表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/24

神の御許に

 馬に揺られながら差し出した夜光石の杯に、新人が酒嚢の菫酒を注ぐ。北方の短い春を寿ぐ雪割菫の香りを吸い込んで、神官は天を仰いだ。元に居た地よりも、星座がずっと高みにあるように見える。

 随分と遠くまで来てしまった。俯いた獅子の星座と、ほろ苦い違和感とを肴に、神官は杯を呷った。


 春の柔い夜風が頬を撫でて過ぎて行く。


 同行の仲間達の話題は、専ら黒馬の捜索の件である。数日前に来た情報提供依頼の回状には、桁の記入違いかと疑うほどの法外な報酬が書かれていた。国境に陣を張る北守将軍の愛馬が逃げたらしい。

 一流の軍馬でも逃げ出す事があるのか。神官は妙な所に感心した。なかなか愉快な馬ではないか。


 「私などは、貴方が見つけると踏んでいるんですがねえ。なにせ神のお気に入りだし!」

 同僚の一人が白髪混じりの頭を傾げて神官を覗き込んだ。もう一人の同僚と見習いの新人……各々の乗馬の轡を引く従者までもが、神妙に首肯する。

 「遠慮しますよ!」

 「欲が無いですなあ!」

 主に後半部分の切実な否定だったが、そうとは取られなかったようだ。同僚達は好ましげに笑っていた。

 他愛のない話を続けながら道を進む。


 岩山を削った厩舎に着いた頃には、神官達はほろ酔いの(てい)だった。

 下馬し、従者に馬を預けた。ここから先は徒歩である。馬は狂う事があるのだ。

 荷を分け合って背負い、灯火を持った新人を連れて歩き出す。従者達は地の砂に跪き、粛々と礼を執って見送った。四日ごとの神湖への奉納だと思っているのだ。ある意味合っていなくもないが、知らぬが花であった。


 まだそう深くはないが既に砂漠に入っていた。穏やかな夜で良かった、と神官は杯を重ねつつ考える。砂塵の不快さは、北方に来て最初に学んだことだった。

 新人に灯火を持たせて、先頭を行く神官の補助をさせているので、酒嚢は白髪混じりの賑やかな同僚が担当していた。しかし景気良く注ぎ回ったせいで早くも(から)になったらしい。酒嚢を振って溜息をついている。頻繁に飲まされて、一行は皆すっかり酔っていた。

 しかし、これが正しい配分だった。当番の時のみ許される酒精の強い逸品は、暖を取る為でもあるが、往路で酔う事にこそ意義がある。

 素面では難しい作業が待っているのだ。

 新人が大きく口を動かした。極力考えないようにしていたが、喚いても叫んでも聞こえないほど神湖に近付いている。神官は手振りで新人を黙らせ、先を急いだ。


 北の黒き湖は、満天の星や、金色の半月の明など物ともせずに、夜半(よわ)の底にわだかまっていた。


 それは厳密には湖ではない。か(ぐろ)い砂の大渦である。

 ゆっくりと螺旋を描いて中心に下って行く黒砂は、生物の正気を掻き毟るような軋みを上げていた。無数の蛇がうねり進むような黒砂の動きにつれて、辺り一帯の空間が歪み、捻れ、――堪え切れずに末期を叫ぶ。


 耳を押さえて新人が何か喚いた。しかし何を言ったのかは分からないし、耳を塞いだ程度で凌げるものでもない。神官は素早く新人から灯火を奪い、腕を引いて歩かせた。

 轟音はもはや振動そのものであった。肌を揺さぶって侵食し、骨を削り、脳を捩じ切ろうとする。

 神官達は小走りになった。目当ての岩窟に入ってしまえば僅かながら楽になるのだ。轟音に関しては。


 槍先のように鋭く尖った岩山が一行を迎えた。夜天を突くその威容に目を遣る余裕は誰も持たない。慌ただしく入り口の偽装を抜け、岩窟の中に駆け込んだ。通路を右に折れる。

 そこは簡素な小部屋になっていた。分厚い岩盤に囲まれて、神官達は、ほっと息をついた。


 「あ、あの! 申し訳ありません! お手数をお掛けしました!」

 すこし大声を出せば会話出来るほどに音は和らいでいる。掴んだままだった新人の腕を放して、神官は笑顔を向けた。

 「謝罪は要らない! 作業はこれからだ。気をしっかり持てよ!」

 「はい!」

 新人は上位者に対する礼を執ると、周りに倣って第二礼装の外套を脱ぎ始めた。

 小部屋には卓も椅子も無い。衣桁が幾つかあるのみで、神官一行の四人が作業着に着替えるとなると手狭に感じる広さであった。

 「ほら、行くぞ!」

 年若い新人の緊張に強張った顔を見かねて、神官は再び腕を引いてやることにした。

 (はた)からは親切に見えるだろうが、これは微塵も親切ではない。神官は自嘲した。今の時点でこの調子なら、彼は今回は仕事にならないだろう。取り敢えず一度打ちのめす為だけに連れて行くようなものだ。

