現を夢に溶き流し(四)
「この辺は本当に柳だらけだな。柳枝園の名に恥じない天晴れな生えっぷりだ」
二人はよく野歩きをした。何事につけ単純な善也は、他愛のない遊びを好んだのだった。
「こんな夕暮れ時には、重なった葉っぱが陰気にも見えますわね」
「おや怖いか。安心しな、冥。あれは小っちゃな焼き魚の群れで、俺が全部食っちまうのさ、こうやってな!」
そう言うなり、がばっと手を広げて追いかけてくる。冥狐も子どもみたいに笑いながら平原を逃げ回った。あたしたち本当にばかみたいで、ばかみたいに幸せだ……
善也の長い腕が、彼女を後ろから抱きとめた。二人はそのまま沈んでいく陽を眺める。夕焼けももうじき店じまいだ。
善也が呟いた。
「傾いた家じゃ、嫌か」
最後の強烈な光を残して太陽が消えようとする。冥狐は急に心細くなり、善也の腕に手を重ねた。
「どこだって、一緒なら」
やっとそう口にすると、背後で彼が微笑むのがわかった。
「なに、いつかは夢の御殿に住まわせてやる。そのためにも写本を手伝ってくれよ、冥もずいぶん上達したからなあ。そうだ、俺より上手くなったら養ってもらうとしよう」
すっかりいつもの調子に戻った彼に、冥狐も「はいはい」と慣れた返事をした。彼女が人でないことを除けば何もかも満ち足りていたし、善也はその唯一の問題ですら笑い飛ばしそうな男だった。
彼女はとても幸せだった。彼が姿を消すまでは。
獣の四ツ脚で一路駆けながら、冥狐の胸に苦いものが込み上げてきた。
そう、あたしと阿沙さんは同じ。けれど結末までお揃いにする必要はないんじゃないかしら、神様。
妖の足は速い。人ならふた月はかかる道のりを、金色の狐はわずか一日半で走破してみせた。
首都にほど近い大きな町には石造りの品のある家が並び、いかにも上流といった人々が行き交っている。そして一際目を引く立派な建物が、目指す官部省だった。
入り口は高い門に閉ざされているが、そろそろ退庁の時刻だ。人の姿になった冥狐は、通りの端にひっそりと立ちその時を待った。
やがて門番が鉄柵を開いた。正面の大きな扉から、次々と役人たちが出てくる。真新しい官服を身に着けた若者の一団を見つけるや、彼女はさっと動き出した。
「やっと配属が決まりましたね。波母の港なんて、忙しい所に当たってしまったな」
「私は羨ましいですよ、いつでも海が見られるとは」
「まったく、栄千どのに代わって頂きたいくらいです……」
彼らが道々別れるまで、冥狐は距離を保って後をついていった。そして一人の若者が路地に入った瞬間に声をかけた。
「壬得さん!」
男は文字通り飛び上がり、鬼気迫る様子で振り返った。人相書きと寸分違わない顔…… しかし今は突然のことに怯え、歪んでいる。
声の主を確かめると、彼は安堵と失望の混ざった表情になった。冥狐は一歩進み出る。
「お役人のお仕事、いよいよこれからだそうでございますね」
「な、何ですかあなたは。いきなり失礼ではありませんか」
青年は後ずさりしながら顔を引きつらせた。逃がすものか、と冥狐は間を詰める。
「最終試験は実に難しかったとか。まさか科運記文から出題されるなんて、思いもよらなかったでしょうねえ」
リリンが伝えに来たのはこれだった。手がかりを求めて古書店を巡った彼は、あの本が今年の官人登用試験に使われたことを掴んだのだ。
「一昨年くらいから出題者に変わり者が混ざったそうで、とんでもない所から記述を引っぱってくるそうだ。今回はまさにあの一文、“然れども我、本流にありて微志の磨り消え、傍流の小蛽こそ角を留めん”。あの男は試験を受け、その問題を口ずさんでいたんだ」
そして合格したのであれば彼は官部省に集められたはずで、じきに首都一帯の主要な町へと配属される。そうなれば見つけ出すのは難しい、とのことだった。
