女神と遭遇1
その日はいつも変わらない平凡な日常だった。西江 神谷は4限目の講義を終え、真っすぐに道場へと向かっていた。秋の選抜大会が近づいていることもあり、3限目までしか講義の入っていない同期の二人と先輩方はすでに自主練を初めている頃だろう。
神谷は一年にして後期最大の選抜大会の団体戦7人のレギュラーの1人に選ばれた。普段の大会は5人制となっており、そのため5人のレギュラーを正レギュラーとし、7人制の選手のうち残りの二人は準レギュラーとして扱われている。今の神谷の立ち位置は残念ながら準レギュラーであるが、この大会で結果を残せれば冬の大会、現4年の先輩方がいる間に正レギュラーになるれる可能性もある。そのこともあり神谷は最近では本来の練習開始時間より早く道場に向かうことが多くなっていた。
さて、今日は誰が来てるかな?主将や南雲先輩に鷺浦は来ていそうだな。
道場の前で、中にいるであろう人を思い浮かべながら扉を開く。
その日は平凡な日常だった。
いつも通りのなんら変わらない日常だった。
それもこの扉を開けるまでの話であった。
この日、彼らの日常は失われた。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
扉の向こうにはすでに見慣れた同期が2人に2年生が1人、3年生が6人、4年生が3人いた。しかし、その場にいるべき人たちを見たことにより西江はより大きな混乱に襲われることになる。
視線を周囲に向ければ、そこには道場の木板の壁も、無駄に高い天井も、足元の畳も何もかもがなくなっており、代わりに青い空間が広がっている。辺り一面の青。いや青というよりは蒼。見たこともない程の美しい蒼色の空間がどこまでも広がっていた。
一瞬、自分が道場ではなくどこか別の場所に来てしまったのではないかと疑い、混乱する思考を抑えようとするが、目の前にいる部員たちにより、先ほど開いた扉が道場のものであると訴える。
(なんだここは?オレは間違いなく道場の扉を開けた。それは鷺浦たちがいることから間違いないはずだ。道場に入ったのは間違いない、ならここはいったいどこなんだ!?)
混乱している西江の心情を察しない、のんびりとした声をかけられる。
「凄いなニシ。俺たちは全員かなりみっともなく取り乱したのに冷静なもんだ。」
気の抜けたように聞こえる声に若干の苛立ちを感じながらも、先ほどより少し落ち着いて、声をかけた人物に目を向ける。
「ケンドウ先輩ほどじゃないと思いますけど?落ち着き過ぎてませんか先輩。」
西江の言葉通り、周りは硬い表情を浮かべている中、一人いつも道理のにやけた笑顔を浮かべた男が座っていた。
「俺は一番早くこのおかしな空間に来ていたからな。その分落ち着くための時間があっただけだよ」
おかしな空間、先輩たちはこの状況を把握している? 自分を安心させたいからか、希望的な観測が口からでる。
「先輩たちはここがどこなのか知っているんですか?」
「ああ、悪いなニシ。俺も、俺たちにもここがどこで、何なのかはわかっていないんだ。悪いな。」
心のどこかで予想は出来ていたのだろう、否定の言葉を聞かされても落胆は少なくすんだ。
顔を下げる西江に別の男から声がかけられる。
「言葉が足らなくてすまないなニシ。確かに現状はここがどこか、これからどうすれば良いのか分かっていないが、手掛かりがないわけではないんだ」
隣に座るケンドウをひとにらみし、巌のような顔をした体格の良い男が、西江に向き直る。
「メギジマ主将」
主将と呼ばれた男はゆっくりと頷き、わかっている範囲の現状を話だした。主将の話だと、ここにいる全員が道場の扉を開き、いつの間にかこの空間にいたらしく、ケンドウ先輩が調べた範囲だと1km程走っても壁も人工物もなくひたすら目の前の空間が広がっているらしい。
「それとやはり携帯の電波は入らない、それと腕時計は動いていて時間は確認することができた。今は7日の17時40分だ」
電波は入らないか・・・・・・地下にでも閉じ込められた?けど1kmも動いて壁もないような広い場所があるのか?それに腕時計が示している日付と時間は確かにオレが道場に入ってきた時間と一致する。いや時計なんて弄ればいくらでも誤魔化しがきく、あてにするのは危険か?
「そういえば先ほど、手掛かりあると言っておりましましたがそれはいったい」
「それなんだがニシ。信じられないとは思うんだが落ち着いて聞いてくれ」
「は、はい!」
念を押す言葉に身構える。しかし、その程度の心の準備ではまるで足りなかったことを思い知らされる。本日最大級の爆弾が落とされた。
「お前にはこれから女神さまに会ってもらう」
・・・・・・はい?
