五月の翅脈(三)
人の減った校舎には物音がよく響く。実習に発った者以外は夏季の休暇に入り、ほとんどが帰郷して寮を離れていた。がらんとした廊下を、東青は一人で歩いていた。
ふてくされていても何も変わらない。時間はあるのだから思い切り勉強しようと決めたはずが、暑さもあっていまいち身が入らなかった。
あそこは涼しかったな、と思い出したのは牙骨丘のことだ。緑の光や清涼な空気、そこに漂うお茶のすっきりとした香り高さ。そしてあの優しい微笑み……
可憐な少女の姿がよみがえり、東青は慌てて顔を振った。
なんだか頬が火照っている気がする、やはり暑さにあてられたのだ。少しでもあの山のような涼を感じられる場所に行きたい。東青は気を静めて考えをめぐらせた。
そうだ、この町にも竜がいたじゃないか。
彼はようやく見つけた行き先へと足を向けた。
八束守の町は、分校があることを除けばありふれた片田舎だ。その中の小さな寺に、東青はぶらりと歩み入った。さわさわと木の影が落ちる境内にも人気はない。
彼は片すみにある大きな香炉に近づいた。参拝者が線香を立てて祈りを捧げるためのものだ。それをぐるりと巻くようにして、長い身体と角を持つ竜の姿が形作られている。細い前肢は水晶の玉をしっかと掴んでいた。
「こんにちは、井筒神。頭を冷やしに参りました」
得意そうに首をもたげた神の頭に触れ、東青は呟いた。
水に恵まれたこの国では、氏神としてよく竜が祀られている。それらは長くうねる大河の姿を映したもので翼がなく、人々が一般に竜と言えば圧倒的にこちらを指す。
自分も線香を求めようかと顔を上げたとき、横から小柄な老人が声をかけてきた。
「失礼。君は地学科の……」
「これは、漠先生! 私は東青です、昨年はお世話になりました」
東青は思わず笑顔になった。まだ専攻を決める前、この老教師の講義を取っていたのだ。一見すると穏やかな山羊のようだが、実際は熱量にあふれた好人物で、東青は彼の率いる史学科に進もうかと迷いさえした。
やる気が出ずにうろついていることを明かすと、漠先生は声を上げて笑った。
「わしも掃除の邪魔だと家内に追い出されてなあ。暇人同士、少し座らんかね」
渡りに船と、東青は老人に従った。石段の日陰に腰をかけ、二人はあれこれ雑多な話を楽しんだ。東青が牙骨丘まで足を伸ばしたと語ると、先生は「ほう!」と喜んだ。
「いいところに目をつけたね。あれは非常に興味深い山だ」
「話には聞いていましたが、本当に竜の形に見えました。しかし翼のある竜というのは珍しいですね、他所にも見られるのでしょうか」
そう尋ねた書生の肩を、先生がぽんぽんと叩いた。
「今、詳しく調べているのがまさにその伝承の分布でな。実は南方のごく一部にも伝わっているんだよ、山岳地帯から大清畔あたりにかけて。ああ、君が史学科に来てくれればなあ。兆先生に話をつけておけばよかったわい」
「そこまで言って頂けると、何だか気力が戻ってきたようです」
冗談めかして笑いあうと、久方ぶりの爽やかな風が吹きぬけた。
あっという間に日が過ぎゆき、長い実習を終えた学友たちが戻ってきた。そして彼らは、本に埋もれた寮の部屋を見て呆然とした。
「やあ、散らかしてごめん。お帰り」
と書物の山の中から東青が現れ、伊堂と寿里は顔を見合わせた。前より元気であることは間違いない。
「杞憂だったわね……」
けどよかった、と寿里が呟いた。伊堂は手近な本を拾い上げた。
「何だ、史学の資料じゃないか。もしや鞍替えでもする気か?」
「漠先生から面白い話を聞いて、ちょっと調べていたんだ。西の海岸はどうだった? 研究発表が待ち遠しいよ」
あの日の別れ際、漠先生は彼にこう言った。
「あらゆる学問は互いにつながっている。君の心を惹く色々なことに励みなさい、寄り道が近道になることだって無きにしも非ずだよ」
「先生も寄り道をされたのですか?」
彼の問いに「現役さ」と笑い、老人は夏の道を歩いていった。東青は先生の言葉を胸に、再び動き出したのだった。
もう一つ彼を支えたのが、茶藝館で出会った少女の面影だった。
それは後期の授業が始まってからも日増しに色濃くなり、実験や調査でくたくたになった夜などは特に鮮やかによみがえった。そのまま眠りにつくと夢の天空に竜が舞うこともあって、朝の目覚めは決まって爽快だった。引き換えるように、呈長師と土の件は彼の中で段々と薄れていった。
しかし、また会えるだろうかと思いながらも、年次の上がった彼は学業に忙殺され続けた。いつかもう一度あの店を訪ねよう、必ず……
さて、何がそこまで気に障ったのか、呈長師の怒りはついに最後まで続いたらしかった。
「本当に済まない、君を助けられず……」
卒業式の日、兆先生は真っ赤な目をして東青に詫びた。分校では、各学科から一人ずつ国立の研究院に進めるのだが、本来選ばれるべき彼はそこからも外されてしまったのだ。
「先生、私は新しい生活が楽しみなんです。立派に働いてみせますよ」
彼が力こぶを作ると、先生はようやく笑顔をのぞかせた。学友たちもやってくる。伊堂が丸めた卒業証書で東青を叩いた。良家の子息の底力かさすがに正装が板についていたが、中身はいつも通りだった。
「青、あっちで会えるといいな。寿里、寂しくなるなあ。国院でしっかりやれよ」
「そうか、寿里はすぐに首都行きだね。どうか身体に気をつけて」
切り髪を結い上げて凛々しい姿の彼女は、少し迷った挙句、東青にこう言った。
「本当は、あなただったと思うの」
「おい、よせよ」
と伊堂がたしなめる。理由は分からないにしろ、東青が不当な扱いを受けていることは二人ともとっくに勘付いていた。しかし今さらどうできることでもない。東青は、寿里に片手を差し出した。
「君は間違いなくその席にふさわしいよ。お互い頑張ろう」
「……ありがとう、青」
寿里が彼の手を取ると「俺も!」と伊堂が加わってくる。肌寒い早春、梅の花の散る校庭で彼らはそれぞれの道を歩き出した。




