五月の翅脈(四)
「青さん、梗菜が元気になっとるよ! あんたの肥料が当たりじゃあ」
と、小作人が黒い顔を崩して笑った。同じくらい日に焼けた東青は、台車の上から手を挙げて応え、ついでに流れる汗をぬぐった。まだ春の初めだが、太陽は平たい大地を容赦なく照らし付けてくる。
この農園で働くようになって、もう数年が立つ。東青は数少ない学歴者として、数名の先達とともに作物の管理を担っていた。畑では一年を通して何かしら育てられいつだって忙しかったが、やっと身体も慣れてきて充実していた。
知らせが届いたのは、そんな折だった。
地学科の兆先生が分校の長師に就任することが決まったので、祝賀を兼ねた同窓会を開こうというのだ。
「そうか、兆先生が……」
思慮深い痩せた顔を思い出し、東青は微笑んだ。卒業以来、何度か手紙をやり取りしたきりだ。広い講堂や寮の部屋、学友の姿が次々と浮かぶ。
会は五月の予定とあった。農園の主任に尋ねると、その時期なら大丈夫だろう、と了承してくれた。
そして晴れ渡る五月のある日、彼は数年ぶりで学び舎に向かった。
光の満ちる季節に馬車馬も張り切ったのか、だいぶ早い時間に着いてしまった。ちょうど午後の講義の最中で、研究科らしい学生がちらほら歩いているだけだ。そんな空気も彼にとっては懐かしい。
廊下を歩くと、漠先生の声も聞こえてきた。
「であるからして、西方の歴史は対外政策の軌跡とも言える。重要な点は以下の三つ……!」
相変わらずの力の入れ様に頬が緩んだ。時間が合えば顔を見せにいこう。
すっかり楽しくなった彼は、我らがおんぼろ寮にお目にかかろうと歩き出した。しかし校舎の脇を通り過ぎる途中、萌え立つ草むらで足が止まった。
何か奇妙なものが落ちている。しゃがんでみると、小さなセミのような虫が、抜け殻の裂け目に脚を掛けたまま息絶えているのだった。羽化に失敗したのだろうか。
強い陽の光の下で、それは哀れというより孤高な印象を与えた。困難に挑んで散った者は、死してなお自らを誇っているかのようだった。無意識のうちに彼は亡骸を拾い上げていた。
「おおい、青! 元気かあ」
伊堂の声が近づいてきて、彼は急いで立ち上がり友人を迎えた。
「やあ年始ぶり…… おや、ずいぶんさっぱりしたな」
伊堂は思い切り短くした髪を撫でて笑った。地域は違えど彼も農園に勤めていて、大きな会合では顔を合わせることができた。そして会うたびにこう言い合うのだった。
「お前、また焼けたんじゃないか?」
「君ほどじゃないだろう!」
「東青君も伊堂君も、頑張っているようだね。しかし、焼けたなあ」
講堂の一室を借りた会場で、兆先生は目を丸くしながら教え子の奮闘を喜んだ。
「ふっふ、俺たちも男前になったでしょう」
と伊堂が笑い、先生の杯に祝い酒を注ぐ。重役に就いた恩師のもとには、ほとんど全員が集まっていた。都合がつかなかった者からは祝辞が届いていて、読み上げるたびに座は盛り上がった。
東青はふと卓を見回した。予期していた顔がない。
「寿里は、遅れてくるのかい」
すると隣の同窓生が声をひそめた。
「いや、間際になって欠席の返事がきたよ。国院の中でも忙しい部署に回されてしまったそうだが、切れ者の若い女ってことで、いびりもあっての配属なんじゃないかなあ」
伊堂も横から顔を突っ込み、
「実は俺さ、ちょっと心配してたんだ。分校出ってだけでも中央じゃ悪目立ちするからな。可哀相に……」
と口をへの字に曲げた。利発で明るかった彼女の姿を思い出し、東青は難しい顔でうなずいた。
日没のころ、会は和やかにお開きとなった。近場に宿を取った東青と伊堂は、最後まで残って片づけをしていた。
