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竜の丘の茶藝館  作者: 小津 岬
第二話
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現を夢に溶き流し(五)

 阿沙は刻限をしっかり守った。

 逢う魔が(とき)、乃鞠の大通りはすでに人で賑わい出している。薄暗い道に早くも行灯の光が躍っていた。

「通りの中心、赤い花の行灯の下で振り向かずに待つこと」

 リン先生の占いにはそう出たと冥狐が伝えにきてくれた。日雇い仕事を終えたばかりだった阿沙は、慌てて宿の水場で身なりを整えた。冥狐はそれを手伝ってやり、不安そうな彼女を励まして送り出した。

 行灯と向き合って、阿沙は両手を握りしめた。周囲の声や音をかき消すほどの鼓動。祈る姿に赤い花の影が投げかけられた。

 さざめきは波のよう。その彼方から、誰かがこちらへやってくる。まだだ。声がかかるまで振り向いてはいけない……

「長い間、待たせてしまったね」

「……壬得さん!」

 押し留めていたものが一斉に溢れ出し、阿沙はついに振り返った。揺れる灯の下に立っているのは、間違いなく壬得だ。明かりを受けて微笑んでいる。阿沙は笑っていいのか泣いていいのか、頭がごちゃごちゃになった。

 壬得が優しく阿沙の手をとった。

「阿沙さん、不義理をしたことを謝りたい」

 彼女はいまだ不安そうな顔で彼を見上げた。

「会えたからいいの。どうしてたの、身体は大丈夫?」

 ひたむきな姿を見て壬得は目を細めたが、不意に深刻な様子で言った。

「私の嘘を許して下さい。君と離れがたいあまり、この世の者を装ってしまった。人の目を欺き、ここで生きられると自惚れていたんだ……」

 彼女の目が大きく見開かれる。

「嘘ってなに、どういうこと?」

「帰らなくてはならない。私が来たところへ」

「私も行く。連れて行って!」

 必死にすがりついた阿沙を、壬得がそっと抱き締めた。通りすがりの酔客がぴゅうと口笛を吹いていく。

「阿沙さんはこの世界で幸せになるんだ。きっとそうなれると信じて欲しい。私を信じてくれたより、もっと強く」

 泣き濡れた彼女の頬を、壬得が愛おしそうに撫でた。その手がゆっくり離れていく。阿沙は我に返り、袖を引きとめようとした。

「いけない!」

と、鋭い声が彼女を止めた。驚き見ると、人ごみの中から少年が現れた。菅笠を被っているが間違いなくあの占い師だ。

「先生、でも壬得さんが……」

「その男、もとより我らと相容れぬ存在。夢幻と同じで、人を惑わせ迷い路に誘う(たち)の悪いものだ。ついて行ってはならない」

 少年は壬得を睨んだ。二人の間の阿沙はうろたえていたが、占い師が隣に立つとやっと動きを止めた。

「さようなら、阿沙さん。私の想いは本物だったよ」

 穏やかで悲しげな微笑みを残すと、彼はゆらりと人々の群れへ紛れ、見えなくなった。

「壬得さん……」

 呆然としていた阿沙は、いつの間にか占い師も消えていることに気づいて一目散に駆け出した。人をかき分けて壬得を探す。しかし、どれだけ見回してもその姿はなかった。

 半狂乱で店に走り込んできた彼女を、冥狐は何も言わずに招き入れた。そして膝に伏して泣き続ける阿沙の背中を、いつまでもいつまでもさすっていた。


「そういう次第で、なにとぞお願い致します」

 あばら屋の座敷で頭を下げた男に、冥狐は差し出された金貨を叩きつけた。

「何が手切れ金ですか、あたしはそんなもんじゃありません! 善也さんに会わせてください」

 善也が突然いなくなってからほうぼう探し回っても手がかりはなく、彼女はひとり小屋で待つしかなかった。

 使者と名乗る男が訪ねてきたのはすっかり冬になってからだ。雪の平原を渡って、隙のない身なりの中年男が現れた時、冥狐はよい知らせではないと直感していた。

 男の話は単純で、残酷なものだった。

「善也様は訳あって勘当されていたのですが、当主のお許しが出たのでお戻りになりました。おわかりの通り、名高い家系の方です。申し訳ないが、あなたのような方を迎え入れることはできかねますので」

 丁重な物言いではあるが、出自もわからない娘を蔑んでいることは明白だった。

「そんなこと知りません。本人から聞かなきゃ納得できませんわ」

 使者は、散らばった金貨を淡々と積み直した。

「いつか許しが出ることは、善也様もわかっておいででした。私が声をかけたら二つ返事で家に帰られましたよ」

「信じません」

 きっぱりと言い切った冥狐を、男は眉一つ動かさずに見つめた。

「善也様の仰るとおり、我の強いお方だ。自分が説いたのでは殺されかねんと言うので、私が駆り出されたのですよ」

 冥狐の心に初めて不安が頭をもたげた。男は再び、金貨をすいと押し出した。

「これは善也様からです。もうつきまとわれては迷惑だと。どこかに新しい家でも買うように、と」

 夢の御殿。

 そう言った時の彼の声が、冥狐の耳によみがえった。身体の中心からひびが入り、そこから粉々に砕けていく気がした。

 気持ちが戻ってきたのは年が明けてからだった。金貨を見るに、名家というのは本当らしいが、他はいくらでもでっち上げられる。彼女は狐の姿になって近郊の町を目指した。そしてさらに次の町へ…… そしてようやく「薬師の次男坊」の噂をききつけた。

「長男が逃げ出しちまってお家が継げないってんで、放蕩息子を呼び戻したそうよ。出来の悪い兄弟で、ご両親は大変ねえ」

と、市場の真ん中でおかみさん連中がうなずきあっていたのだ。

 屋敷はすぐ見つかった。重厚な造りの建物は、古さも相まって堅牢な檻のように思えた。

 夜と雨に身を隠し、金色の狐は屋敷の窓をのぞいて回った。一階には広間や食堂、立ち働く使用人たち。二階によじ登ると、本に囲まれた壮年の男性が机に向かっているのが見えた。

 彼がこの家の当主、つまり善也の父ということか。薬師らしい知性を感じさせはするが、どこか情の薄そうな顔つきをしていた。

 すると、当主が書き物の手を止めた。誰かが部屋に入ってきた。

(善也さん!)

 冥狐は思わず窓に寄ったが、彼の様子に息を止めた。伸び放題だった髪は整えられ、上質な長衣をきちんと身につけている。墨や絵具のはねた服を適当に引っかけた姿しか知らない彼女は、まさしく衝撃を受けた。この善也は、紙を散らばした中で豪快に昼寝をすることなどないだろう。身を震えさせたのは寒さではなかった。

 彼は父に歩み寄ると何か語りかけた。落ち着きのある自然な様子は、名家の親子という言葉がぴったりだ。当主が二言、三言答えると、彼は嬉しそうに笑いさえした。懐かしい琥珀色の目が細められ、冥狐は心臓を掴まれた気分になった。笑顔だけは変わっていなかった。

 獣になっていてよかった、と彼女は思った。人の姿ではあまりに感情がこぼれすぎるから。

 彼女は打ちひしがれて屋敷を後にした。どこに向かえばいいのか何の考えもないままに、みぞれが混じり出した雨の中を歩き続けた。


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