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竜の丘の茶藝館  作者: 小津 岬
第二話
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現を夢に溶き流し(三)

 寒々とした平原がどこまでも広がっている。薄明るい灰色の空は時が流れることを許さない。その下に、一軒のあばら屋がぽつんと建っていた。

 あそこに行かなきゃ。

 そう思った瞬間には戸に手が届いている。家に入れば、中は乃鞠の大通りになっている。当然だ、他のどこへも続くわけがないと彼女は思った。

万華鏡のような光の間をぬってすれ違う人々を見上げるが、彼らには一様に顔がない。そして誰もが彼女にこう告げた。

「ここにはいないよ。いるわけがない」

 嘘よ、約束したんだもの。隠していないであの人に会わせてよ。

 往来で喚く彼女を気に掛ける者はいなかった。彼女は焦る。みんな、みんな行ってしまう……!

 絶望と怒りが叫びとなってほとばしる。ぎゅうっと膨れた行灯の火が弾け飛び、視界を覆い尽くした。

 はっ、と息を吸いながら冥狐は身を起こした。戸についた小窓から、朝の陽が差し込んでいる。自分の店にいることを確かめると、彼女は汗ばむ額に手を当てた。そしてかたわらの文机から一枚の紙を取り上げ、

「あなたのせいでしょうかねえ」

と、壬得の人相書きに向かって呟いた。

 昨日、茶藝館から戻る道すがら、阿沙から彼の特徴を詳しく聞き出した。万一見かけた時わかるようにと。その覚えているかぎりを姉弟の前で描き上げたのである。

「冥狐さんってば上手……」

「あら、そんな大層なものじゃないですわ」

 だってこれいかにも壬得さん、とロクハは何度もまばたきして絵を眺めた。顎が短い童顔だが、すっきりした口元には知性と優しさが漂っている。

「気まぐれで女を騙す輩には見えないが、こいつが問題だ」

とリリンが古書を卓に広げる。ぱりぱりと変色した紙にぎっしりと字が並んでいて、ロクハはつい身を引いた。

「科運記文、だっけ。何が書いてあるの?」

「百年近く前の伝聞記、聞きかじりの小話の寄せ集めだよ。この時代は粗悪な本が氾濫していて、これもでたらめな記述ばかりのインチキ本なんだ。無価値ではないけれど、暗記するほど読み込むような本じゃあない」

 リンさん覚えていたじゃない、と冥狐が水を向けると、彼はじろりと見返した。

「悪かったな暇人で。しかし、壬得とやらは生物学が専門なんだろう。助手の身分でこんな無駄なものを読んでいる時間なんてないと思うな」

「嘘だらけのひどい男!」

 国の地図を広げていたロクハが声を上げ、二人はぎょっとして彼女を見た。

「……とすると。手紙の約束はひとまず置いて、阿沙さんと再会する気がないのなら、わざと乃鞠の名を出したのかも」

 ロクハの大きな瞳が二人を交互に見た。

「それはつまり、本当の行き先から遠ざけるために?」

と、リリン。冥狐もわかったという風にうなずいた。

「とっさに嘘をつく時って、たいてい正反対のことを口走るものですわね」

 三人は地図の上で顔をつき合わせた。

 乃鞠の町は地図の右下、東南に位置している。加えて、阿沙の地元からも離れているだろう。ロクハの白い指は二本の大河を渡り、この国で最も栄えている所…… 首都の周辺まで辿りついた。

 それを見て感じた嫌な予感を思い出し、冥狐は朝の光の中で顔をしかめた。こういうとき、あたしの勘はよく当たるんだわ。


 手早く身支度を済ませ、店の鍵をきっちりと閉める。朝の歓楽街は嘘みたいに人気(ひとけ)がなく、静まり返っていた。居並ぶ花行灯も、白日の下では安っぽさばかりが目についてしまう。まるで夢の続きを歩くようだった。

 懐に忍ばせた人相書きが乾いた音を立てる。ずっと以前、これと同じ音を毎日のように聞いていたことがあった。ああ嫌だな、と彼女はぼんやり考える。自然と思い出してしまう紙の音に墨の香り、なによりあの人の声。

「やあ、冥。上がれよ」

 傾きかけた小屋をのぞけば、彼はいつでもそこにいた。描き散らした絵に囲まれてなお筆を握って。

「大先生、傑作は描けましたの?」

「全然! 仕事にかかりきりで、気力を吸われちまった」

 そう言って善也(ぜんや)はいたずらっぽく笑った。慎重に絵を避けて座った冥狐は、写本して綴じる前の紙の山をめくった。

「また判じ絵に駄洒落ですか。大人向けの本を請け負えば、もう少しまっすぐな家に住めるんではなくて」

「そうだなあ。ここは二人でいるにゃ狭いし」

 筆を置いた善也がごろんと横になると、彼女の膝先に頭がくっついた。蓬髪(ほうはつ)の中から明るい色の目が見上げている。その琥珀色の瞳とがっしりした輪郭は、いつも彼女に野を駆ける狼を思い起こさせた。

 精悍さを台無しにするにやけ面を押しのけ、冥狐は自分の描きかけの絵を探した。善也はこともあろうに足先で片すみを指し、

「多分あの辺り。ほわあ」

とあくびに続けて肘枕の構えをとった。長い昼寝の気配に、冥狐は慌てて彼を揺さぶる。

「先生が目をつむっちゃどうにもなりませんわ。ねえ、ちゃんと教えてくださいよ、善也さんったら……」

「おや、占柳庵の。こんな早くにどうしたね」

 町番に声をかけられ、彼女は我に返った。

 反魂通りの出入りを見張る彼らは夜毎たくさんの余所者と接し、外で起きたこともよく知っている。冥狐は気を取り直し、こう話し出した。

「実は、少し前に見料を踏み倒されましてね、暇ができたので追っかけてやろうと思うんです。そいつ首都の方から来たとか言ってたんですけど、近ごろあの辺りに変わった話ありませんでした?」

 町番の老人は気の毒そうにうなった。

「そいつは間が悪かったな。橋が直る前なら追いつけたかもしれないが」

「あら、どういうことですの」

 一月にあっちの方で大雨があったんだ、と老人は言った。

「雨月の大河が特に酷かったそうで、橋がいくつか壊れちまったんだと。そのせいで、中流を抜けようとする者はみんな足止めを食らったのさ。迂回した先でも通行止めになって、大変だったそうだよ」

「いつごろなら追いつけたかしら」

「ううん、せいぜい二月の初めまでだなあ。橋が直ってからは滞りなかったそうだから」

 ちょうど壬得が旅立ったころではないか。彼は阿沙に会い、足止め中の暇つぶしをしたとでも言うのだろうか。

 しかし、と阿沙の顔が浮かぶ。彼女が語った壬得の様子は、贔屓目を引いても軟派なものとは思えない。冥狐自身もそう思いたくはなかった。

 他の町番や顔なじみを当たってみたが、目ぼしい話はそれくらいだった。

昼近くに店に戻ると、戸口の前に誰かが三角座りをしている。主がやってくるのに気がついた影は、すっと立ち上がった。

四半時(しはんとき)も待った」

とリリンがふてくされて言った。

「リンさん、いいところに! いま情報を仕入れたんですよ、どうぞ上がって」

 しかし少年は彼女の手を制した。

「最後まで面倒を見るつもりなら、悠長にしていられないぞ。すぐ向かった方がいい」

 冥狐ははたと動きを止めた。

「向かうって、どこへ?」

 答えはごく簡潔だった。

「首都」


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