 小部屋を出て、通路を進む。今度は一番年配の白髪混じりの同僚が先頭に立った。この先は、少し長い。


 四大神湖がどこも過酷なのは耳にしていた。各々の内情を知る高位の神官にとって、神湖は畏敬と恐怖の対象だが、北は格別だろう。偽装の多い内部通路に戸惑う新人の腕を引っ張りながら、神官は考えた。ここまで惨いとは思っていなかった。

 神官は三ヶ月ほど前に西白湖から異動して北黒湖に来た。巫女を孕ませたが故の懲罰異動だった。元より添い遂げられない事は覚悟していたので、それは構わなかったが、自身の位階もそのままに別の神湖に移されたのには驚いた。神官としての位も所属神殿も、降格は免れないと思っていたのだ。

 だが実際に勤めてみて理解した。これは懲罰になり得る。


 入り組んだ通路と、仕掛に隠された道を幾度も昇降して、一行は岩窟で最も重要な場所を閉じる扉に到着した。

 扉は揺らめく水色の光を一面に帯びた湖曜石で造られ、北の大神殿の紋章が彫られた荘厳な物であった。正神官以外は触れるのも憚りありとされる神聖な石だ。この大きさはなかなか無い。晴れた早春の水面(みなも)の清冽をそのまま切り取ったかのような光輝に、新人が早くも尻込みしかけている。三つの鉄錠が外され扉が開かれるのを眺めながら、神官は溜息をついた。


 (にわか)に神湖の唸りが大きくなる。それを裂こうと抗うような女達の叫び声。湿った暖気。かすかな異臭。

 再び、――新人の腕を容赦無く引いて中に連れ込み、扉は内側から閉じられた。


 天井の高い広間であった。人の背丈の数倍の高さに開いている三つの窓から、月光と神湖の音響が降り注ぎ、広間の底を流れている。家具のほとんど無い徒広い空間に、女達が蠢くのが朧気に見えた。


 神官達は身振りで役割を分担し、素早く行動した。新人は動けないようなので取り敢えず置いておく。

 同僚が広間の四隅の燭台に火を移している間に、神官は棚の扉の錠を開け、掃除用具を取り出した。そばの水栓を全開にし、手桶に温水を溜めていく。

 段々と明るくなる広間の様子を横目で眺めながら、神官は再度溜息をついた。


 巫女に手を出すという罪は西ではさほど珍しい事ではなかったが、北では有り得ない所業のようで、同僚達に知られた時は巨大な八足便所虫でも踏んだかのように身を引かれたものだ。神官は不思議に思ったが、初めてこの巫女の間を見た瞬間に納得した。

 誤解だ、とその後は声を大にして弁解に奔走した。西の巫女は、顎を外したまま白目を剥いて哄笑したり、涎と糞尿を垂れ流して走り回ったりしない。所作はきちんと躾けられていたし、良い香りがしたし、正気だった。


 三つ目の手桶を満たしていると、白髪混じりの同僚が小走りで傍にやって来た。力一杯に叫ばないと肉声は聞こえないので、手振りで会話する。手話は北の大神殿に属する者の必須技能だ。


 『巫女が一人足りません』

 神官が暫時言葉を失っていると、年の近いもう一人の同僚も駆け寄って来た。同じ要件だった。

 『まさか逃げたの?信じられない』

 『そんな筈はない。外錠は掛かっていたぞ』

 『じゃあ誰かが逃したの? 何の為に?』

 『この間見学に来たどこかのお嬢さんが、神湖の近くに住んで祈りを捧げなきゃならん巫女は可哀想、とか気楽な事を言って泣いてたじゃないか。祈りどころじゃないんだがな。それじゃないのか? 人を雇って探させた、とか。脳天気な貴族の小娘ならやりかねん。清掃作業をこんな夜中にこそこそやるのも、昔何度か後をつけられたからだって聞くじゃないか』

 『まさか。慣れない人間は近付くのも難しいよ。ここ迄の通路も長いし。それに、ここの様子を哀れんだのなら普通全員逃がすと思う。……やっぱり逃げたんじゃないかな。何かの拍子に正気に返った、とか』

