EP−01 漸深層2キロより。
「上がれっくそ野郎がぁぁぁ!全員、海上に還す!!」
ーなぜこの仕事に就いたのか。と聞かれるのが一番困る質問だ。
どうせ、おまえは武勇伝を語りたいのだろう。と毎度毎度、新顔が解りやすい作り笑顔で聞いてくるが正直、それが一番鬱陶しい。別に、こちらは先輩風を吹かせたいわけではないし、仕事を始めてから今まで特段自慢できるような事も何かで表彰された事もない平々凡々な中堅作業員だ。
競争心が無かったわけではない。配属前の作業員補のときは体力測定で誰にも負けたくなかったし、学科試験も一番を獲ろうと必至に勉強した。だが、結局は一番を獲る事は無かった。一度でも順位が下になれば全ての闘争心が消え失せてしまう。あとは何も知らないふりをして何なら上位の人間や優秀な奴等を小馬鹿にするような最低な奴。
それが俺だ。
それに、こいつらの事を根掘り葉掘り知りたいわけでもない。人に興味が湧かないのが唯一、自分の短所だと思う。
「二ノ瀬さん、聞いてますか?」
中ジョッキから視線を上げると、向かい側で新人が憤慨していた。確かこいつは飲み会の最初から話しかけてきた面倒臭いサバサバ女だ。
「うるせーな、さっきから。えっと………」
「エソールです。ニケ・エソール。そろそろ覚えてくださいよ」
「ソエルね」
「ソエールです。ニケでいいですよ」
柚子ハイボールを飲み干す二ノ瀬の顔を覗き込んだ新人は苦笑いを浮かべた。名前すら覚えてない奴の下でやって行けるのかこの先が思いやられる。新歓の最初から真向いを陣取り、特別潜水工員に任務に大事な心構えや先輩達がどうやって特別潜水工員を目指したのかを知りたいのに、こちらの不安な気分など無視して一人で飲み続けて何も応えやしないのだから。
ニケが不満をあらわにしている事に気付いた二ノ瀬は、雑にジョッキを置いて辿々しく話しかけた。少しは罪悪感があるらしい。
「………悪い。名前を覚えるの苦手で」
ボソッと弱々しい声で二ノ瀬は謝ると、ニケは豆鉄砲食らったような顔をした。悪態をつく傲慢な先輩だと思っていたが、どうやら見当違いだったらしい。この人はただの不器用で恥ずかしがり屋だ。ニケは笑って謝罪を受け入れた。
「先輩、何飲みますか?」
「あぁ…えっと…同じやつで」
ニケは二つ返事で通りすがりの店員を呼び止めると、柚子ハイボールを二つも頼んだ。慌てて二ノ瀬が訂正しようと振り向いた時には既に、威勢のいい店員は厨房へと引っ込んでしまっていた。
何の嫌がらせなんだ。炭酸のハイボールは時間が経てば気が抜けてしまって美味しくない事ぐらいわかるだろうに。二ノ瀬は少し語気荒く後輩のサバサバ女に忠告をした。
「おっおい。二つも飲めないぞ。名前覚えてなかったからってそんなあからさまな嫌がらせないだろ」
そう言い放つ膨れっ面の二ノ瀬に、ニケは無垢な笑顔で応えた。
「一つは私のです」
〔中央管制室よりフレヨンゴウ、応答願います〕
「こちら赫-Fure-肆号です。どうぞ」
〔現在の航行状況つたえてください〕
「本艦は水深1000mを4ktで進水中。現在、異常はありません」
〔了解です。異常値を示した目的箇所に着き次第、状況報告をお願いします〕
交信を切ると二ノ瀬はボソッと言った。
「あの時に、お前が裏表ない人間だってわかったんだよ」
操縦桿を握りながら思い出話をする二ノ瀬の横でコパイロットのニケは吹き出した。神妙な面持ちで何を言い出すのかと思えば、大した事ない酒の席でのどうでも良い場面を良い話風に昇華して自分に酔っているだけだった。他にもっと良い話があるはずなのだが、男性はいつでも意味のない場面だけをよく覚えている。私が裏表ない性格なのはその通りなのだが、それを決定づける思い出話しが今のだとしたらいい加減もいいところだ。
