其の十八 笑うひと斬り
百妃はほとんど固形物としか思えない空気の壁を切り裂きながら、落ちていく。
パラシュートを開くべきポイントは、とっくに過ぎておりこのままでは地上に激突して死ぬことになる。
けれど、百妃は死ぬつもりは全くなかった。
彼女の視界の先には、白いおんながいる。
その瞳には、百妃の姿が映っているはずだ。
百妃は注意深く白い魔神に向かって、呪の糸を垂らしていく。
九十九神に対して行うように、魔神と量子リンクを確立していった。
人工知能が作り上げた模造品である魔神と、百妃はあっさりリンクを確立する。
ある意味、魔神は無防備であるといえた。
熟練した術者のアクセスをガードするような術式を、組み込まれていないのだ。
百妃は、白い魔神に聞こえるように祝詞を唱えはじめる。
「ひと、ふた、み、よ、いつ、むゆ、なな、や、ここの、たり」
白いおんなは、突然雨が降ってきたとでもいうかのように、空を見る。
百妃は、繰り返す。
「ひと、ふた、み、よ、いつ、むゆ、なな、や、ここの、たり」
空から落ちる言葉が、少しづつ魔神のこころに触れていく。
「ひと、ふた、み、よ、いつ、むゆ、なな、や、ここの、たり、もも、ち、よろず」
呪が、魔神の中に溶け込んでゆくのを感じる。
突然、雪風からの対空機銃による攻撃が停止した。
百妃は、パラシュートを開く。
見えない手で抱き止められたように、百妃の落下速度は落ちる。
魔神は、どこか戸惑っているように見えた。
百妃は、さらに祝詞を重ねる。
「ひふみゆらゆら」
魔神は、何かを待つように百妃を見ている。
祝詞は空間の中で木霊し、呪で地上を満たしていく。
魔神は、次第に呪で編み上げられる檻の中へと囚われていった。
百妃は再び、祝詞を重ねる。
「ひふみゆらゆら、ひふみゆらゆら」
百妃は、魔神の中で何かが開きはじめるのを感じる。
百妃の練り上げた呪は、降り注ぐ雨のように魔神の中にそそぎ込まれそこを満たしてゆく。
百妃は、三度祝詞を重ねた。
「ひふみゆらゆら、ひふみゆらゆら、ひふみゆらゆら」
魔神は、百妃の手中へ落ちた。
百妃は、叫ぶ。
「ウェパル・ユキカゼ、汝を我が式神となす。我が呪を喰らい、我が命に従え!」
灰色の世界の中、氷でできた像のように真白いおんなが、翼を広げるように手を空へさし出す。
地上で爆発がおきたかのように風が空に向かって巻き起こり、百妃の全身を抱き止める。
死ぬ以外にどうしようもない速度で落ちていた百妃は、風に受け止められた。
百妃は目に見えぬ巨人に受け止められて、宙へ投げ出される。
骨喰藤四郎を抜いた百妃はパラシュートの紐を切り、ふわりとスカートを翻して着地した。
凍りついた亟北の世界からきたような白いおんなは、燃え尽きた星のように黒い瞳を少し伏せると膝まづく。
「我が主、あなたの命に従います」
ふうと、百妃はため息をつく。
所詮、人工知能に過ぎないRBの作った式神もどきは、こんなものだろう。
術者と式神の関係を、本質的なところで理解できていない。
次の瞬間に百妃のとった行動は、純粋に反射だけによるものだった。
背後から吹く死の風をよけられたのは、奇跡に近い。
ユキカゼの足元に身を投げ出した百妃の頭上を、ワイヤーソウが通り抜けていく。
百妃の髪の毛が、一ふさ刈り取られていった。
百妃は身を捩って、立ち上がる。
霧の中に溶け込んでいるような、存在感の薄い老人が立っていた。
百妃は、髪の毛が逆立つような恐怖を感じる。
このおとこがもしマキーナ・トロープではなかったら確実に自分は死んでいた。