 『それこそまさか、だ。巫女の発狂が解けるなんて聞いたことがない。佯狂ならまだしも……居なくなった巫女はちゃんと狂っていたぞ。一月(ひとつき)近く居るはずの奴だ。それに何処から逃げるんだ?』

 『でも現に居ないじゃない! 大変な事になるよ。すぐに戻って報告しないと……』


 興奮してきたのか同僚達の手話が大振りになっていく。殴られないように躱しながら、神官はその会話を押さえた。

 『取り敢えず一通り探してからにしましょう。巫女の間にたしかに居ないことを確認した方がいい。その後は通常の作業を済ませる事を提案します。いつ居なくなったのかは分かりませんんが、今更多少急いだところで状況が良くなるとも思えませんし、食料を補充しないと他の巫女達が飢えてしまう。……もし、すぐに報告しなかった事が問題になるようなら、自分が対処しますから』

 北の大神殿に来て日が浅いので普段は大人しくしているが、神殿内の位階は彼がこの一行の中で最も高い。気は乗らないが指示を出す事にした。

 『幸い巫女はあと五人残っているので、「姉の慈悲」の二の舞いにはなりません。落ち着いて行動しましょう。まずは捜索を。床の金網に注意して下さい。破れた箇所から下に落ちたのかもしれない。あとは、岩の窪み、棚の隙間などを遺留品も含めて……』

 神官は手話を止めた。人の肩ほどの高さに据え付けられた食料棚の一つに、黒い布の塊が詰まっており、端から金茶の糸が垂れている。苦笑しつつそれを指すと、白髪混じりの同僚が弾かれたように駆け出した。


 揺さぶり起こされた巫女は、驚いたのか勢い良く食料棚から落下した。金茶の髪を乱して、ひょいひょいと跳ね回り、逃げ惑う羽虫のように壁に何度かぶつかって、床に転がる。仰向けで両足を天井に突き出した格好のまま静止した。奇声を上げて笑う。

 神官達は苦笑を交わし合い、作業に戻った。


 広間には音が満ちている。狂女達の喚声。高所の採光窓や、その他の岩隙から入る神湖の低い軋り。相乗し、膨張し、幾重にも反響して、聞く者の脳を痺れさせる。それでも外よりはずっと楽だと神官は思うのだが、同僚達に言わせると大した違いは無いらしい。これはこれで非常に辛く、吐きそうになるという。

 それを紛らす為の菫酒の芳しい酩酊も、先程の一幕の驚きで醒めてしまっていた。同僚達の顔色が悪い。そういえば新人は大丈夫か……入口付近に目をやった神官は、惨状に慌てて駆け寄った。


 先程の巫女が転がった場所が、ちょうど新人が蹲っていた目前であった。巫女には黒い貫頭衣のみを着せているので、天井に突き出した剥き出しの下肢は汚物と月経の血に塗れて酷いことになっている。すぐに目を逸らしてしまい、新人に気付かなかったのだ。初めて巫女の間に入る人間が泣いて吐くのは通過儀礼とは言え、可哀想な事をしてしまった。

 巫女の、狂人特有の吐き気を誘う歪んだ顔面を見ないようにしながら、神官は新人を水栓の下まで引っ張り出した。口を漱がせてやりながら、自分は床掃除を開始する。

 広間の床は、足が抜け落ちない程度に粗い金網張りで、直下には地下河がゆるく流れている。巫女が便所を覚えられないが故の工夫だ。掃除は手早く済んだ。地下河は温水なので暖房代わりにもなっている。

 折角温水なのだから、と酔狂な先達が岩窟のどこかに風呂を設えたらしいが、よほど致命的に汚れない限り、そこで入浴していく猛者はいなかった。神官は場所も知らない。


 床を洗い、壁や棚を洗い、巫女を洗う。彼女等が贄として神湖に放り込まれる迄の維持管理が、この広間の本旨だった。怪我の有無や病気の徴候を検分し、新しい貫頭衣を被せ、――


 ――神よ

 ――みもとに……歌を……


 北の黒き湖は日々拡張する。定期的に巫女を与えなければ、世界をも呑み込むだろう。そして、奉献歌を唄いながら神湖の音で発狂した女だけが、巫女としての効力を持つ。迷信などではない。数多の失敗を糧にした、実績ある事実であった。


