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竜の丘の茶藝館  作者: 小津 岬
第三話
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五月の翅脈(五)

 毎日農場を駆け回っているのだから、体力のほどは折り紙つきだ。東青は人影を追って外に走り出ると、暗くなった校庭でその人物を捕まえた。

「寿里……!」

 追いついた伊堂が、腕をつかまれている彼女を見て信じられない様子で呼びかけた。息の上がった三人は、窓から漏れる弱い明かりの中でしばらくのあいだ見つめあった。むせ返るような草木の匂いが辺りを包んでいる。

 やがて、東青は静かに手を離した。

 びくっとした寿里は何か言おうと唇を震わせたが、言葉の代わりに涙を流し始めた。数年ぶりに見る彼女は、記憶よりずっと痩せ鋭い顔つきをしていた。

「君たち…… 寿里君、大丈夫か」

「まあ、あなたは……」

 兆先生と秘書も急ぎ足でやってきた。伊堂がおずおずと寿里の肩に手を置き、尋ねた。

「何があったんだ、どうしたってんだよ寿里。めそめそしてちゃお前らしくないぞ」

「寿里君、話は聞いていたようだね。あのとき土をすり替えたのは、確かに君かい」

 先生は落ち着こうと努めていた。彼女は泣きながら弱々しく「はい」と呟いた。

「では、話せるかね」

 それは講義の時と同じ口調だった。こんな場面だというのに、東青は講堂の机や椅子の感触を思い出した。そうだ、僕たち三人はいつも並んで座っていた。

 寿里は、涙の残る声で話し始めた。

「私、親にだいぶ無理を言って学校に行かせてもらったんです」

 彼女の家は貧しくはないものの、周りの学生ほど裕福ではなかった。官立学院で学びたいという娘の希望を叶えるため、両親は色々なものを犠牲にしてきたそうだ。寿里は深い感謝と共に、負い目も感じ続けてきた。

「何とか学校に入れても、どうしても一番にならなくちゃって、いつも焦っているような気分でした。だけど、私の前には……」

と濡れた瞳で東青を見る。

「あなたがいた。自然で、無理をしていなくて、誰よりも優れているあなたが」

 募る焦りは、彼が呈長師にまで頼られていると気づいたとき頂点に達した。壷を持っていく彼を見かけ、ただその内容を知りたくて後をつけたという。しかし、たまたま人が消えた執務室で壷を前にすると、彼女の手は動いてしまった。

「あんなにいい友人に嫉妬するなんて、自分が惨めでした。でも止められなかった」

 急いで標本室から取ってきた黄土と入れ替えた。持ち出した本物の土は、校舎の脇に捨ててしまったという。

 ことの重大さを知ったのは、あの選抜実習の名簿を見た瞬間だった。

「私、打ち明けられなかった。けど何があっても東青はまっすぐで…… とても敵わないって最初から分かってました。国院だって、本当は彼が行かなきゃいけなかったのに」

 わっと泣き出した彼女を見て、東青はもしやと気がついた。

「寿里、国院を辞めたんだね?」

「そんな、まさか!」

 伊堂が驚いて声を上げたが、寿里はしゃくりあげながらうなずいた。

「ごめんなさい。とても追いつけなくて、辛くて……」

 この年明けに、首都近くのある地域で区画の再編話が持ち上がった。彼女はそれに伴う地質の調査に携わっていたが、じきに領主や住民との折衝に駆り出されることになってしまった。

 それぞれの思惑や利権。話し合いは当然難航したが、中央官はそれをまとめきれない寿里を責めた。板挟みに遭った彼女は自分を見失い、逃げるように国院から身を引いた。つい先月のことだった。