マキーナ・トロープであるがゆえに、その存在感を完全に消せずにいる。
その老人は、かつて百鬼とよばれた。
マキーナ・トロープとなった今、黄昏をさ迷う幽鬼のように見える。
百鬼は、無造作に手にした刀を抜く。
おそらく術者から鹵獲した、村正だ。
次に何がくるのかは、いやというほどよく知っている。
百妃は、目を閉じると叫んだ。
「ウェパル・ユキカゼ、風をおこせ!」
百妃は再び風の巨人に鷲掴みにされ、放り出される。
闇の中をジェットエンジンにブーストされたような速度で放り出されるのは、もの凄く恐い。
けれど、目を閉じているからよく分かる。
闇のなかで銀色に燃え上がるような、百鬼の刀が放つ気を把握することができた。
心の一方、村正の放つ気は百妃の瞳を閉じた瞼ごしに打つ。
目を開いていれば、四肢の自由を失っていたところであるが、軽く脳を揺さぶられた感覚だけが残る。
心の一方を放った村正は、闇の奥で銀色に燃え盛っていた。
百妃は、真っ直ぐその銀色に輝く炎へ身を投げ出す。
全身を焼かれるような、苦痛が百妃を襲う。
村正は、百妃を貫いている。
しかしその刀は心臓も肺も、避けて百妃を串刺しにしていた。
重要な血管も、斬られていない。
百妃が狙った場所を、しっかり貫いている。
百鬼相手にこんなことができるのは、ユキカゼのコントロールが絶妙だったせいだと思う。
そして、百妃は骨喰藤四郎を前へつきだす。
動作としては無造作に見えるが、蠱毒で練り上げたありったけの呪が込められている。
手応えが、あった。
骨喰藤四郎は、見事に百鬼の左目を貫いている。
百妃は、目をひらく。
目の前に、左目を刀で貫かれた老人の顔がある。
老人は、笑っていた。
とても、満足げな笑みだ。
まるで、一仕事終えたかのような。
百鬼は、そっと頷く。
「よくやった、我が娘よ」
百妃は全身を氷に浸けられたような恐怖を、感じる。
百妃は夢中で老人から身を遠ざけようとしたが、身体を村正で貫かれているので簡単にはいかない。
ワイヤーソウが舞い、真紅の血が灰色の世界を赤く染める。
百妃は、左手を失った痛みに悲鳴をあげながら村正から身体を引き剥がす。
ひゅうと音をたてて、赤い血がしぶく。
百鬼は骨喰藤四郎に左目を貫かれた状態で、立っている。
骨喰藤四郎には、切断された百妃の左手がぶらさがっていた。
百鬼は、笑っている。
魔物か、悪魔の浮かべるような邪悪な笑い。
再度ワイヤーソウが舞い、骨喰藤四郎の刀身を百鬼の頭の中に残したまま、百妃の左手が地面に落ちる。
どうやったのかはよく判らないが、 目の前の老人は百妃の呪を使って自分の脳内にあるナノマシンだけを殺したようだ。
マキーナ・トロープの身体を持ったまま、百鬼はRBによるマインドコントロールを脱したようである。
信じがたい、化け物であった。
今や何者にも支配されない純然たる怪物となった百鬼は、隠形の術を使い気配を急速に消していく。
霧の中に、老人の姿が溶け込んでいった。
百妃は、老人の姿をもつその怪物が自由になるために利用されたらしい。
百妃は、膝をつきあたりを見回す。
彼女は、いつのまにか灰色の巨大な狼たちにとりかこまれていた。
マキーナ・トロープたちである。
灰色の霧の中で、狼たちの影がゆらめいていた。
蠱毒の呪を宿した左手を失い、血を流し続けている百妃にはもうなんの力も残っていない。
ユキカゼを繋ぎ止める呪も残ってなかったため、魔神も姿を消している。
骨喰藤四郎も切断され、役にたつとは思えない。
20体をこえるマキーナ・トロープに囲まれた百妃は、もう死ぬことしかできなかった。




