雨滴と天の邪鬼(六)
「なっかなか来ないからさあ、引っぱり出しに行こうか迷ってたんだよ! 君ってば本当にややっこしい人!」
乙矢にけたたましく出迎えられて、気後れした玖瓦留は思わず身を引いた。期限の当日は今にも降りだしそうな空の色をしていた。朝から茶店の屋根にとまってやきもきしていた鳥は、木々の合間に楽師の姿を見つけると弾丸のように飛び出していった。
「……一昨日ぶりですね」
彼が呟くと、乙矢はその肩にとまって激しく頭をつついた。怒り半分、嬉しさ半分といったところだ。
「邪魔者がいなくなってここがすっきりしたんでしょ、あーあよかったねえ。行こう、みんな待ってるから」
「みんな?」
彼女の言葉通り、店に入るとすでに聴衆は揃っていた。
「そら来た、あたくしの言ったとおりでございましょう」
と、長椅子の下から美しい狐が胸を張れば、椅子の背にとまっていた色違いの山鳥が「さっすが占柳庵だやな」と笑う。当然のごとく喋る鳥獣に囲まれて、腕組みをした少年が重々しくうなずいてみせた。
そして厨房ののれんが軽やかに揺れ、主が静かに現れる。二人は目線をしっかり合わせて言葉もなく頭を下げた。少年が天様琴の鞄を手渡そうと動く。しかし、玖瓦留はそれを断った。
「今日はこれで」
肩にかけた布袋を示してみせると、三文胡弓がカロッと安っぽい音を立てた。仕度にかかった彼に、乙矢が心配そうにささやいてくる。
「それ大丈夫? 意地になってない?」
「さあ、そうかもしれません」
平然と答えながら、玖瓦留は頭を包んでいた布を外し、左肩から斜めに身体を覆った。即席の正装だが気分は上がるだろう。それを黙って見ていた乙矢だったが、最後にひどく真面目な声でこう告げた。
「あのね、そりゃ弾くのは君だし、あたしに楽師の心なんて分からない。それはその通りでどっから見ても合ってるけど…… でもあたし、一緒についてるからね」
楽師は痕の残る顔をまっすぐに鳥へ向けた。
「では、討ち死にしたらば地獄までよろしく」
「ああもう、ほんっとに可愛げがないな!」
むくれた鳥は仲間の方へ飛び去ってしまった。玖瓦留は誰にも気づかれないくらいの短い一瞬、優しげに微笑んだ。
準備は整った。この前と同じく並んで座る姉弟を前に、彼は息を静めて胡弓を構える。雨粒がぽつぽつと窓を叩き始めた中、長い弓がそっと滑り出した。
雨月夜曲の冒頭、低く深い響きを両手に受けながら、玖瓦留は思い返していた。療養所にいた時のことを……
紫斑瘡の症状に痛みはない。しかし変色した患部は不快な熱をはらみ、そこにとてつもないかゆみを伴うのだ。ひとたび掻きむしれば弱くなった肌は破れ、悪いものが入り込めば命の危険がある。
それだから患者はみな両手を奪われた。
後ろに回した手に食い込む縄の痛みより、様変わりした肌よりも、腕を封じられ一人転がっているだけの自らの無様な形が玖瓦留の心を切り刻み続けた。
私は楽師なんだ。少しでいいから弾かせてくれ。一瞬でもいい、腕を返してくれ。
その訴えは当然のごとく退けられた。治すためには仕方ない、生きて帰れば好きなだけ弾ける、と医師が励ましたとおりだったが、治療に費やした数ヶ月は誇り高い楽師の牙を抜き、奥深くに暗い影を落とした。楽団にいられなくなったと分かると影はいっそう濃くなり、身体の痣と同じように消えることはなかった。
いくら喚いてもこの身を元に戻すことなどできない。彼は降りかかった災難も納得し、諦めようと努めた。影を忘れようとして気持ちを閉じ込め続けてきた。弓から取り去って隠していたのは、理不尽な天命への果てしない怒りと悲しみだった。
すべてを込めた最後の音が、雨に溶けるように消えた。
手を置いた玖瓦留は、真っ向から主を見た。少年や動物たちが固唾を飲んで見守っている。
今日の主の笑顔は、どこか申し訳なさそうだった。
「感銘、いたしました」
彼女がていねいに礼をしたとたん、全身の力が一気に抜けた楽師は椅子の上でかたむいた。乙矢がばさっと飛び上がって、天井を騒がしく舞い始める。
「やったあ玖瓦留! やった、やったね……」
蜜豆に白湯を添えつつ、ロクハはすぐに詫びを入れた。
「少し意地悪でした。先ごろの演奏も、じゅうぶん素晴らしかったのですよ」
「何ですって?」
