竜紋玉の約束(一)
岩のふちで足を滑らせた時、頭に浮かんだのは「あ」の一文字だった。
沢のせせらぎ、生い茂った木々の香りがぐらりと遠ざかる。傾きつつあるのは世界ではなく自分の方だと一真が認めた瞬間、平衡を保つための一線を越えたのが分かった。
彼が牙骨丘に足を踏み入れたのは、今朝早くのことだ。
それほど大きくもない山だが、由来は他に似たものがない。はるか昔、この地を治めていた一頭の竜が息絶えた。亡骸にはやがて草木が生え、長い年月をかけて山になったと言われているのだった。ドラクグリーフという古名にもその名残を見ることができる。
なるほど、遠目にすればうずくまった竜の形に見えないこともない。こいつは妙ちくりんな、おもしろい山じゃねえか。
意気揚々と登り始めた一真だったが、すぐに後悔することになった。ふもとから見るより山肌はずっと険しく、道なき道はいずれも急峻。そしてついには……
「う、わあああっ!」
堰を切ったように斜面を転げ落ちながら、彼はひたすらに両腕をかばい続けた。
(こいつだけは守らねえと!)
突き出た幹や枝にぶち当たってはくぐもった声を上げ、開けた口には土が入り込む。仕上げとばかりに出っ張りに引っかかって跳ね上がった身体は、ぽーんと弧を描いて開けた原っぱに着陸した。墜落と言ってもいい。
あまりの衝撃に、一真は「ぐえっ」と呻いたきり動かなくなった。
それからどれほど経ったのだろう。
真っ暗闇の向こうから、じわじわと痛みが這い寄ってくる。背中から腰、脚に顔。まんべんなく痛いもので、どこがどうなっているのか見当も付かない。
俺、死んじまったのか。
死んでも痛いなんてひでえや、まったく理不尽だ。俺はこのざまなのに鳥は呑気に鳴いてるし、のどかに草が揺れて……
「お前。生きているのか、いないのか」
突然のことだった。凛とした声が闇を割り、一真を真昼の野原へと引き戻した。
泥まみれのまぶたをこじ開けてみると、確かに彼をのぞき込む者がいる。陽のまぶしさについ目を細めた一真に、その影がぐっと近づいた。相手は少年のようだった。
「眠るな! ここから店までどれだけあると思っている」
こんなに痛いのに眠ってられるか! いや待て、山奥にちょうど人がいるとは運がいい。店、店ってのは何だ?
ぼんやりした頭にはいくつも言葉が浮かんだが、結局口にできたのは、
「……俺の腕、無事か?」
と一言かぎりだった。声を振り絞ると、彼の意識は今度こそ途切れた。
俺は知らなかったが、地面ってのはずいぶん柔らかいもんだ。こんなに暖かい上にいい匂いまでするじゃないか。何だいこの甘いような、スッとして頭に抜ける香りは。ずっと包まれていたくなる……
「うーん…… わっ!」
寝返りを打った一真は、あやうく落っこちそうになって目が覚めた。そして自分がしがみついている長椅子や、ずり落ちた上掛けを信じられない面持ちで見つめた。どの調度品にも見覚えはない。
慌てて見回してみると、彼が寝かされていたのは居間の片隅らしい。高い天井に太い梁が通り、品のある亜麻色の壁に格子状の窓枠が並んでいる。目に付く木材はすべて磨き抜かれ、ずっしりとした艶を放っていた。
長椅子の一角を仕切るのは、繊細な竹細工のついたてだ。かなり値の張る品だ、と一真はとっさに職人の目に戻った。
「よみがえりか、落ち物」
声がかかると同時に、ついたての脇から先ほどの少年が現れた。年の頃は十五、六歳か。生成りの上衣に青い短袴を着け、髪もきっちり纏めてある。山奥に似合わない小ざっぱりした姿に、一真は自分がふもとの町まで運ばれたのだろうと思った。
「まだ山の中だぞ。残念だったな」