 神などという外道にもし対面する機会があるのなら、即座に絞め殺すべきだと神官は心から思う。


 神湖の軋みが広間を揺らし、反響が巡り、また揺れた。憐れな狂女の掠れきった叫びが、次第に音調を揃え始める。

 ――神よ


 ――神よ……御許(みもと)に還り行かん

   我らが歌を聞こし召せ


 それは何時しか奉献歌の四十一番、北の大神殿の巫女のみが歌唱を許された曲へと収束した。


 ――人は御身の口から生まれ

   口より還る身にし有れば

   その御心に添わんが為

   (なれ)(うま)し歌を捧げん


   神よ 御許に還り行かん

   我らが歌を聞こし召せ


   現し世の夜に彷徨(さまよ)い疲れ

   闇に惑い 倒れて何時か

   御胃に安らうその時まで

   汝に美し歌を捧げん


   神よ 御許に還り行かん

   我らが歌を聞こし召せ


 同僚達と新人が向けて来る熱っぽい尊敬の眼差しから、神官は目を逸らした。最初に聞いた時は彼とてその神秘に感心したものだ。しかし後に、狂女達の奇声が歌に揃う奇跡は現神官長が居る時にしか起こらなかった、と周囲に教えられて蒼ざめる事となった。

 お陰で彼は、今のところ次期神官長の最有力候補になってしまっている。神のお気に入りと持て囃される所以であった。

 信仰が同僚の誰より薄い自覚のある神官にとっては、居た堪れない事この上ない。


 なので取り敢えず、顔色の悪さを理由に新人と年の近い同僚とを、元いた小部屋まで下がらせた。伏し拝まんばかりだった新人を追い払い、ほっと安堵の息をつく。

 残った白髪混じりの同僚は、神官の胸中を慮ったのか、苦笑するのみで異議は唱えなかった。


 『聞いたのは二度目ですが……美しいものですな』

 ふらりよろりと広間を彷徨う巫女達を眺めながら、同僚はそう話しかけて来た。狂女の有様もその歌声も、決して優美なものではない。神官は顔をしかめ、素っ気無く応じた。

 『そうでしょうか。美しいとは思えません』

 しかし雪を割って咲く花のような、生命そのものの力を持った歌は、多分ここでしか聞けないだろう。この人間らしい余念の一切を排した叫びを美しいと評するなら、同僚の感想は頷くべきものであるのかも知れない。

 『……そんなに北方神官長の座はお嫌ですかな?』

 『自分は懲罰でとばされて来た不良神官ですよ』

 『過去はどうあれ、巫女が認めていますからなあ』

 『偶然です』

 『それはもう誰も信じないでしょう。今年の大会議で声明が出るんじゃないかと、専らの噂ですよ』


 神官は旗色の悪さに顔を背け、最後の作業である食料と飲料水の補充に精を出すことにした。

 北の大神殿に着任してまだ三ヶ月弱、しかも懲罰異動である彼の次期への指名に反対する勢力は、もちろん存在する。しかし困ったことに、奇跡を体現出来るほどの明確な対抗馬が居ないのだった。


 西で先の無い恋をしていた時は、何時かは破綻するものと恋人共々最初から諦めていた為、引き離される事をやすやすと受け入れてしまった。彼女は無事だろうか、子を産む許しは下りたのか。まさか自分が北でこんな事態になっているとは知るまい。――些か逃避気味に神官は思いを飛ばした。

 所詮ままならぬ人生、これも諦めて受け入れてしまえば良いのだろうか。北の大神殿総員二千人を束ね、大小の支殿五百二十六の頂点に立ち、王侯すら礼を尽くす四大神官長の一人になることを。


 神官はそっと胃をさすった。普段は平気な巫女の間の音響に悪酔いしてしまいそうだった。

 随分と(ほど)けてきたものの、歌はまだ続いている。


 ――神よ 御許に……みもとにみもとに……


 『そう言えば、柱はご覧になりましたか』

 白髪混じりの同僚が作業の合間に聞いてきた。話題を変えてくれた事を感謝しながら、神官は首を振る。

 柱と呼ばれる物は、神湖の湖畔を囲むように幾本か建てられた、夜光石の丈高い碑であった。湖がそこまで拡張する前に巫女を捧げなければならない。その印である。

 柱の位置を過ぎれば拡張速度は倍加し、捧げる巫女は倍では効かなくなる。百年程前の、姉の慈悲、と呼ばれる事件、――巫女になった妹を救出するために、姉が策を弄して全ての巫女を逃してしまった大惨事によって、当時の大神殿と、近傍の街一つと村三つを代償に学ばれた防衛圏であった。


 『新人の手を引いていたので周りはあまり見ていませんでしたが……何かありましたか?』

 『結構ぎりぎりでしたよ。観測官は後十日は大丈夫だと言っていたようですが、()たないでしょうな』

 『そんな……』

 『近頃、妙に早くないですか?』

 「()めて下さい!」

 つい手話を忘れて素で口答えしてしまったが、同僚には通じたようだった。二人は暫し顔を見合わせた。

 『……上には報告しておきましょう』

 『そうですな』


 干した冬蜜柑を並べて補充作業は終了した。手掴みで直接口に入れられる物ばかりなので品目は限られるが、素材は全て最高級品が使われている。せめて味が分かればいい、と疲れた腕を伸ばしながら神官は願った。


