EP-02 始祖(1)
無音の深海で私は溺れていた。
不思議と息ができるのは私が人ならざる者だからだろうか。
だがこの真っ暗な闇からは全く抜け出せれぬ不安が弛まない波のように不規則に襲ってくる。
心拍数があがり、器官が狭まると途端に呼吸が浅くなる。
藻掻けば藻掻く程に焦りが募り、時に死期がそこまで迫っているようにさえ思えるのだ。
これが人の言う恐怖というものなのだろうか。
このまま進めばやがて水面に出るのか。
それとも水の底へと辿り着くのか全く見当がつかない。
ずっと私は水の中で光を求めて彷徨っていた。
私は人ではないが、人の真似はできるのだな。
人は光を求める。
火を恐れず、闇を消し去り、光に安堵し寄り添う。
人は、か弱いが故に光を求めるのだ。
それが人と言うのならそろそろ私も人の端に入ってもいいのではないか?
フッと笑うと遠くから聞き覚えのある声が聞こえてきた。とても懐かしくとても温かい大切で最も信頼のおける声。
「ウヴカリ?」
口を開くと、それまで焦っていたい声の主の気配がスッと止まり、落ち着きを取り戻した声が部屋に響いた。
「お嬢様、お加減の方は大丈夫でしょうか?何やら魘されているような声が」
「大丈夫よ。そうね………すごく汗をかいてしまったようだわ」
「それは大変です。お待ちください」
それを最後にとても軽い足音は遠ざかっていった。どうやら私は夢を見ていたらしい。窓のほうへ顔を向けるとそこには大きく真ん丸な月が静かに暗闇を照らしている。
今日は満月だったのか。
そう呟いたあとため息をつくと徐にベッドから起き上がり、汗に濡れた寝間着を脱ぎ去った。スーッと湿り気が蒸散されていく感覚が全身を包む。まるで水の中に飛び込んだような気分になるといつの間にか呼吸が肺から鰓へ変わっていることに気づいた。
あ、苦しい。
慌てて横隔膜を使う。最近水から遠ざかっているせいか何かに気を取られると鰓呼吸にしてしまうようだ。
肩で息をしながらそばにある姿見を覗き込んだ。首筋にぱっくり開いた真っ赤な鰓がゆっくりと塞がり、鱗立った皮膚はしっとりとした肌へと戻った。
我ながら醜い姿。
そうぼやいていると扉がノックされると返事をする前にウヴカリが中へと入ってきてしまった。
「お嬢様、寝付けないのでしたらホットミルクをお持ちし……お嬢様?!そのお姿は?!まさか夜這いでも!!誰か!誰か!!」
「ウヴカリ!!」
慌てて扉を閉めるとウヴカリからホットミルクを奪い取ってブドワールへ走り去った。ウヴカリも慌てて追いかけてくる。ドアを開くと、右一面に服とドレスと靴が騒然と掛けられ、真っ赤な絨毯の先には大きなヴァニティがあり、そこにソーサーとカップを乱暴におくとどっしりと椅子に座った。
「お嬢様?」
覗き込むウヴカリを振り返ってキッと睨んで言った。
「大丈夫よ。やめてそういう……はしたない言葉を叫ぶのは!」
「ですが、お嬢様はなぜあられもないお姿で」
「着替えようとしたら鰓呼吸になっちゃって肺呼吸にすぐ戻したけど鰓が塞がったかなとか鱗が寝たかなとかいろいろ見てただけ!!……あ、美味しい」
「ラベンダーとシナモンが入っております」
ウヴカリは得意げな顔で会釈をした。ウヴカリの作るちょっとしたものはとても私の好みにピッタリとくる。選ぶ服も、好きな色も全部ピッタリだ。本当に血がつながっているような気さえしてくる。
半分ほどをゆっくりと飲んだところでウヴカリが新しい寝間着を差し出してくれた。
「お早くお召しください。お体に障ります」
「ありがとう」
そうして袖を通してウヴカリの方を振り向くと彼女は跪き、両手の平を差し出して呟いた。
「エテセッ アットゥイ ディラレンタ ケ コードラント」
「やっやめてよウヴカリ。忠誠礼は公式の場だけで私的になんてするもんじゃないわ」
「私はいつ何時もお嬢様とこのコードラント家に身を捧げる覚悟はできております」
顔を上げたウヴカリがにっこりとほほ笑んだ。そうだ、この人は家族ではない。この言葉を耳にするたびにそれが突き付けられる。私は誰とも家族になれない。私は誰とも対等になれない。このまま泡になるまで一人なのだ。