母が残した想い
少し寒さは残るが、少し暖かくなった二月のある日の昼下がり。
芳根・仁科家、離れのある一部屋。そこはかつて『寺子屋』の主人が生活していた場所だった。
百合は古びた机の裏に貼られていた、今にもちぎれそうになっている紙を見つけ、一見、変哲もないようなその紙に書かれている文字をなぞった。
本来ならば、この部屋の主人が亡くなってから三か月以上経つので、すでに形見分けは終わっていてもおかしくない。
だが、これから年末の忙しさがやってくるぞ、という時に楓が亡くなったため、なかなか思うように進まず、年明けて一か月半弱経って、ようやくはじめることができた。
その最中、母が愛用していた卓袱台ももう誰も使うこともないので、それを処分しようとしたときに、その紙を発見したのだ。
『 机の奥にある 。 十五枚のもあります。
ただし、 優華が四歳の時、転倒して破損。取り扱いには注意』
見慣れた字面。ところどころ消えた痕があったが、間違いなく母、楓が書いたものだ。今となってはもう新しく書かれることのない字。そっと紙面を撫で、彼女を偲んだ。
「どういうこと?」
しかし、その文章をよく読んでみると、違和感を覚えた。
「机の奥?」
卓袱台には手前も奥もないはずだ。強いて言うのならば、母親が座っていたところが手前なのだろうか。もしやと思って、貼られていたその紙をそっと剥がしてみたが、写真らしきものは見当たらない。
さらに、『優華が四歳の時に破損した』とあるが、この机には破損している様子は見受けられなかった。
(何が隠されているのだろうか)
母親に聞こうにも、すでに母はいないので、聞くこともできない。
同居していたのに、母のことを理解していなかった自分に後悔した。どこか、自分は一つ間違えてしまったのではないかと思ってしまった。
捨てるに捨てられなくなった卓袱台をそっと脇に置き、別の物を片付け始めた。
押し入れの中を片付けてしていると、昔懐かしいクッキー缶が出てきた。中身はもしや、と思い、少し焦って中を開けたら、そこには封筒が入っていた。しかし、その封筒には宛名は書かれておらず、便せんが数枚入っていた。
不謹慎だとは思いながらも、母親がどんなことを手紙に認めていたのかという好奇心が勝った。
封筒は糊付けされていなかったので、後ろめたさが少し軽くなった気がした。
『百合へ』
そう手紙の出だしは書かれていた。百合は驚き、母が何を伝えたかったのか、しっかりと読むことにした。
『百合へ
小さい時から私の隣にいて、いろいろなことを学んだ優華がいつか孤立するのではないかと思った私は、そうならないように、誰か一人でも助けを求めることができるようにと、近くの子供たちを集めて、一人でも多くの子供が、優華のことを友達として接してくれるように願って開所しました。
それからもあなたは優華を孤立させるのか、と続けていくことに反対しました。
私はあなたが反対していた理由もよくわかります。
ですが、私はいつかきっと、誰か優華を守ってくれる子が現れるのだろうと願い続け、『寺子屋』を続けました』
この文章を読んでいて、優華が幼稚園児のころ、少し頭がいい子たちが通う幼稚園でも理解されなかったことを想い出した。
だからこそ、優華を地域の子供たちとともに過ごさせることで、優華を子供たちの輪に入れようとするために『寺子屋』を開いたということも知っていた。
だが、百合は、母が考えたこの方法が悪手なのでは、と考えた。
確かに優華は優秀だ。だが、彼女の性格で本当に人の輪の中に入れるのだろうか、下手すれば、誰とも会わなくなってしまうのではないのでは、とも考えてしまった。
だが、母は強引で、いつの間にか『寺子屋』を開き、何人かの子供たちを勧誘してきた。
子供たちは皆、元気のよい子供たちで、その中で優華はやはり目立ってしまった。
そんな中、一人の少年が『寺子屋』に入って来た。
『優華が五歳の時、康太君が通い出しました。はじめは渋々だった彼ですが、徐々に優華とも打ち解け合い、私は今までにない喜びを感じていました。
彼は勉強中、落ち着きのなかったところが玉に瑕でしたが、引っ込み思案の優華でさえ、彼とは仲良くしているようで、私にとっては、彼こそが優華を守ってくれるのだろう、と信じていました』
性格が正反対の優華と仲良く喋っている康太君の姿を今でも覚えていた。
その時はさすがの百合も、母親の長期間を見る目があったのだと感心していた。
だが、穏やかな日はじきに終わりを告げた。