もっといい思い出にニケが耽ろうとした矢先、後方に陣取る通信士のリー・ハオランがとびっきりの笑顔で話しかけてきた。
「ニケさんも可愛いらしいところあるんですね」
すぐさま振り向いたニケは鬼のような顔をしていた。
「このまま船外に排出してやろうか」
ハオランは慌てて姿勢を正すと、水上へとのやりとりが表示されている画面を見つめた。
あの顔は本気だ。しばらくは目を合わさない方がいいだろう。震えあがるお調子者のハオランを見てため息をつくと、ニケは計器系統に目配せながら二ノ瀬に報告した。
「艦長、あと50mで目標地点です。以前として異常値を示しています」
「あぁ、きっと暗岩礁にでもぶつかったんだろ。さっさと直して帰ろうぜ。今日は交代日だ………何だあれ」
クルー全員の息が止まったかのように静まり、一点に視線が注がれた。暗闇から現れたのは壁一面に群がる水獣類の塊だった。何千何万といるそれらは壁面を一心不乱に貪食している。数百尾単位なら何度か見た事あるが、ここまでの規模を間近で見るのは初めてだ。横にいるニケは両手で両腕を摩りながら悲鳴を上げ、ハオランは手で口を抑えてその場を走り去った。
「ほぉ、これは気持ち悪な。こんな数のペッチネエルムは初めてだ。異常増殖した奴らは危ないぞ。こっちまで食われちまう」
「ガルダナさんでも初めてですか」
二ノ瀬が振り返ると、髭坊主の男がフロントから見切れた部分を見ようと覗き込んでいた。褐色の雄雄しい体格をしたガルダナはその経験値を生かして艦長を務める二ノ瀬のバックアップをしている。普段は別室にいるのだが、今回はモニターで確認するや否や操舵室へと飛び込んできたらしい。
「歩夢。無理するな。陸に応援を頼むしかない。アイツらは執念深いからな。よしお前ら、さっさと一掃してオッドの奴らと交代するぞ」
そう言って二ノ瀬の肩を思いっきり叩くとガルダナは息巻いて補助室へ戻って行った。今までたくさんの水棲獣を駆除してきたが、ガルダナの言う通りこの量では歯が立たない。即時沈没が目に見えている。二ノ瀬が奥歯を噛み締めていると、ハオランが慌てて声をかけてきた。
「艦長、中央管制室からです。繋ぎます」
〔こちら中央管制室です。フレヨンゴウ、状況はどうでしょうか〕
「こちら赫-Fure-肆号。水獣のペッチネエルムが異常増殖している模様。本島南端深層1,000m付近を貪食し破壊中ですが、侵蝕はまだ第一層で済んでいます。応援を要請。到着次第、駆除に入ります」
二ノ瀬がそう伝えると、中央管制室のアナウンスが交代した。
〔二ノ瀬、聞こえるか?その場からすぐ離れろ。異常増殖した奴らは攻撃的になっている。ヘッドライドを下向きにしてゆっくり後退するんだ。今、鯨体型が応援に向っ〕
その時だった。外装を食い荒らしていたペッチネエルムの一部が、一斉に赫-Fure-肆号のフロントガラス一面にへばり付いた。前方の異常な重さを感知したセンサーが働き、瞬時に緊急警報が艦内に響き渡りニケの悲鳴がこだまする。二ノ瀬の握る操縦桿は意に反して前方下部へと動き、どんなに二ノ瀬が引こうとしてもビクともしない。
「っくそ。なんだいきなり。コントロールが利かねぇっ」
〔二ノ瀬急浮上しろっ。急激な水圧変化でそいつらは勝手に剥がれる〕
「わかってる!!でもコントロールが利かねーんだよ!!」
「嫌だ!死にたくないっ!!」
操縦桿を力一杯引く二ノ瀬の後ろで悲鳴がした。ニケが振り返ると頭を抱えてしゃがみ込むハオランが震えていた。
【おいクソガキっ。お前の役目は何なんだしっかりしろ!】
イヤモニから二ノ瀬の押し殺した声がした。ハッとしたハオランは顔をあげる。涙目でフロントを見るとクルー全員が必死に状況を打破しようと必死になっている。自分は震えているだけだ。いつもただ震えているだけだ。
【揺れるぞ掴まれボケナス。揺れ収まったら通信補助ちゃんとしろよ。お前がやらなきゃみんな死ぬぞ】