 実家に顔向けもできず、今は小さな町の私塾で講師をしているという。子どもたちはとても可愛い、と寿里は心から言った。

 しかし、無邪気な尊敬の念は彼女を苦しめてもいた。

「先生って呼ばれると耐えられなくなるんです。私なんかに教わってこの子たちかわいそうだって。だって私は、友人から奪ったものを放り出したような人間で……」

「もうやめてくれ!」

 東青が強く言うと、みなが驚いて彼を見た。彼は自分の出した声に戸惑っていたが、寿里だけを見つめてこう言った。

「僕の知ってる寿里なら、そんなことで悩む必要はないよ。いつだって君は機知に富んで、強くて明るくて楽しかった」

 寿里は一生懸命だった。周りの者はそのひたむきさにつられ、引き上げられ、助けられることだって何度もあった。東青だってその一人だ。

 僕はあの頃、本当にそれに気づいていただろうか。そしてその感謝をどれだけ伝えていたことだろう。わが身のことで精一杯だったのは自分の方ではなかったか。

「今だって僕はそう思ってる。何があっても、君は変わっていないって」

 二人は正面から視線を投げ掛けあった。寿里は両手を力なく下げて、ほうけたように呟いた。

「どうして」

 彼は、立ち尽くす寿里に笑顔を向けた。

「君が今日ここに来たから。顔を見ないと謝れないなんて、やっぱりとんでもなく生真面目だな、寿里は」

 おどけた優しい声でそう言ったとたん、懐かしい友人の顔は涙でくしゃくしゃになった。

「ごめんね…… ありがとう、青」

 さやさやと風が鳴る。それに乗って、彼らを覆っていた硬い空気が夜の闇に溶けていった。

 東青は卒業の日と同じように片手を差し出した。五月の夜の校庭で、二人は再び握手を交わす。ただし、以前よりも柔らかく。

 伊堂が怒ったような早口で言った。

「何だよ、便りじゃ元気なふりしてさ。そんなに辛かったならさっさと教えてくれりゃいいんだ。俺なら青との仲も取り持てたし、いつでも農園に呼べたのに。なんなら今からだって……」

 おや、と東青は思った。いつもの彼なら「一緒に鶏糞(けいふん)を運ぼうぜ」くらいのことは付け足しそうなものを。

 ほの明るい中で友人を見ると、何だか顔が赤いようだ。涙を拭く寿里を見つめる目にこもるのは、単なる友情ではないように思える。それに便りって何だ、あの不精な伊堂が寿里には手紙を……?

 東青は愕然とした。

「堂、君、そうだったのか!?」

 三年も一緒にいたのにまったく気づかなかった。間の抜けた大声に、伊堂が腹を立てて振り向いた。

「少しは気を使えよ! 変わってないのはお前じゃないか、この野暮!」

 兆先生が思わず吹き出した。

「成長した、と思ったんだがね……」

 そうしてみんなは笑った。恥ずかしそうに、愉快そうに、あるいは困ったように。

 その声を背景に、すぐ傍らの草むらで一匹の虫が羽化に挑んでいた。固い殻の背を割って、懸命に羽を広げている。やがて、透き通った若い羽が、闇の中できらきらと光った。

 もう大丈夫だ、と虫は思った。じきに羽が乾き強くなる。きっと夜明けには、空へ飛び立てるだろう。


 翌朝、三人は改めて学校へ向かった。並んで歩くとあの頃に戻ったみたいだ、と東青がうきうきして言うと、伊堂はううむと唸った。

「それ、気持ちだけは昔のままってやつだろう。老け始めるにはちょっと早いんじゃないのかねえ青さんや」

「何だと、誰が枯れてるって?」

 ごちゃごちゃ言い合うと、寿里が小さな笑い声を立てた。

「本当、変わらないわね」

 だいぶ元気を取り戻した様子に、二人は胸をなで下ろした。しかし伊堂が兆先生を探しに行っている時、彼女は真剣な表情に戻った。

「青は許してくれたけど、私があなたの人生を変えてしまったことは確かだわ。どんなことでも償いをするから」

 相手の思いつめた様子に、どう答えたものかと東青は頭を掻いた。もし自分が実習に参加していたら、国院に進んでいたら、今とどれほど違っていただろうか。

「それが、そんなに悪い方向には変わってないと思うんだ」

「じゃあ、保留。この先なにかあったら必ず力になるから、私のことを思い出してね」

 おそらくその時には、彼女の傍に伊堂がいるのだろう。何とも頼もしい後ろ盾だ、と東青は晴れた空を見上げた。

「おおい、先生あっちだって……」

 講堂から元気よく伊堂が駆けてくる。二人は笑みを交わし、彼の方へと歩いていった。

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