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竜の丘の茶藝館  作者: 小津 岬
第四話
20/74

雨滴と天の邪鬼(一)

挿絵(By みてみん)


 楽師を殺すのに命をとる必要はない。両の腕さえ奪ってしまえばいい。

 そう言ったのが誰だったか覚えていないが、今日の私を見れば呆れることだろう。腕なら右も左もついているし、以前と同じように動かせる。それなのに、楽師の魂たる楽器を今にも手放さんとしているのだから。

 死にに行くのと何も変わらないが、少しの恐怖も感じない。

 私はひたすらに虚ろな心を抱えて身体をひきずり続けた。


 細々と続いた雨がようやくの眠りにつき、牙骨丘(がこつきゅう)には久方ぶりの薄日が差した。沢の大岩に腰かけたリリンは、手づくりの釣り竿から垂れる糸を目で追っていた。

 傍らの魚籠(びく)の中にはすでに二十匹近い小魚が跳ねている。数をかぞえ直しながら、彼は店に残してきた姉のことを思った。

 湿気と曇り空は、ロクハの身体をじわじわと狂わせる厄介者だ。毎年この時期がめぐってくると彼女は決まって寝込んでしまうのであった。

「ごめんね、リリンちゃん……」

 離れの居室で横になったロクハは、顎まで引き上げた布団の下でぐったりとしている。弟は少しでも安心させようと微笑んでみせた。

「沢に行ってくる。帰ったら甘露煮にするから、ゆっくり休んでて」

 丸ごとやわらかく煮付けた小魚は何よりの滋養になる。梅雨が明けるまでは、機を見計らって釣りに出るのがリリンの大事な仕事だった。

 自分の部屋に向かいかけた彼は、つと戻ってそっと付け足した。

「誰か来ても、出ちゃいけないよ」

 雨続きの湿った山にわざわざ登る者があるとも思えないが、姉の性格をよく知る彼は念のため釘をさした。弟の言葉を聞き、ロクハは力なくうなずいた。

 釣り道具を提げたリリンは、中庭の木戸から店の前に回ると、「準備中」と書いた札を掛けてから出かけていった。

 寝たり覚めたり、ぼんやりと間延びした時間がロクハを包む。切れぎれに訪れる夢は出来の悪いびっくり箱のようで、彼女をただただ疲れさせた。

 何度目かにまぶたを開いたときだった。初めは夢の名残かと思ったが、意識の焦点を合わせてみると確かに店の前に人の気配がする。

 断りの札は出してあるはずなのに、その誰かはしばらく経っても立ち去ろうとしなかった。

 彼女は重たい身体を起こした。まだ頭痛は残るし熱っぽいが、なにやら困っていそうな客人を放っておけない。少しだけでも話を聞こうと、ふらつきながら身支度を整えた。

 じっとり濡れた中庭を横目に廊下を抜け、店へとつながる戸を開ける。所々の卓に手をつきつつ、ようやく扉に辿りついた。

「あのう、どうか……」

 弱々しい声と共に身体で押し開ける。軒下にしゃがんでいた人影が鋭く振り向いた。

 客人は顔を隠していた。鉛色の布が頭から首にかけて巻きつけられ、わずかに右目の周りだけを出している。切れ込みの長い一重の目が、射るようにロクハを見た。

 驚いて口ごもった彼女の前に、その男が無駄のない動作で立ち上がった。背の高さも手伝って威圧感を発している。

「お店の方はいらっしゃいますか」

 口調はよどみなく、布に遮られていても洗練されて聞こえた。しかし同時に、人を拒絶するような冷たさも含んでいた。

「わ、私が主です!」

 ロクハは扉にもたれながらもはっきり答えた。これだけは明らかにしておきたい。

 覆面の男は黙っていた。その片目からは何の表情も読み取れない。危険は感じられないものの、まるで彫像のような客人に彼女は困惑した。

「……そうですか。では、これをお願いします」

と、彼がだしぬけに荷物を差し出した。思わず受けとめたものを見ると、しっかりした革製の細長い鞄だった。重くはないが一抱えもある大きさで、ロクハの小さな身体はよろめいた。

 この男、なにやら勘違いをしているらしい。主はひとまず彼を店へ招き入れた。やはりというべきか、卓や椅子の並んだ光景を見るなり彼はこう尋ねてきた。

「ここは質屋ではないのですか?」

 質屋!

 ロクハは具合の悪いことも忘れて男を見つめたが、彼は視線をかわすように顔を背けた。

「茶藝館、です。看板がかかっていたと思いますけれど」

 わなわな震えつつ答えた主に、覆面男は「ああ」と呟いた。

「そう書いてあったんですか。汚れていて読めませんでした」

 あまりの言い草に彼女は絶句しかけたが、やっとこう口にした。

「よろしかったら、一服いかがで……」

「結構です。私、茶は嫌いなので」

 目の前に星が飛び散った。

「き、きらい?」

「ええ、嫌いです。どうやら道を誤ったようですね、返していただけますか」

と、男が手甲を着けた手をつき出した時、ロクハの頭にこのまま帰らせてはいけないという強い直感が走った。彼女はとっさに長い鞄を抱きしめた。

「でも、何かお困りのご様子。お話だけでもうかがいましょう」

 男の片目がすうっと狭まる。

「お断りします。さあ、それを渡してください!」

 男は強引に鞄に手をかけたが、少女の方も負けじとしがみつく。右に左に振り回されながらロクハは思わず目を閉じた。

「姉さん!」

 廊下の戸が開き、血相を変えたリリンが飛び込んできた。男がはっと顔を上げた瞬間に頭を覆っていた布が緩み、大きくたわんだ。

 ロクハは、鉛色の波がゆらめくのを間近に見た。

 現れた目はもう一方と完全な対をなしていたが、その周りの皮膚は見るも無残に変色しきっていた。顔の左側全体に暗く沈んだ紫の(あざ)が広がっているのだ。痣は右の頬や首筋にまで点在し、なんとも痛々しい。

 目が合った刹那、男がひどく傷ついたような顔をしたので、ロクハは思わず片方の手を差し伸べた。

 しかし彼はすべり落ちた布をひっつかむと、後も見ずに店から走り出て行ってしまった。

「姉さん、怪我はない!?」

 駆け寄ったリリンに、ロクハは呆然としながらもうなずいた。少年は手近な椅子に姉を座らせると、急いで扉の鍵をかけた。

「出ないでって言ったのに。あいつは一体…… おや、それは?」

 彼女が抱きしめたままの鞄にようやく気づき、リリンは目を丸くした。ロクハが差し出すと、彼は戸惑いつつも掛け金を外しそうっと蓋を開けた。

 現れた一面、赤いびろうどの海だ。しっとりした輝きの中には、一対の胡弓が静かに収められていた。凝った細工に上質な暗褐色の艶、大切に使い込まれた様子がひと目でわかる。並の人間が持てる品ではない。

「あいつ、まさか楽師なのか」

 それもかなり上級の、だ。驚いている彼の横でロクハが呟いた。

「あの人、嫌いなんだって」

「……何が?」

 弟は恐るおそる尋ねる。姉の大きな瞳は完全に据わっていた。

「お茶」

 何もかも梅雨のせいだ。わけの分からない状況に投げ出され、少年はひたすらにこの気候を恨んだ。


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