『最初、優華がいじめに遭っていると聞いた時、私は康太君に相談しました。しかし、彼もまた、どこかおかしかったのです。
ですが、これといった確証はなく、康太君に聞いても空振ってしまうのではないかと恐れて、聞けませんでした。その時に聞いていれば、どんなに良かったのか、今でも後悔しています』
母親の告白に百合は驚いた。康太君に相談をしていたのは知っていたが、母親が康太君の異変を見抜いていたことに気付いていなかった。自分は優華のことで精いっぱいだった。
そればかりか、百合は優華のいじめに気付いた時、すぐに『寺子屋』のせいだと楓を罵った。
『ここさえやっていなければ、優華は噂を立てられずに、目立つこともなかったのに』と。
それはあとから過ちだと気づいたが、その時にできた母娘の溝はしばらく埋まることはなかった。
『その後はあなたも知っている通り、優華は自殺未遂をし、康太君も同じようなことをしてしまいました』
ここの一文はかなり手が震えているのが、よくわかった。母がやっとの思いで、この一文を書いたのがうかがえた。
『私はその時になって、後悔しました。『寺子屋』を開くべきではなかったのだと。優華と康太君を出会わせるべきではなかったと』
母が後悔していたのは良く分かっている。だが、そうではない、と百合は、今ならば理解できる。
(優華も康太君もすれ違って、互いに声を掛けあえられなかった。それに、その雰囲気を生みだしたこの地域の環境が原因だよ、お母さん)
百合は天国にいる母親にそう心の中で呟いた。そして、手紙の最後にはこう締めくくられていた。
『それでも、私は何かを想って康太君に学校での優華のことを聞きました。
私が思っている以上に、康太君は百合のことが好きだったみたいですね。私よりも優華のことを知っていて、そんな彼が羨ましかったです
追伸
もし、康太君が今後、優華の側にいたいというのなら、私は賛成です』
そうだったのか。
百合は仕事があったので、あまり会っていないが、母親と康太君が会っていたのを知っており、百合も参加できるときは、二人とともに優華のことを話した。
(お母さんのおかげで二人はまた会えたし、私たちも二人が付き合うのには賛成だよ)
母親からの手紙を読み終わった時には、庭に西日が射しこんでおり、すでに夕方になっていることに気付かされた。
立ち上がろうとしたとき、母が愛用していた鏡に映った自分の姿が目に入った。その自分の頬には少し濡れた跡があるのに気づいた。
「もう夕ご飯のしたくしなきゃね」
目をこすり、一人分の食事を作りに行こうとして、立ち上がった。数歩進んだところで、あるものに気付いた。
「あれって――――」
百合が気付いたのは、壁にかけられている写真だった。
今まであまりこの部屋には入って来たことがなかったので、気づかなかったが、本当に楓は優華のことが好きだったみたいだ。優華の成長記録となる写真が並んでいた。十五枚。それを見て、同じく優華のことが大好きな梓に上げたら喜ぶだろうかと考えてしまった。
そこでその写真と先ほど見つけたあの紙の言葉がなぜか結びついた。
母は写真を撮るのも好きで、昔からよくフィルムを買っていた。昔からフィルムをしまっておく場所はあの場所だと決めていた。今でも同じ場所にフィルムは保管されているはずだ。
そう百合は感じ、記憶のままに母屋の居間に行き、仏壇の手前にある机をどかし、地袋を開けた。すると、そこには数本の未使用のフィルムと、現像されたネガが整理されておかれていた。
そして、その隣の引き出し開けてみると、古いカメラが置かれており、それには“故障”というシールが貼られていた。記憶を探ってみると、確かに優華が四歳のころ、なんらかの拍子に壊してしまったのを思い出した。
(これが、あの張り紙の謎だったのね)
もう今となっては、なぜあの張り紙がそこにあるのかはわからない。だが、母が遺してくれた大切な宝物の一つがまた、見つかった。
そして、その写真類を見て行くうちに、もう一つ大切にしまってあったものに気付いた。その小包を発見した時、百合は思わず微笑んでしまった。メーカー名から、それがなんであるか想像ついた。
「本当にあの子たちが好きだったのね」
それを脇に置き、地袋を閉じた。
朝もいつもの習慣で手を合わせたが、もう一度、ありがとうと位牌に向かって手を合わせ、自分の夕食の準備に向かった。
その足取りが、少し軽くなっていたことに彼女は気づいていなかった。




