御影②「嫌というわけではないが」
「あら?」
泣いてた、泣いてない、の不毛な言い合いを繰り返しながらエレベーターから出ると、部室の前に誰かが立っているのが見えた。
隠君よりも高い、平均的な身長に見えるが、姿勢が悪そうなので実際のところはわからなかった。
「やっぱり泣いてたでしょ?」
「もうその話はいいわ。誰かしらね、あれは」
少し用心しながら近づくと、その男はこちらに気づいて視線を向けた。
一言で表すならば、眠そう、というのが彼の印象である。
瞼が半分くらい閉じていて、日常生活に最低限必要な緊張感すらも持ち合わせていないように見えた。
灰色に近い黒髪は無造作に跳ねている。
I.D.の関係者だろうか。
ひょっとすると、まだ見ぬ上回生か、それとも噂に釣られた一回生かもしれない。
「あのー、I.D.の人ですか」
隠君が尋ねると、彼はワンテンポ置いてから、黙って頷いた。
そのときに一瞬背筋が伸びたが、思ったより頭は上にあり、おそらく八雲さんや守都さんよりほんの少し低いくらいの身長だった。
「私たちは新しく入った一回生なんですが、あなたは?」
「……一回」
そう答えた彼の声はその容貌から想像したものより低く、かつ澄んでいた。
しかし、本当に一回生だったとは。
やはり、私たちの他にも入会テストやスカウトを受けていた新入生は存在するようだ。
「それじゃあ同じ一回生同士、仲良くしましょー。僕は隠っていいまする」
「藍原よ。よろしくね」
「……柚谷」
男改め柚谷君は、どうやら無口な人のようであった。
私の中で、天才とは饒舌か無口かのどちらかだというイメージがあったので、これはこれで想定内だ。
自己紹介が終わったところで、三人並んで部室に入ることにした。
中には既に野々さん、八雲さん、遠矢さん、守都さん、御影さんが集まっていた。
軽い挨拶を交わし、手前のソファに三人腰掛ける。
守都さんは奥のマネージメントデスクに、御影さんと遠矢さんはその前にあるコタツで向かい合って座っていた。
八雲さんは本棚の隣に寄りかかっている。
野々さんがみんなに飲み物を出してくれた。
こうして見ると、この組織のメンバーそれぞれの立ち位置のようなものが見えてくる。
「私たちの他には、もう一回生はいないんですか」
「今の所は三人だけだよ」
野々さんがコーヒーメーカーを触りながら答えてくれた。
「八雲くんも座ってはどうだ。後輩たちを遠慮させてしまうだろう」
そう言って御影さんが八雲さんを手招きする。
八雲さんは「それでは」とコタツの方に腰を下ろした。
「よしよし」
「八雲、クッション一つ取ってぇ」
「どうぞ」
「ありがとぉ」
一連のやり取りが終わった後、コタツの三人は同時に手元の紅茶を口に運び、ふぅっと一息ついた。
なんともおかしな光景である。
御影さんの美しさは本日もとどまるところを知らず、遠矢さんもニコニコまったりして、八雲さんは淡々と大人しい。
しかし、昨日一昨日と私が彼らを見た中で、今が一番彼らの素が出ているように見えた。
やはり、気心の知れた相手と部室で寛ぐというのは彼らにとっても幸せなのだろう。
しかし些か、のんびりし過ぎているようにも思われる。
そんなことを考えているうちに、また部室のドアが開いた。
「ちぃーっす、中静とコゲっちっす」
今日もギャルファッションで決めた静さんと一緒に、コゲっち、と呼ばれた男性が入ってくる。
「静ちゃん、古月くん! おはよう!」
「野々ちゃんさんちぃす!」
「おはようございます…」
コゲっち、というのはこの古月さんへの静さんからの呼び名のようだ。
古月さんは隠君よりも少し背の低い小柄な男性で、少し長めの黒髪に眼鏡をかけている。
どこかおどおどした雰囲気があるのが印象深い。
「やあ静、古月くん」
「あっ! ミカりーん!」
静さんは御影さんをそう呼ぶと、カーペットゾーンへ飛んで行き、御影さんが座っているコタツの一辺に並ぶように飛び込んだ。
古月さんも「みんなおはよう。守都さんもおはようございます」と言って、コタツの残りの一辺に座る。
おそらくあの五人が、I.D.二回生の総員であろう。
少し羨ましくなるほど、和やかで仲が良い。
「あとは蓮藤のやつだけか」
現在部室にいるのは、一回生三人、二回生五人、三回生が二人の十人。
残りは三回生最後の一人ということになる。
守都さんが蓮藤と呼んだ人物がその人だろう。
「蓮藤くん、昨日も遅くまでお酒飲んでたみたいだから、ひょっとしたら寝てるのかも。はい静ちゃん古月くん、紅茶」
「どうもっす!」
「ありがとうございます」
「あのやろうまた酒か。今日は集会だって言ったろうが」
「蓮藤さんなら、昼前にラウンジで寝ているのを見かけましたよ」
八雲さんが思い出したというように言った。
その言葉に、守都さんがため息を吐く。
どうやら、蓮藤さんという人物は普段からそんな感じのようである。
「私、ちょっと電話してみるね!」
野々さんはそう言って、一旦部室から出た。
「そう言えばアイぽん! ちゃんと入会できたんよね! おめでとー!」
静さんが突然そんなことを言い出し、私は一瞬、一体彼女が誰のことを言っているのか分からなかった。
しかしその視線が私に向けられているのを見て、アイぽんなる謎の呼称が自分のことを指していることを理解した。
「はい。あの、アイぽん、というのは」
「藍原ちゃんっしょ? アイぽんじゃん!」
「あ、はい」
どうやら私はアイぽんのようだ。
まあ、嫌というわけではないが、暫くのあいだ違和感は消えないだろう。
なにぶん今まで、あだ名で呼ばれた経験というものが、私にはないのである。
「それと、そっちの子はなんてゆーの?」
「……柚谷です」
「へー。んじゃゆえちぃね!」
「……ゆえちぃ」
柚谷君は小さく復唱すると、特に表情を変えることもなく頷いた。
静さんは改めて私たち三人を見ると、「よろすく!」と言ってニカッと笑った。
「ほらほらコゲっちも!」
「あ、うん……よろしく……」
古月さんが頭を下げたのに合わせて、私も会釈した。
静さんが加わると、二回生五人がちょうど良い賑やかさになるように思えた。
そのとき、ドアを開けて野々さんが戻ってきた。「蓮藤くん、急いで来るって」
「今からかよ…」
「蓮藤くんらしいな」
「そうだねぇ」
その後、私たち十人は他愛ない話をしながら蓮藤さんの到着を待った。
そうしていて分かったのは、このI.D.という組織が、普通のサークルや部活とあまり変わらないということだった。
仕事が出来るかどうかにこだわったり、入会テストがあったりはするが、蓋を開けてみれば、ここはなんの変哲もない、学生の団体なのである。
昨日は彼らを呑み込むと言ったが、こうしているとそんなに気を張ることもないのではないかと思われて、それが悔しくもあり、同時に嬉しくもあった。