雨滴と天の邪鬼(二)
翌日は雨降りに戻ってしまい、準備中の札は下がったままだった。が、店には客がやってきていた。
「まあ、なんて不届き者ですの! リンさんたら手ぬるいこと、あたくしがいれば頭からがぶりといってやりましたのに」
冥狐は、憤然とするあまり人間の姿なのに狐のような顔になって声を上げた。さすがの彼女も湿気に負けて、豊かな髪をすっきりと結い上げている。
お茶のおかわりを注いでやりながらリリンは小首をかしげた。
「といっても悪気はなさそうなんだ、質屋と間違えて来たそうだから。あの様子じゃあ楽師を続けられなくなったのかもしれないな」
と、男の顔を思い出しながら答える。あの時は焦りや怒りでいっぱいだったが、こうやって推測してみると同情の余地がありそうだ。
しかし冥狐は「ふん」と一蹴した。
「そうだとしても、困窮して魂を売るような男なんてろくなものじゃありませんわね」
手厳しい返しに遭い、リリンは黙って男の残していった魂を見つめた。傍らの卓上に置かれた美しい楽器は、飾り提灯の暖かい光の下で眠っているかのようだった。
その時、窓辺にコンコンと音がしたと思うと、翼を濡らした大きな鳥が現れた。少年は慣れた動作で窓を開けてやった。
店の中へさっと舞い上がった鳥は、伸びやかな娘の姿に変わって降り立った。袖丈の短い上衣や袴からすらりとした手足をのぞかせている。
「やあリリン、お姉ちゃんはどう? おや冥狐、君もお見舞いに? 走ってきたんじゃしこたま濡れたでしょ、飛んでも濡れたのさ」
矢継ぎばやに話すたび、高い位置で結んだ髪が元気よく揺れた。背に残る翼が示すとおり、彼女は鳥男・早矢の身内である。
冥狐が苦笑して手を振った。
「ご無沙汰ね、乙矢。お見舞いの品はどこに置いてきたの?」
「あ、いっけない!」
乙矢はくりっとした目をきょろっと回し、金色に朱の混じる翼をはためかせた。入ってきた窓から半身を乗り出すと、風呂敷包みを引き上げてやっと息をつく。見守っていた二人もほっとなった。
「はいっ」
と笑顔で渡された包みを受けとったリリンは、小さく笑みを返した。
「ありがとう。姉さんが起きたら、来てくれたって伝えるよ」
今日は僕が礼を、と厨房に立った少年に目をやり、乙矢はにこにこして言った。
「本当しっかりしてるよねえ。うちの兄者と取り替えたいくらいさ」
「ねえそれ、早矢も同じこと思ってるんではなくて?」
冥狐が冗談めかして言うと、鳥娘は「まさしく、まさしく」と楽しそうに笑った。そして、ついでにぐるんと首を回した拍子に例の楽器に目を留めると、
「えっ、天様琴!?」
と大声を上げた。
「あら、そういう名前なのね」
「三胡の中でもすっごく上等なやつさ。造れる工房が少ないからって、首都ら辺でしか手に入んないの。ほら、手が込んでるでしょ」
乙矢は、胡弓の長い首からつながる胴を指してみせた。丸みのある長方形には繊細な透かし彫りの紋様が施されている。その名の通り、規則正しい模様は星の天の図を映しているようだった。
「いや驚いたなあ。どうしてここにあるの、生えてきたの?」
「それが、妙な男が置いていったんだ」
厨房から戻ったリリンが昨日の出来事を話すと乙矢は珍しく考え込んだ。ふたたび顔を上げたとき、いつもの笑顔はなりを潜めていた。
「そいつの問題、けっこう深いんじゃないの。あたし、ちょっと出しゃばってもいいかなあ」
がたついた板張りの床に雨音が染みてゆく。狭くて薄暗い長屋の一室に、玖瓦留はうずくまっていた。緩めた布から紫斑のある口元がのぞく。厚みのない唇は、何かを耐えるように引き結ばれていた。
何とも愚かだった。あんな子どもに見られたからといって逃げ帰るとは。
天様琴を残してきたことよりも動揺を露にした己が許せない。とはいえ、少女が差し伸べた清らかな手は、彼にとって刃と同じだった。いつものように気味悪がられたり嘲笑される方がよほど楽だ。