「どうもありがとう、とても素晴らしい一日だったよ」
と兆先生が淹れてくれたお茶を飲み、二人が息をついた時だった。静かに扉が開き、丸い顔をした中年の女性が顔を出した。
「先生、他になにか入用でしたら……」
あっ、と東青は声を上げかけた。確かに覚えている、あの呈長師の秘書をしていた女性ではないか。何度も面会を求めに行った時、いつも彼女が申し訳なさそうに応対してくれたのだ。
彼女も東青のことが分かったらしいが、どこか様子がおかしい。何ごとかを感じ取った兆先生は、女性へ向かって手招きをした。
「一〇四期生の東青君と伊堂君だ。あの頃、麻菊さんは呈先生の秘書をしていたね」
「え、ええ。お二人とも、ご立派になられまして」
秘書は頭を下げたが、気まずそうに東青に目をやった。伊堂がやっと手を打った。
「ああ、何度かお見かけしたことがありますよ。そういえば、呈先生はどこに異動されたんですか。本校とか?」
答えたのは兆先生だった。
「お身体を壊されて、退職なさったんだ。故郷に帰って療養しておられるよ」
「へえ、わりにあっさりした最後ですね。いつもふんぞり返っていたのに」
伊堂の率直な言葉に先生は苦笑したが、彼も思うところがあるようで諌めはしなかった。すると秘書が突然に、
「東青さん!」
と彼に歩み寄った。その勢いに思わず「はいっ」と返事をすると、彼女は青ざめた顔でこんなことを言った。
「ずっとお伝えしたかったんです、私…… あなたに謝らないといけません、あの土のことで」
東青はハッと顔を上げた。兆先生もすぐに感づいたらしい。伊堂だけが、急に転じた空気についていけずきょろきょろしていた。
秘書は語り出した。呈長師が土探しに張り切ったのは、自らの野望のためだったという。
「本校の首脳部に、焼き物を収集されている方々がいて。彼らに珍しい品を贈れば、もっと権力のある立場につけてくれるだろうと、お客人に話していたのです」
彼女は常日ごろ、高慢で我が侭な呈長師に振り回されすっかり辟易していた。いわれもなく怒鳴りつけられた時などは、どこかで痛い目を見るがいいわと陰で舌を出したものだ。
だから、その光景を目にしても黙っていた。
「東青さんが土の壷を届けに来たあと、急な来客で執務室を空けてしまったんです。戻ろうとしてみると……」
部屋からある学生が出てくるところを、彼女はどきどきしながら見守った。何かを隠しているらしく、袂が膨らんでいたという。
急いで確かめると、土はちゃんと壷に収まっていた。しかし彼女には、たった今すり替えられたのだとピンときた。その通り、土を受け取った窯元からの手紙にはこうあった。「どうも違う物のようだが、尽力してもらい感謝している」と。しかし。
「目論見が外れた呈長師は怒り狂いました。それで、罪のないあなたにあんな八つ当たりをしたのです」
たまらずに意見した秘書を、呈長師は解雇をちらつかせて黙らせた。彼女は半分泣きながらもう一度頭を下げた。
「実習から外して、それで気が済むと思ったのですが、まさか進路にまで口を出すなんて…… 本当にすみません」
東青は、驚きのあまりただ口を開けるばかりだった。
「そういうことだったのか……」
すべてが飲み込めた兆先生は、厳しい表情で尋ねた。
「麻菊さん。その学生は誰だったか、覚えているかい」
はい、と秘書は涙をぬぐい、並び立つ若者を恐々と見た。
「あの、とても賢かった女の子です。あなた方とよく一緒にいた……」
三人が息を呑んだその時、不意に廊下を駆けていく足音が響いた。東青と伊堂は一瞬顔を見合わせると、すぐに部屋を飛び出していった。




