄さんなのに」
「それはやっぱり、お互いに嫌っていたからだろう。長いあいだ離れていたのも、丈灰門の悪行が過ぎたせいだし」
リリンはそう答えたが、納得いかない様子の彼女はこんなことを言い出した。
「じゃあ、今が戦国時代で、私が極悪武人だとして……」
唐突な申し出に、弟は茶にむせ返って笑い出した。
「姉さんが甲冑つけても、怖くもなんともないよ。おもちゃみたいで」
「おもちゃでもいいから! それでリリンちゃんが私を成敗したなら、どう? すっごく仲が悪くたって、海に捨てるかしら。塚くらいは建ててくれるんじゃないかな」
じっと考え込んだリリンは、やがて碗を置いた。
「確かに、敵の亡骸は勝利のあかしでもあるな。首も取らずに放り出すのは不自然だ。祟られても困るだろうに……」
きっとわけがあったんだ、と言ったその声は、沢のせせらぎに乗って流れ出した。
風蓮と出会ってから数日、玄は一座の力仕事をうけおう代わりに舞いの手ほどきをしてもらっていた。説話あつめが行き詰ったこともあるが、丈灰門の気持ちになってみるのも悪くないと思ったからだ。
「おっ、板についてきたぜ兄さん。もう少し腰を落としな」
「うかうかしてちゃ役を取られちまうよ」
一座の者はひげ面の志願者を面白がり、時たま声をかけてきた。
「ねえ玄、うちに入っちゃいなよ。来年あたしと組んで浜神舞いしよう」
冗談か本気か、風蓮はそんなことまで言い出すのだった。
しかし、そろそろ牙骨丘に戻らなければいけないころあいだ。彼が暇と礼を告げると、彼女は気落ちした顔を隠すように「それじゃ、別れの舞い!」と練習場に躍り出た。
かたむきかけた陽の中で始まったのは、浜神舞いの最後の部分だ。波に巻かれる悪鬼の前で鎮魂の舞いを納め、亡骸を海に還す……
上がりかまちに腰かけた玄は、ひとり優雅に舞う風蓮を眺めた。
「きれいなもんだな」
彼が呟くと、後ろに控えていた沖がうなずいてこう続けた。
「俺はね、斬られている時もそう思っていたよ。こんなに立派な神様になら、退治されても仕方あるまいってねえ」
亡骸を見送った浜神は、胸の前で剣を交差させる美しい礼の型で動きを終える。彼女が顔を上げたとき、額から流れた汗が涙のように光った。
玄がようやく茶藝館に戻ったのは、六日目の夜も更けてからだった。
「玄さん、お帰り」
とロクハの明るい声が弾ける。その後ろで弟は安堵のため息をついた。
「捕まって鼈甲細工にされたかと思ったぞ」
「俺の甲羅はそんな上等じゃねえよ。待たせて悪かったが、釣果はないんだ」
玄は気まずそうに坊主頭を掻いた。簡単な夜食を馳走になりつつ、丈灰門役の修行をしてきたことを話すと、リリンがこらえきれずに吹き出した。一方のロクハは嬉しそうに催促をする。
「玄さんが舞いを? 見たいっ」
「へへ、それじゃあ」
その気になった玄が席を立つと、リリンは「笑い死にはごめんだ」と厨房へ避難してしまった。
「後で頼んだって遅えからな」
少年の背に声をかけると、玄はお囃子の節を吟じながら重々しく踊り始めた。ロクハは手拍子を合わせる。
広げた足を踏みしめ、大太刀を薙ぎ払い……
彼女は海を知らないが、玄のぎこちない舞いの向こうにも浜辺の情景が見えてくる気がしていた。途方もなく大きな世界につながっている青い玄関と、そこで営まれてきた祭りのにぎわいが。
「と、ここでこう斬られて、丈灰門の出番はおしまいだ」
少し恥ずかしそうに締めくくった玄に、ロクハはなんとも楽しげに拍手を送った。
「終わったか」
番茶の準備をしていたリリンが顔をのぞかせる。
「リリンも見ればよかったのに。格好よかったよ」
素直に褒められ、玄は照れながら手を振った。
「俺なんて真似事にもなってないさ。しらふで見る浜神さんこそすごかったぞ、剣がそれこそ風みてえで」
そうだ、と彼はからかうようにリリンを見た。
「基豪の二刀流っての、後づけかもしれないんだってよ。昔は浜神様も大太刀ふるってたらしいぜ、残念だったな」
「……僕は信じないぞ」
憮然とした弟に代わってロクハが尋ねた。
「今わかっている中で、一番古い舞いの形ってどんなものかしら」
「それが、うちこそ最古だって言いはる浜だの一座だのがいくつもあるらしくてな。どれって決めるのは難しいって、元丈灰門のおっさんが教えてくれたよ。消えてったやり方も多いそうだ」
一座の沖は、子どものころに見た舞いについて彼に話していた。
「区辺の浜だったかなあ、最後に浜神様が歌いだしたんで驚いたよ。ずうっと昔、俺の親父が小さかった時分には、まだそんな演出も多かったみたいだな」
玄は、彼に聞いてきた古い歌を口ずさんだ。寂しい旋律は、なるほど別れの場面にふさわしい。
「だが、よくよく聴いてびっくり、今も似た歌が残ってるじゃねえか。おっさんも笑ってたぜ、なんだってむりやり舟唄をくっつけたのかってな」
「舟唄!?」
姉弟が声を揃えたので、玄はおっと身を引いた。
「ああ、俺もたまに歌うやつだが、航海の無事を願う古歌だよ。亡骸に向かってそんなこと祈るなんて、ちぐはぐじゃねえか。行って帰ってこいってのかよ」
彼は冗談めかして言ったが、二人は真剣な表情で卓に身体を乗り出した。
「あのね、私たちこんな話をしてたの。いくらなんでも、基豪が亡骸を流しちゃうのはおかしいって。もしかすると……」
姉が目くばせをすると、少年が後を引き取った。
「丈灰門は、生きて海に出たんじゃないか」