バランスを崩した艦体が水の抵抗を受けて左右に振られる幅がどんどん大きくなっていく。艦内は全ての物が散乱している。ハオラン以外のクルーはシートベルトのおかげでその場に留まる事ができているが、体を固定するだけでやっとの状態だ。船内が揺れているのか、自分自身がめまいを起こしているのかわからないほどの揺れが会えまなく襲ってくる。
やっと二ノ瀬がモニターを確認すると、ペッチネエルムはフロント部分だけではなく、後方までこびり着き、とうとうスクリューが回らなくっていた。
完全にコントロールを失った赫-Fure-肆号は真っ暗な深海へと落ちていくだけになった。
二ノ瀬は何度も思いっきり操縦桿を引き直すが依然として下降が止まらない。
「こっこのままでは」
ガルダナは頭を抱えた。赫-Fure-シリーズは深海3kmまでしか堪える事ができない作業用潜水艇だ。このまま深海層へ突入すればその水圧に耐える事はできない。
額から滲んだ汗が頬を伝う。二ノ瀬は必死に暴走する操縦桿を握り抑えた。
「シャレになんねぇなコレは」
生まれて初めて手が震えているのに気づいた。死への恐怖が体を覆って行く。それを振り払うように二ノ瀬は叫んだ。
「ニケ、深度のカウントしろっ!!」
ニケは悲鳴混じりに返事をすると両手足で踏ん張りながら深度計器を読み上げた。
「現在、深度は、1.7、1.8、嘘、速い。1.9………2km到達です。あと1kmしか無いですっ二ノ瀬さん!!」
歯を食いしばる二ノ瀬はペッチネエルムで塞がれたフロントガラスから目を逸らさなかった。折り重なった害獣は仕切りに水かきの付いた前足と体に不釣り合いの口を休みなく動かしている。シャベルのような歯が見え隠れする度にそれがフロントガラスを少しずつ削り取られているのがわかる。
水圧で押し潰される方が先かフロントガラスが割れて溺れ死ぬ方が先か。目の前の脅威を睨み付ける二ノ瀬の脳裏に最悪の結果だけが渦巻いていた。
ニケがもう一度名前を呼ぶと、ハッとした二ノ瀬は全身の力を込めて操縦桿を思いっきり引き上げる。
「全員、海上に還す!」
腹の底から叫び声をあげたその時だった。
突然、あれだけ大量にこびり付いたペッチネエルムが一斉にフロントガラスから離れ始めたのだ。一度食い始めたら食べ尽くすまで離れる事がない奴らが、急に貪食を止めるだなんて聞いた事がない。
何が起こったのか理解できず、その場にいた全員が無言で立ち尽くしているのを尻目にペッチネエルムは深海への暗闇へと消えて行った。
それと同時にフリーズ状態になっていたスクリューが動き出し、全速力で浮上を始めた。艦内にいる全クルーが歓喜の雄叫びをあげる中、二ノ瀬はホッと胸を撫で下ろした。
「助かりました。船長」
泣き顔ですがり寄るハオランを押し返すと、ニケがニコリとこちらに微笑んだ。
「お前、さっき名前で呼んだろ。船の中では”船長”だ。忘れんな」
「え?私、船長って言いませんでしたか?」
「言ってない」
その時だった。ガルダナが震えた低い声で呟いた。
「イルル…だ」
全員がフロントに目をやると、眼前に信じ難いものがそこに居た。漸深層の暗闇にそれは漂っている。燃えるような赤色の目をしたそれはこちらをじっと見つめて居た。
不思議とその生き物から目を反らせなかった。時が止まったかのように誰も動かない。聞こえてくるのはソナー音とスクリューの回転音だけだった。
どれくらい見つめ合っただろうか。気付いたガルダナが慌てて口を開いた。
「そいつと目を合わせるな。顔を覚えられると厄介だぞ」
するとガルダナの声が聞こえたように全眼球が真っ赤なそれは一度広角をあげた。そしてゆっくりと体をくねらせて海の闇へと消えて行ってしまった。笑ったのだろうか。ヘッドライトはただ暗闇の底を照らしながら海面へと浮上していった。