五月の翅脈(六)
東青は立ち止まって辺りを見回した。学校を後にし、馬車の出る町まで歩いているはずだった。
それなのにどうして山の中にいるのだろう。緑が風に揺れる。光が跳ね回る。虫は飛び鳥は歌う、輝く季節。以前とまったく同じではないか、と気づいた時にはもう、道の向こうにあの茶藝館が見えてきていた。
すり硝子のはまった古めかしい扉を、彼はそっと押した。開くか開かないかのうちから、かぐわしい香りが届いてくる。
「ご免ください……」
「やあ書生さん、しばらく」
先客の鳥男、早矢が人のよさそうな顔を向けた。歓迎のつもりか鮮やかな翼をばさっと広げてみせる。正しい作法で供されたらしいお茶を、ひとり贅沢に楽しんでいるところだった。
「何だ、土まみれの色違いか」
と、勘定台にもたれていた少年が身を起こす。確かに焼けたねえ、と早矢が笑う。二人の様子も店の中も、数年前からほとんど変わっていない。
東青の目は自然と彼女を探していた。
それに応えるように、厨房ののれんがひらりと払われる。
「ようこそ、おいでませ」
ロクハは穏やかに微笑んだ。今日はちゃんと言えましたよ、と。そして一人だけ時を経た彼に、驚くそぶりもなかった。彼もまた、時を知らぬものたちを受け容れた。
東青は、窓際にある明るい小卓に通された。小さく角ばった青い花器に、一重の薔薇がさりげなく挿してある。黄色い花びらが陽光に透けていた。
それと同じ香りがするお茶を、姉弟は淹れてくれた。透明な硝子の急須の中で乾いた花びらや葉が躍っている。香草煎汁の一種だとリリンが言った。
「これは華やかだなあ。こんなお茶もあるんですね」
「珍しいだろう」
と得意げに答えた少年は、少し子どもっぽく見えた。明るい黄緑色になった湯は今この時にぴったりだ。
花の香りのお茶を飲みながらことのあらましを話すと、リリンは深いため息をついた。
「他人事みたいに語るな、酷いことをされたと言うのに。とんでもないお人好しなのはよく分かった」
「人を許すのだって立派な才能です」
と、姉が彼をつっつく。一番の協力者たる早矢といえば、こちらはしきりに残念がっていた。
「俺の土、使って欲しかったな。そしたら茶杯の一つでもせびりに行こうと思ってたんだけど」
「鳳の郷では、あの土を使わないの?」
ロクハが不思議そうに尋ねると、早矢はいやいやと手を振った。
「うちの陶工のは、あんまり好みじゃないんで。人が使うとどうなるか見てみたかったんですや。あの虫がもうちっとはびこればなあ……」
「虫が何か?」
と、彼の言葉に引っかかった東青は、身体ごと早矢の方へ向いた。
「あの土、変わった色が出るでしょう。それね、虫のおかげ」
早矢が言うには、とある虫が地中で作り出す要素が周りに溶け出し、それが釉薬として上手く作用するのだという。ただし、虫の生息地域はごく限られている。早矢は二本の指で大きさを示してみせた。
「こんなやつ。土の下で蛹になって、地上で羽を出すんだよ。愉快だね」
「ちょっと待ってください」
東青は、下ろしていた荷から小さな包みを取り出した。早矢のもとに歩み寄ると、油紙を開いてみせる。昨日拾った、殻にくっついて死んでいたセミのような虫……
今朝、学校を去る前に、東青は一人で漠先生に会いに行った。髪やひげは真っ白になりますます山羊に似てきていたが、先生は少しも衰えない活力で彼を迎えてくれた。東青は嬉しくなって色々な話をしてしまい、ついには「これは何でしょうか」と昨日拾った虫まで見せた。
「おや、棺虫なんてどこで手に入れたんだ?」
先生は心底驚いていた。校舎の横で、と答えると、すぐに彼を連れてその場へ向かった。
「この辺りでした…… あっ先生、あれを!」