少年がにこりともせずに告げ、小さな碗を差し出した。諸々の疑問で一真の頭は膨れ上がったが、相手の強い瞳に気圧されておとなしく受け取った。口をつけると心地よいぬるさの湯にわずかな塩気、なじみの春の香りが漂う。花びらの浮かぶ桜湯だ。
碗を飲み干した彼は、やっと深い息をついた。
少年がついたてを取り払うと、広々とした一間を見渡せるようになった。いくつかの円卓や大机、それぞれに合わせた数脚の椅子。食卓のようだ。壁ぎわには勘定台らしい長い机と、備え付けられた棚が見える。その上にずらっと並ぶ壜や壷が目を引いた。
「ここは、何だ?」
呆然と呟いた一真の手から、碗がもぎ取られる。どうにも無愛想な少年は食卓に近づき、一席を指し示した。
「知りたければ座れ、歩けるだろう。よく転げた割には打ち身だけなんだから」
そうだ、俺は岩場から落ちたんだった。その瞬間を思い出した一真は、改めて身を震わせた。
少年が音を立てて椅子を引いた。
「さあ落ち物」
「その落ち物ってのやめてくれ。俺は一真ってんだ」
と抗議しつつ、恐る恐る立ち上がる。少年の言葉どおり、酷く変色した痣は痛むものの骨や腱に異常はなさそうだった。そして擦り傷や切り傷がきれいに洗われ、薬まで塗られていることにも気がついた。
「あんたが手当てしてくれたのかい」
間の抜けた声を出すと、少年は肩をすくめて勘定台の奥へと消えてしまった。今は席に着くしかなさそうだ。一真はもたもたと椅子までたどり着いた。
卓の中心には、小さな黒塗りの器に白い花が活けられている。その控えめで可憐なたたずまいは、あの少年の印象とはどうしても重ならなかった。
いぶかしんでいる彼の前に、大きな盆が置かれた。こまごまとした茶道具の一式が載っている。訳がわからず少年を見上げると、相手は見透かすように目を細めた。
「なぜこんな所に茶屋がある。牙骨丘に人が住むとは聞いていない。子どもを働かせて親はどうした。どれから尋ねる?」
突き放した口調にたじろいでいると、奥から新たな声がした。
「リリンってば、そんな意地悪言わないの」
ぱっと花が咲いたような、可愛らしい声。それは少年をたしなめながらも一真の心を穏やかにした。彼は自然とその方へ顔を向けた。
勘定台の奥、のれんで隠された先から小柄な女の子が現れた。小さな顔に大きな瞳、切り揃えた髪には頭飾りを乗せている。華奢な身体に長い裳をまとって、その上品な紺色に前掛けの紅がよく映えた。
おや可愛らしい、手伝いの子かな。一真はつい目を奪われ、身体の痛みも忘れた。
彼女はとことこ進み出ると、彼と目を合わせてはにかんだ。彼もつられて笑みを返す。女の子が深々と頭を下げ、そしてこう言った。
「ようこそおいでませ。牙骨丘茶藝館、主のロクハと申します」
「あるじ?」
思いも寄らない言葉に、問いかけた口を閉じるのも忘れる。一真の様子を見たロクハはにっこりと笑った。
「お待たせしてすみません、もうじき新しいお湯が沸きます。リリン、見てきてくれる?」
少年はロクハの頼みに大人しく従った。この女の子が主というのは本当のようだ。さらに彼女が、
「弟が失礼を致しました。いつでもああいう風で、困ってしまいます」
と言ったので一真はいよいよ混乱した。果たしてこの子が幼く見えすぎるのか、リリンが大人びているのか……
ぱっとのれんをめくって、リリンが顔を出した。
「まだかかるよ、姉さん。先にお客様の話を聞こうじゃあないか」
と、腕を組んで勘定台にもたれかかる。ロクハは苦笑して一真へ謝るような目線を送ると、場の切り替えと言わんばかりに大きな目をしばたかせた。
「一真様と仰いましたね。この山に入った訳、教えていただけますか」