 見上げた窓の外はすでに白み始め、薄青い空に名残の月が金色に浮いていた。夜が、明けようとしている。


 掃除用品を仕舞い、施錠すべき所には錠をして、燭台の火をおとす。神官は改めて巫女の間を見回した。先ほど食料棚に嵌っていた巫女が、早速何か食べている。腹が減っていたらしい。

 その棚の上部が不自然に明るいことに神官は気付いた。扉を開けて先に神官を通そうとしていた同僚が振り返る。

 『どうなさいました?』

 『見て下さい、あそこ』

 『おや、岩の亀裂でしょうか。あんな所にありましたかな』

 『記憶に有りませんね。ちょっと見てきます』

 一番古株の同僚といえども、顔色が随分悪くなっていた。動こうとするのを手で制して、神官は自ら足早に食料棚に向かう。


 明るい部分はやはり岩の亀裂だった。食料棚の強度に問題が無いことを確認して、神官は顔の幅ほどの亀裂を覗き込む。外側の方が幅広いらしく、明けていこうとする夜色を眺めることが出来た。

 同時に強くなった神湖の軋りに片耳を押さえたその瞬間。


 青白い風景の遠くを、黒い何かが横切った。


 神官は亀裂から顔を離した。時折、自分から神湖に呑まれに行く者がある。例えそれが人間でも基本的に神殿は関与しなかった。みな発狂していて神湖に呑まれる事ばかりを切望し、どう妨害しても止まらないからだ。

 黒い何かは馬に見えた。筋肉の隆起の美しい軍馬に。四肢を異様に動かし、生物に有るまじき速さで神湖の方角へ向かって行った。もう狂っているのだろう。


 己は何も見なかった。神官は自分に言い聞かせた。一つ頷いて踵を返す。


 北守将軍が戦っている異民族は、この北黒湖が欲しいらしい。四大神湖の全てを領有し、神の唯一の居坐所(いましどころ)と謳われるこの国を、彼等は羨んでいた。

 欲しいのならくれてやる、と言いたいところだが、万事に粗暴な彼等がもし神湖の管理にしくじれば世が滅びかねない。


 扉に戻る途中で、笑いながら床を転がってきた巫女を跳ねて避ける。奉献歌はすでにばらけ、神秘を失った奇声に戻っていた。


 本当に儘ならないものだと神官は歎息する。巫女を救ってやることも、北族に神湖をくれてやることも出来ない。正神官の還俗は決して許されないので、逃げることも出来なかった。幼い頃に神殿に連れて来られてからずっと、自分は壮麗だが出口の無い箱に住んでいるような気がする。どんな位階に登ろうと、箱の中である事に変わりはないのだ。


 だが馬ならば。――艶やかな黒馬は、神官の脳裏でまだ駆けていた。善悪も正邪も跳び越えた。馬は別だ。狂ってまで行きたい所があるのなら、黙って行かせてやればいい。生きながら神湖に擂り潰されたいのだとしても、好きにさせてやれば良いのだ。望む通りに生きればいい。この上なく苦しむかも知れないが、最期は楽になれるのだろう。

 ……多分。神湖の居心地など知りたくもないが。


 『どうでしたか?』

 『棚が落ちることは無さそうですが、塞いだ方が良いでしょうね』

 『ではこれも報告書ですな。仕方がないことですが、今日は面倒だ』

 同僚は疲れた表情で首を振った。黒馬の報酬を期待していた会話を思い出して、神官は少しばかり罪悪感をもった。だがこれ以上、神のお気に入りなどと喧伝されたくはない。

 『全くですね』

 力付けるように白髪混じりの同僚の肩をたたいて、神官は微笑んだ。

 『さあ、帰りましょう。報告書は何か甘いものでも食べながら書きましょうか。王都の砂糖細工を貰ったんですよ。中に濃い糖酒を封じたやつです』


 次期北方神官長の候補に伝手を作っておきたいのか、御用商人や地方貴族から神官は色々と寄進されているのだった。金銭や玉石は断るが、甘味だけは受け取ることで有名になりつつあるのは、本人の知らぬ所である。

 『それは良いですな』

 白髪混じりの同僚は顔を綻ばせた。和やかに二人は扉をくぐる。

 湖曜石の煌めきと三つの鉄錠と共に、その夜の出来事は閉じられた。






評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