「壬得さま、みごと試験に通られましたねえ。結果を見に行く途中に女の子を引っかける余裕までおありで」
冥狐の挑発に、壬得の顔色が変わった。純粋な怒りの色だ。
「そんな言い方は止して下さい! 私は……」
「何だって言うんです? 阿沙さんに嘘をついてほったらかしにして、本気だとでも仰りますか!」
彼女の名を耳にしたとたん、壬得は今にも泣き出しそうになった。とんだ甘ったれだわ、と冥狐の目は底光りした。
「い、一体なんの権限があって、そんな」
「助けたいだけですわ。虚言に踊らされて、はるばる乃鞠まで出てきたお友達を」
目の前の青年は、横から殴られたかのように衝撃を受けた。
「ではあの人は、私を信じて……」
と、わなわなと震え出し、両手で顔を覆う。
「説明していただきましょうか、壬得さま」
冷ややかな言葉に、彼はがっくりとうなだれた。
本当の名は栄千で、彼の家は代々地方の役人を務めてきたという。父親は小さな田舎町の平役人だが、栄千が幼い頃からこう説き続けた。
「お前は一族の誰よりも出来がいい。私と違って、中央の官人になるのも夢ではない。曾お祖父様から続く悲願を、どうかお前の手で果たして欲しい」
あいにく親戚中でもこの代の男子は彼一人で、否応なしに期待が集まってしまった。彼は物心ついた時から人生の目標を定められていたのだ。
「家族を喜ばせたかったし、勉強は好きなので辛くありませんでした。しかし私が力を伸ばすにつれ、父はますますその夢にのめり込んでいったようで……」
中央省官の試験が近づいた昨年の暮れ、父は「参考になるだろう」と一冊の本を差し出した。科運記文だ。何でこんなものをと思ったが、とりあえず読むことにした。
その以前から、彼の家では家財が少しずつ姿を消していた。作った金を何に使っていたのか不思議に思っていたが、試験当日、問題を見た瞬間に血の気が引いた。
「父は、少しおかしくなっていたんだと思います」
栄千は苦しそうに呟いた。
合格発表は、試験と同じくこの官部省で行われる。再び故郷を発った栄千は、豪雨のせいで大きく遅れることになってしまった。しかし、彼は意外なほどの解放感に包まれたという。
足止めされた場所から少し足を伸ばせば区辺の浜だと気づき、橋が直るまでの間に見聞を広めようと思い立った。内地で育った彼にとって海は憧れの場所だったのだ。そしてそこに、阿沙がいた。
「身分を偽ったのは、咄嗟の思いつきでした。ですが生物学者の壬得として振る舞ううちに分かったんです、彼こそが私のなりたかった人物だと。阿沙さんは、初めて自由になった私を正面から受け止めてくれた唯一の人です。忘れられるわけがない」
「いい思い出だって訳ですか。あなたはそれでよくても、あの娘はどうなるんです。来もしない手紙を待つことがどれだけ残酷か知りもしないで!」
阿沙は今でも壬得を信じている。幻の相手を案じ、無事を祈っている。
「本当に出そうと思っていたんです! いっそ試験に落ちていれば、どれだけよかったか……」
肩を震わせる栄千は、許しを請うように冥狐を見つめていた。
「まだ、好きなんでしょう。迎えに行ってください、じゅうぶん間に合いますから」
奇妙なことに、彼女もまた懇願する口調になっていた。しかし、栄千は身を硬くした。
「……それはできません」
「どうして!」
冥狐は、思わず彼の両肩に手をかけた。見返してきたその顔は、彼によく似た仮面を着けたかのようだった。
「合格を知らせたら、すぐに故郷で縁談が組まれ…… 任地には妻を伴って行くものだと、父が」
瞬間的に冥狐が片手を振り上げた。鋭い音を立てて張られた頬を、栄千はかばいもせずに立ち尽くしていた。