言葉の意味は理解できるのに、何を言いたいのかは、まるで理解できない。メガミってあの女神なのか?女神以外の単語は自分が知る限りはないはずだからメギジマ主将の言うメガミは女神で間違いないだろう。だけどそれはそれでおかしいだろ!? 女神ってなんだよ。
もしやこれは主将なりの場を和ませる為の冗談なのかと、マジマジと主将の顔を窺う。しかしその表情には冗談の様子はなく、いつも以上に真剣な眼を向けられていた。
「ニシ。信じられないのは俺も同じなんだが、どうか真剣に受け止めて欲しい」
その言葉に、姿勢を正し、気を引き締め、話しを聞く準備が整ったことを示してみせる。それを見て、主将は頷き話し始める。
「オレも実際に聞いたわけではないのだが、ケンドウがこの空間に入った直後に声を聞いたらしい。その内容は・・・・・・・」
「道化よ、暫し待っているがよい。12人の人間が揃った時に、ここに呼び出した目的を聞かせてやろう。光栄に思うがよい、女神たる余が直々に話してやるのだからな」
主将の言葉に被せるように話の続きをケンドウ先輩がしゃべる。話を途中で奪われたメギシマ主将にクマをも殺しそうな視線お向けられているが、気にした様子もなく話を続けてしまう。
「今のが、オレがここに来た直後に聞こえた声の内容だな。声が聞こえた直後に辺りを見回したが、影も形も無くてな、姿はオレも見ていないんだが、声が聞こえたのは事実だよ」
困ったような笑みを浮かべ飄々としているが、その目は真剣にこちらの何かを窺うように
向けられている。
「この話から判断できるのは、誰かが俺たちを意図して呼んだこと。無理やり呼び出した目的を話す気があること。そして――」
「12人の人間が集まったときに女神が現れる?」
改めて、この空間にいる自分以外の人達に目をやる。先ほどから会話をしている4年生の二人に同じく四年のクロダ先輩。三年のナグモ先輩、ミナヅキ先輩、カマタ先輩、イズミ先輩、カンナ先輩。二年のイナバ先輩に同期のサギハラとナガイの11人の人間がいる。
「そう。ただ姿を現すとまでは言ってないけどな。そして、お前が12人目だニシ」
「ああ、だから主将がこれから女神に会ってもらうと言っていたんですね。けど、自分がここに来てから10分位経ちましたけど・・・・」
言葉は続けないが、周りも何を言い淀んだか察しているらしく全員の視線がケンドウ先輩へと向けられている。当の本人は明後日の方を向き、全力で周囲の無言の圧力に気が付かないフリをしているがしかし、目を合わせずともプレッシャーを感じるのか冷や汗が流れ始めている。
「あ~もう。嘘なんかついてないって! 本当なんだよ!? だいたい悪いのはオレじゃなくて出てこないクソ女神のせ―ッア!?」
突如、空間に一筋の稲妻が落ち、ケンドウに直撃する。落雷した衝撃により、1mほど後ろに吹き飛ばされたケンドウを、ナグモ、ミナヅキの二人が受け止めようとするが、余程勢いがあったのか受け止めきれず、3人とも倒れてしまう。
何が起きたのか理解できず、呆然としてしまった意識をひどく冷たい声が呼び戻す。
「人間ごときが女神たる余のことを何と呼んだ? その勇気を称え、今ここで八つ裂きにするべきかしら?」
頭上から響いて来る声に反応し、上を見上げる。視線の先に映る姿を目にした瞬間。
― 女神 ―
その姿を目にした瞬間、そんな陳腐な言葉が浮かぶ。陳腐な言葉と分かっているが、その神聖な雰囲気と女性としてのすべての美を体現しているかのような見事なプロポーションと美貌を前にしてそれ以外の言葉が浮かんでこなかった。いや、称賛の言葉はいくらでもあるのだが、この超越した美の前では、どのような言葉を使ってもその美の一欠けらすら表現すことなど出来はしない。だから、ただ女神と、言葉が浮かんだ。
不敬な言葉を口にしたケンドウを見下ろしていた女神は、気絶してしまったのか、ピクリとも動かない様子を見てつまらなそうにため息を漏らし、ケンドウに手を向ける。
「起きよ。神の御前に不敬であろう?」
倒れ伏していたケンドウの体が僅かに発光すると、まるで糸で引き上げたかのように不自然に体が持ち上げっていく。上体が持ち上がり、そのまま足を引きずりながら持ち上げられていき、ついに足が地面から離れ、完全に宙に浮く。持ち上がるというより、吊るし上げられていくケンドウは意識が戻ったのか、辺りを見渡し、自分の状況を確かめ、驚愕に表情が歪む。
完全に空中に浮かべられ、目の前には女神としか思えない存在が自分のことを見下ろしている。気を失う前の状況を思い出したのかケンドウは空中で器用なことに膝をたたみ、頭を下げ、三つ指をつく。
「先ほど、大変不敬な発言をしたことを深く謝罪申し上げます。誠に申し訳ありませんでした」
本当にどうやっているのか謎だが、ケンドウは見事な土下座を空中でしながら謝罪を述べる。その様子を眺める女神の眼にはなんの感情も読み取ることはできず、周囲の人たちは固唾を飲んで見守ることしか出来ない。
「・・・・・・この状況で随分と理解が早いわね?あなただけは声で私が誰かわかるとはいえ、なかなか頭が回るみたいね?」
先ほどより幾分冷たさが取れた声と目が、興味深そうにケンドウを眺める。その様子から怒りが少しは和らいだのか窺うように返答する。
「あ、ありがとうございます?」
「まあいいでしょう。先ほどの不敬は不問にします。今消してしまっては楽しみが減ってしまいますし・・・・・」
言葉を切り、今だ土下座をし続けているケンドウの頭に手をかざす。すると口元が笑みの形に歪み今度は本当に楽しんでいることが察せられる声が発せられる。
「貴方はまるで何色にもなる白のような人格なのですね?流石にこれは初めて見ました。そんな貴方に、これを与えましょう」
顔を上げるケンドウの前にいつの間に現れたのか白い紙が浮かんでいた。視線で受け取っても良いのか伺いをたてて、恐る恐る紙に手を伸ばす。その手が紙を掴むのを見届けると、女神はかざしていた手を握りこむ。
「あっちの世界で貴方がどんな色に染まるのか楽しみにしていますよ・・・・・・道化?」
― ア゛!? ―
碧い光がケンドウを包みこみ、そして一瞬でその姿を消してしまった。
「なっ!!?」
周囲を素早く見渡すがケンドウの姿はない。そんなわけがないと再度辺り一帯を見渡すが、やはりその姿を見つけることができなかった。




