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竜の丘の茶藝館  作者: 小津 岬
第四話
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雨滴と天の邪鬼(三)

 古道具屋から帰ると、玖瓦留は埃を払うのもそこそこに安胡弓を構えた。余っていた松脂で弓の毛をひと撫でし、琴の胴を膝の間に傾け、長い首に左手を添える。

 実に数ヶ月ぶりの感覚だ。楽団を追われて以来、天様琴には触れることさえなかった。彼は目を閉じて静かに弓を引いた。

 が、覚悟していたはずが予想を越えていた。低音を弾いたはずが耳障りな甲高さが混じり、そのくせ高音には不快な重さが見え隠れし、これは本当に楽器かと彼は思わず手元を見直したほどだ。

 糸巻きや駒を細かに調整してみても、三文胡弓は相変わらず悲鳴を上げ続けた。彼は何拍も数えないうちに手を止めてしまった。

 楽団であればこんなものを持ち込んだ時点でくびになるだろう。子どもの練習用にも劣る粗悪な楽器もどき、火にくべて薪にするくらいしか使い道がない!

 心の中でひとしきり罵り終えると、どっと疲れが押し寄せて仰向けに倒れこんだ。追い討ちをかけるように忘れていた空きっ腹が目を覚まし、ぐうと鳴る。

 彼はつくづく己が嫌になった。この間から私は、ばかなことしかしていない。


 鳥が言っていたとおり、茶店の扉には「質」と大きく書いた紙が留めてあった。しとしとと続く雨を背にして玖瓦留は傘を畳んだ。

 覆面をきっちり巻き直すと、彼は力を込めて扉を押した。

「何をしに来た」

と、見覚えのある少年が仁王立ちで出迎えたが、彼の強い視線にも玖瓦留は怯まなかった。

 この間はそれどころではなかったが、改めて見るとしっかりした身なりをしている。浅葱色の上衣は上質な光沢があり、玖瓦留は楽団でよく用いていた衣装を思い出した。

 そう、よい生地の長衣に裾の広い袴を合わせ、体の片側に大判の布をかけるのが楽師の正装だ。呼ばれる場が高位になるほど衣装の質も上がる。そして私はあと少しで最上位の衣装に身を包むはずだった……

 彼は追憶を追い払い、少年に向き直った。

「店主にお会いしたいのですが」

「では、掛けて待て」

 無愛想だが、敵意や棘は感じられないことに玖瓦留は気がついた。

 現れた少女は至極落ち着いていた。白っぽい灰色の上衣に薄墨のような裳を着け、胸にはあの山鳥を抱いている。静かに頭を下げた彼を目にしても、鳥は無言を守っていた。

「先日は失礼を致しました。このとおり病を経た身ゆえ、急に(あらわ)になると慌ててしまうもので」

と、彼は手甲をずらしてみせた。細く骨ばった手にもまだらになった(あと)が残っている。ロクハがうなずき理解を表したので、彼はさっそく本題に入った。天様琴を引き取りに来たと告げると、彼女は真面目な顔を崩さずに言った。

「その前に、事情をお聞かせください。あなたは楽師だったのですね」

 だった、という当たり前の事実が彼を刺し貫いたが、彼は平静を保った。

「そうです。紅若(こうじゃく)の室内楽団に長くおりました」

 修練の末に腕を認められ、若くして都の楽団に入ったこと。皇家の祝宴という大舞台の直前、急に紫班瘡(しはんそう)に罹ったこと。苦しい治療に耐えて回復したが消えない痣を理由に楽団を追われたこと……

 己の半生に吹き荒んだ嵐を、彼は淡々と語った。それに合わせるように、主の問答も恬淡としている。二人の会話はどこか人形劇に似ていた。

「天様琴を取り戻せば、楽団に戻れるとお思いですか」

「無理ですね、都では特に見栄えが求められますから。しかし楽団の決定を恨んではいませんよ」

 客や他の団員の立場だったらこのような姿の者を受け入れることはできなかったし、楽団の対応にも瑕疵(かし)はなかった。都を去る時に見舞金として渡された額はじゅうぶんに過ぎた、と彼は言った。

 ロクハの瞳に探るような色が浮かんだ。

「けれど、楽器を手放したことは悔いておられると」

「いいえ」

 対する玖瓦留は表情のない片目で主を見返した。

「しかしあれは私が何年にも渡って弾き育てたもの。鳥ごときへの駄賃にされるために手放したのではないと示しに参ったまでです」

 そう言い放つと、店の中は水を打ったように静まり返った。

 ぴょーっと素っ頓狂な声で静寂を破ったのは、主に抱かれた乙矢だった。

「なにようその言い方、そんなにあたしに取られるのが嫌なわけ?」

「当然でしょう」

 玖瓦留に冷たく返され、鳥は飛び上がって翼を鳴らした。

「捨てたくせに捨てたくせに、新しいのとよろしくやってるくせに、今さら何さ!」

 姉弟が、彼の足元に置かれた布袋に揃って目をやった。昨日買ってしまった三文胡弓だ。

「おっと、びくついたね。この浮気者っ」

「いえこれは、楽器とも言えぬ物ですが代金の足しになればと……」

「もう結構です!」

 竹を割るような声が騒ぎを制した。梅の花びらに似た唇をきりりと結び、ロクハが玖瓦留にこう言った。

「天様琴をお持ちします。ですが、お返しするかは一曲奏でていただいてから私が決めます。よろしいですね」

 意外な申し出に、玖瓦留はぱちぱちと瞬きをした。この子どもが何を判定しようというのだろうか。

「失礼ですが、音楽をお分かりでしょうか」

「はい、玖瓦留様の音に限りましては。リリン、これへ」

 笑顔のないやり取りを緊張して見守っていた少年は、奥から鞄を運んできて玖瓦留に差し出す。彼が受け取った時、こんなことをささやいた。

「姉さんはごまかせないぞ。心してかかれ」

 警告なのか応援なのか、ひどく真剣な口調は場違いに思えた。やがて準備を整えた玖瓦留に、主が一言だけ告げた。

「“雨月夜曲”を」


 雨月といえばこの国を貫く大河の一つだが、この曲名に関してはただ月の出る夜に降る雨、の意である。天からのしずくが月光をはらみ落ちていく情景を歌った、単純だが流麗な曲だ。

 譜のとおり弾くだけなら誰でもできるが、聴かせるのは難しい。玖瓦留は細心の注意を払って初めの音を漕ぎ出した。その一音にもすでに馥郁(ふくいく)たる響き、天様琴の深い音色は乾ききっていた彼の心を一瞬で潤した。

 しかし、音に酔いながらも彼は最後まで気を抜かなかった。療養所に入って以来まともに曲を通していなかったが、技にほとんど衰えのないことに安堵し、鳥は無視して正面に座る二人を見る。

 少女は初めて彼の前で微笑みを浮かべ、少年はびっくりした面持ちで膝に置いた両手を握りしめている。玖瓦留が目で問うと、主の笑顔は花が咲いたように明るさを増した。

 そして言った。

「だめです」

「えっ!?」

 二人と一羽が思わず声を揃えたが、彼女はにっこりしたまま宣言した。

「今のあなたに、天様琴をお返しすることはできません」

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