と玖瓦留は聞き返した。彼女が言うには、あのまま天様琴を返せば、彼はそこで止まってしまうのではないかと感じたそうだ。
「今は違うように思います。玖瓦留様のお心は、進まれていますね」
澄んだ瞳で問いかけられ、そういうことかと彼は認めた。
「ええ。やはり、どこかの楽団で弾きたいと思うようになりました」
求めるものを突き詰めてみれば、多の一人として壮麗な演奏を作り上げることこそが彼の根源的な欲求だったのだ。それを無に帰した楽団の決定にだって、本当は転げまわって食い下がりたかった。あまりにも酷い話だ、と。
そう打ち明けると、早々に蜜豆を平らげていたリリンは腑に落ちた様子だった。
「それで今日は真に迫っていたのか。泣いてるような音だけど揺さぶられる感じで、僕はこの方が好きだ」
深い嘆きは凄みに転じたようだ。席を立った少年に、彼は小さく頭を下げた。
そして依という少女のことを思った。彼女も、運命への苦しみさえ音に込めてしまえと教えられたのだろう。言葉を奪われた孫が生き抜く強さを得ることを祖父は願ったはずだ。
「一度突き放してしまって、上手なやり方ではなかったですが…… いらしていただけてよかったです」
ロクハの飾らない言葉を聞いて、玖瓦留は初めて彼女に笑顔を見せた。
「すぐに空きのある楽団を探します。天様琴で辻楽師など真っ平ですからね、性に合わないこともよくわかりましたし」
「なによう、合格したとたんにあたしの協力をコケにして」
椅子の背にとまって器用に小皿の豆をついばんでいた乙矢が不満の声を上げた。
「この国は広いぜ、兄さん。受け入れてくれるところが必ずあるさ、気長にやりな」
と、もう一羽がのんびりと励ます。大きな狐も「まあ、その腕ならねえ」と相槌を打った。
「ところで、玖瓦留様はどういった訳でお茶が苦手なのでしょうか」
ロクハの声は切実だった。茶藝館の主にしてみれば、その謎を残したままではいられないのだろう。
「その、主な治療は薬を飲むことだったのですが……」
玖瓦留は気まずそうに首をかしげた。
「こちらは手を使えないものですから、口に漏斗をつっこまれて茶で流し込まれるんです。薬が不味いからと言って、親切な看護人が大量に注いでくれて…… 一日五回を三ヶ月、もう一生分飲みました」
ああ、と全員が納得した。ちょうど盆を運んできたリリンが、横から彼に尋ねた。
「じゃあ、こういうのも止めた方がいいか」
卓の上の盆に目を落とすと、見慣れない竹製の刷毛らしきものと小さな茶筒、高さのない大振りな碗などが並んでいる。
「あらリンさん、あたくしにも点ててくださいな」
卓の脚元に寝そべっていた狐が嬉しげに身を起こす。対面のロクハが玖瓦留に説明した。
「葉を煎じるのではなく、粉にして湯で溶きたてるお茶です。風味も舌ざわりもまったく異なるんですよ」
その間にも少年が碗の中に緑の粉末を広げ、器に冷ましてあった湯を注ぐ。軽快に刷毛を動かし始めると、みるみるうちにきめ細かい泡が立った。緑白に覆われた碗を、玖瓦留は検分するように眺めた。
「兄さんがいらないってんなら、俺に回してくださいよ」
「あたしも欲しい!」
鳥たちが騒ぎ出すのを聞くと、玖瓦留は少年を見上げた。
「頂いてよろしいですか」
「勿論」
リリンはすっと碗を差し出した。持ち上げてみると、厚みのある白い器の中にもやもやとした泡が揺れ、緑が香る。玖瓦留は決心したように勢いよく口をつけた。
苦い。
未知の味の衝撃に彼の手が止まった。
確かに、彼が知る茶とは何もかも違っている。動物たちは飲みたがっていたようだが、これは果たして美味しいのだろうか?
ロクハとリリンが息をつめて見守っている。心配そうな二つの顔を見比べて、玖瓦留の視線がさまよった。一体どうしたものか。
ふと気づくと、彼らの後ろの窓の外はもう明るく、薄い青空がのぞいている。それなのに雨が尽きる様子のない、なんともひねくれた空模様……
玖瓦留は口元を緩めた。
「……悪くない、ですね」
姉弟が揃って安堵のため息をつき、「本当にい?」と乙矢がいぶかしみ、狐たちはどっと沸き立った。その笑い声を耳にしながら、天の邪鬼は澄まし顔で碗を口に運んでいた。
(第四話 了)
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
第五話は海を背景に戦国武人を追いかけます。