東青が指差した先、背の高い草の中ほどに、同じ虫の抜け殻が残されていた。さらに探してみると、地面に小さな穴も見つかった。
「ここで育って、這い出てきたのかもしれん。しかし驚いたな、これは非常に珍しい虫で、こんなところにはおらんはずなんだが」
東青は思わず顔を上げた。
普通であればそうだろう。だが、外から運ばれれば話は別だ。寿里は、謎の土を校舎の外に捨てたと言っていたではないか。
東青の話を聞くと、早矢は感心してうなずいた。
「じゃあ、俺の土に卵でも混ざってたんでしょうなあ。そんな平地でも育つなんて、案外気概のあるやつらだ」
土の中で育ちきって羽化するまで数年かかり、個体によってかなり日数の差があるのだという。サトガエリの、そんな気ままなところが好きだと早矢は言った。
「里帰り、と言うんですか」
「おう。弱ってくるとね、同胞の抜け殻を探してそこで死ぬんですや。生まれたところに帰るってわけでサトガエリ。棺虫なんて、人間の名づけは無粋だね」
と早矢は笑った。順調に世代を重ねることができれば、校舎の横のその土はきっとよく育つだろう、とも。
「私も初めて見ました。本当に不思議な虫ですこと」
ロクハが興味津々で油紙をのぞき込んだので、東青は意外に思った。
「虫は平気ですか」
「はい、中庭の手入れをしていますので、すっかりお友達です。敵になることもありますが……」
リリンも来てみろよ、と早矢が声をかけたが、少年は厨房から出した顔を引きつらせていた。
「君は虫が苦手かい」
東青が尋ねると、リリンはぎくしゃくとうなずいた。
「大きいのは、だめだ。早くしまってくれないか」
彼にとって一寸は大きいらしい。油紙を収めながら、東青は少し可笑しくなった。
「釣り餌の川虫なんかは大丈夫なんですけれど、他はからっきしですの。昔から」
と姉が言い添える。その口調もまなざしも、陽だまりのように暖かい。
東青は彼女の横顔を見つめ、漠先生との会話を思い返していた。
「そいうえば、君と牙骨丘の話をしたことがあったね。あれから面白い事実が判明したんだ」
それは、翼を持つ竜についてだった。その伝承の発祥点と思われる地が、牙骨丘の他にもう一か所だけ見つかったという。
「それが、遠く離れた南方の高地なんだよ。翼ある竜の言い伝えは、この国で最も標高の高い二つの地域に、ほぼ同じ時期に突然現れたらしい」
「先生は、偶然ではないと思われるのですね」
東青が熱を込めて聞くと、老教師は少年のような瞳でうなずいた。
「わしはこう考えている。かつてこの世には、本当に翼ある竜がいた。そして高地に住んでいた一部の人々だけが、竜と交信する術を持ち得ていたのではないか……」
彼女に尋ねてみようか。
あなたが言った「昔」とはいつですか。あなたは翼ある竜に会いましたか、と。
だが、彼はその問いを心にしまいこんだ。今は何よりも、楽しい話がしたい。
「ロクハさん、中庭を見せていただけますか」
少女の顔がぱっと明るくなった。
「ええ、ぜひ! 東青様、よろしかったら相談に乗ってくださいませんか」
今度、茱茰の木を植えようと思っているが、品種と肥料選びで迷っているという。東青は笑顔で立ち上がった。
「私にできることなら、喜んで……」
仲睦まじく言葉を交わしながら廊下へ出て行く二人を見て、早矢は満足そうに茶をすすった。そして憮然として卓を拭いているリリンに向かって、
「主どのに虫がついたぞ」
と言った。
「……虫は嫌いだ」
少年が呟くと、鳥男は腹の底から高らかに笑い始めた。すかんと明るいその声は店の天井を抜け、五月の空高くへと上っていった。
(第三話 了)
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第四話は雨の茶藝館に胡弓が響きます。