そのとき、雨を破って戸を叩く音が響いたので、彼は身を固くした。
息を潜めてうかがっても障子の上に人影はない。おや、と目線を下げると、なにやらこんもりとしたものが木枠をつついているらしかった。迷い猫かと思いつつ、無意識に顔を隠し直してから戸を引いた。
「お使いだよ、おつかい!」
現れた大きな鳥が声を上げ、ぎょっとした玖瓦留はつい戸を閉めようとした。だが派手派手しい山鳥は、広げた翼を縦にしながら隙間を通り抜けてしまった。
「はいどうも、質屋から来ました。君、受けとりを忘れていったでしょ?」
きょろっと首を上げた鳥を、玖瓦留は口を開けて見下ろした。
「し、質? あそこは茶店だと聞いて……」
「今日から質屋になったのさ。ほら、預かり物のお代と、質札」
鳥はくちばしを駆使し、胴に巻きつけていた包みを器用にほどいた。
「期限は今日から十日間。それまでに同額を返せないと天様琴は店の物になっちゃうから、あしからず」
呆気に取られていた玖瓦留は、天様琴と聞いて肩をびくっと跳ねさせた。しかしすぐに平静を装って答える。
「構いませんよ。捨てたも同然ですから」
「おっと、そりゃよかった! 主がね、十日過ぎたらあたしのお駄賃にしてもいいってさ、君の楽器」
鳥が、私の天様琴を、駄賃代わりに?
片方だけ出した目を、彼は二十数年の人生で最も大きく見開いた。鳥はその驚きを無視して戸口へと歩いていく。
「それじゃ、毎度ありでした」
「待て、本当にお前が弾くというのか!」
彼は必死に呼びとめた。乙矢は面倒くさそうに振り返ると、
「ややこしい人だなあ、そんなに惜しけりゃ買い戻しに来れば? 一度は捨てちゃった、とっても大事な天様琴!」
と嫌味たっぷりに言い置き、こじ開けた戸から飛び去ってしまった。玖瓦留は信じられないという面持ちで吹き込んでくる雨を見つめていた。
店には行かなかった。鳥に図星を突かれたのもあるが、一番は主に合わせる顔がないと思ったからだ。
渡された質札には「牙骨丘茶藝館質店 零番札」とそっけなく書いてあり、いかにも即席らしい。裏に向けると、どういうわけか二本足で踊る狐が描いてあった。人を食ったような、ばかにするような表情だ。あの少女、質屋に間違われたのでむきになってしまったのだろうか……
いや、もう忘れよう、と彼は頭を振った。
天様琴との別れはもっと感傷的なものになると思っていたが、なんだか騒がしく子どもじみた終わり方をしてしまった。痛みもなく、滑稽なだけだった。
にわかに空腹を覚え、米を切らしているのを思い出してため息をつく。蓄えが尽きるまでに新しい生業を見つけなければいけない。しかし、何をすればいいかまったく浮かんでこなかった。
翌日、米を求めに、午後になるのを待って玖瓦留はそっと長屋を出た。
行き交う人々は番傘や蓑で顔が隠れていて、覆面のいでたちを気にする者はいない。この身体になってから、うっとうしかっただけの雨の日が好きになったものだ。
しかし本降りになるとさすがに閉口し、通りがかった古道具屋に駆け込んだ。店主の方も心得ていて、入ってすぐのところに傘を並べてある。早く済ませようと手近な一本を掴んだ玖瓦留だったが、店の奥にふと目を留めた。
胡弓だ。
薄暗い棚に寄りかかり何年経ったのやら、すっかり埃を被っている。細工も銘もなく見るからに安物だったが、首はまっすぐなままだし弦も弓の毛もきちんと揃っていた。
一度は目を逸らした。しかしその三文胡弓は、なにか強烈な磁気をもって彼を惹きつけた。やい転落しきった三文楽師、あんたにはあたしがお似合いさ。弾けるものなら弾いてみな……
「入れ物は付かないよ」
老いた店主はそれだけ告げると、傘と琴を買い求めた覆面の男を胡散臭そうに見やって、さっさと奥へ引っ込んでしまった。
店先に出ると雨は激しさを増していた。彼はしばらくつっ立っていたが、やがて被っていた布を手早く外した。そして胡弓をしっかり包んで傘をさし、来た道を引き返していった。




