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竜の丘の茶藝館  作者: 小津 岬
第四話
24/74

雨滴と天の邪鬼(五)

 乙矢が帰らないまま、残りはあと一日となった。

 職人と言葉を交わしてからずっと考えてみたが、珍しく晴れ上がった空にも気分は上がらず、市場に足を向けることもなく部屋にそっくり返っている始末だった。

 まっさらな所とはどこだろう。楽団に入った時か辞めた時か、はたまた初めて胡弓を手にした時か……

 思いに沈んでいると、わずかに開けていた戸口から、

「あれっ、いるよ」

と甲高い声がした。急いで身を起こすと、隙間から子どもが二人、こちらをのぞいている。彼は慌てて顔を隠そうとしたが、元気のいい声がその手を止めた。

「兄ちゃん、今日は弾かないの!」

「は……」

(より)がね、聴きたいんだって。毎日聴いてたからって」

 依といわれ、後ろにいた背の高い女の子が小さく頭を下げた。そういえばこの数日、何曲か手慣らしをしてから市場へ向かっていた。その音がどこぞまで届いていたのだろう。

 玖瓦留は思わず彼女と目を合わせると、手にした布を膝に戻した。こうもあからさまに見られてしまった以上、いまさらかぶるのも不自然に思えた。

 威勢のいいおかっぱ頭の子は、いつの間にか戸の開ける幅を広げていた。しかし共に七つくらいの女の子たちは、戸口に並び立ったものの中に踏み入ろうとはしなかった。粗末な服装ではあるがきちんと靴も履いている。

 おかっぱはしげしげと彼の姿を見回した。

「それ病気?」

 なんとも率直な言葉をぶつけられ、不意を突かれた玖瓦留は思わず「はあ、治りましたが」と間抜けな返答をした。二人の子どもはよし、という風にうなずき合った。

「じゃあ大丈夫だね、あれ」

と、おかっぱが片すみに立てかけていた胡弓を指す。元気なら弾けということか。彼が固まっていると、依という子が小さな両手を合わせて頼み込む仕草をした。

「この子ねえ、喋れないから」

 大したことではないといった感じで連れが付け足した。依は期待を込めた目を輝かせて彼を見つめている。可愛らしく首をかしげた拍子に、二つに結った細い髪が頼りなげに揺れた。

 さすがに追い返すのも忍びなくなり、玖瓦留は仕方なく胡弓を手に取った。そしてその流れで、

「何にしますか」

と尋ねたのだが、これがいけなかった。

 二人は次から次へと曲目を挙げ、同じ曲を二度頼み、果ては「何でもいいから知らない曲」などと言い出したので、ついに玖瓦留は音を上げた。

「これで仕舞いです!」

「明日も聴ける?」

 間髪入れぬ問いかけに、彼は言葉に詰まってしまった。明日、私は一体何をしているのだろうか。黙りこくった楽師を見て、おかっぱが依の手まねを伝えた。

「弾くのやめちゃうの、どうしてって」

「それは……」

 玖瓦留は言葉を探したが、理由を表すのにちょうどよいものは見つからない。色々な気持ちが絡まりすぎて中心が見えないのだ、と気づいた彼は、とりあえずその場しのぎの答えを出した。

「もう上手くなれないですから。さあ、そろそろ帰って下さい」

 楽器を片づけ始めたとき、不意に依が友達の肩を叩き、何ごとか手を動かした。そしていきなりどこかへ走っていってしまった。

「何ごとですか?」

 呆気に取られている玖瓦留に、おかっぱは前歯の欠けた顔でニッと笑いかけた。

「いいもの貸してあげるって。依って優しいんだあ」


 晴れ間は夕刻まで続いた。薄暗くなり出した板敷きの上で、玖瓦留は一冊の本を手にして静かに座っていた。

 大急ぎで戻ってきた依が持っていたのは、胡弓の手習い本…… しかも初歩の初歩、の巻だった。彼女の祖父が二胡の手ほどきをしてくれていて、先日やっとこの巻を終えたところだという。開いてみるとあちこちに子どもらしい字の書き込みがあったり、朱線が引いてあった。

 息を切らし真っ赤な顔で差し出された本を、誰がつき返せようか。彼が型どおりの礼を言うと、二人は嬉しそうに手を振って帰っていった。

 とはいえ、基礎の技法はすっかり彼に染み付いている。なんとなしにめくってみても、真新しいことは一つも載っていない。唯一目を引いたのは、特に太い朱線の引かれた一文だった。

 雲の奏弓、(つる)雨滴(うてき)

 弓は流れる雲のようにゆるやかに、弦を動く指は雨の落ちるようにまっすぐに。理想とされる両手の動きを得るのは容易ではない。幼い日の自分も同じところでつまづいたものだ、と彼はつい笑みを漏らした。

 迫る宵闇に本を閉じようとしたとき、その片すみに何かがあることに気がついた。力強い朱線にひっつくようにして「所有弓伝」と走り書きがされている。

 つたない字で表すには釣り合いの取れない言葉に、玖瓦留は首をひねった。これはもっともっと先の巻で知るはずだ。彼でさえ、依の倍くらいの年ごろになって初めて教えを受けた項である。

「いいか、あらゆる心を弓に込めよ、だ。お前は特にこれができていない。少し技術があるからといってそれに頼ってはいかんぞ」

 よみがえった師の言葉には、数人の門下生の忍び笑いもついてくる。入門当初から頭角を現した彼には、添えられる感情にばらつきはあれど常に厳しい目が注がれていた。

「込めているつもりですが、どこが足りないのでしょうか」

 十三の自分が背筋を伸ばして答えると、師はやれやれと首を振った。

「よき心だけを見せようとするな。裏も表もあってのお前なのだから……」

 十年経った玖瓦留ははたと視線を上げた。

 楽団において、彼の音はひたすら端整で美しいと評されてきた。彼がそれを理想としてきたからであるが、そこに彼の「裏」は込められていなかったように思う。立ち返るべきはここだろうか?

 彼は暗くなった部屋で石のように固まっていた。頭の中では目まぐるしく考えが飛び交う。茶藝館での演奏でも、私はきっと何かを隠していたに違いない。自分自身に対してさえ素直になれずに。

 さあ、ひとつずつ。絡まってひっくり返った心を(ほど)け……

 乙矢の明るい声が頭に響いた。

「何か、わかってきた?」

 あと少し。あと少しで見えてくるはずだ。そしたら何ひとつ手放すものか。

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