悔恨
【閲覧注意】直接的な表現はありませんが、血に弱い繊細な方は回れ右して別のお話を読んで下さいね。
八百屋の奥にその絵はあった。
あの山の絵が。
中腹に山小屋の明かりが一つ描かれていた。
男は手にした甘蕪を投げつけた。
明かりの中に誰か居たからだ。
それは、あってはならない事だった。
背を逆走る違和感に総毛立ち、息をつめた。
脳が軋む。
八百屋の怒声が聞こえたが構う余裕は無い。
割れた蕪の匂いを振り切って、男はぎこちなく駆け出した。
確かめなくてはならなかった。
あの山小屋には誰も居ないのだ。
居るはずがない。
それ以前に山小屋があってはならない。
男はやがて山道を登っていた。
どんなに足が重くても止まるつもりはなかった。
楽になる資格などあるものか。
山中は暗闇だった。
木々のざわめきは人々の喧騒に似ていて、
独りでいる気にはならなかった。
板か壁のような何かに打ち当たり、跳ね返って転がったが、
あたりは闇であるばかり。
よく分からなかった。
何も考えずに起き上がり、再び走り出した。
痛みはすぐに忘れた。
かすかに妹の声を聞いた気がした。
そうだ、妹だ。
なりは小さいが、やたらと態度の大きな妹。
可愛くなかった。
肺病だった。
気の強い子猫のようだったが、血を吐くごとに細く萎れていった。
ただ一人の肉親だった。
男の親友を消せば特効薬をくれてやる、
と薬売りは嘯いた。
体臭がきつく、そばに寄ると何とも苦い気持ちになったものだ。
心根も腐っていた。
というより、あの腐臭は内面から来るのだろう。
本人は薬草の匂いだと言っていたが。
木にぶつかった。
人が怒っているかのように葉音が鳴る。
だんだんと伝播し、
辺りは耐え難いざわめきの棘に包囲された。
音を両手で掻き分けて、
それでも走った。
友は大柄で頼りがいのある、さっぱりとした気性の猟師だった。
男は友を大切にしていたし、
友も男をとても気遣ってくれた。
一緒に遊び、祭りで踊り、狩りをし、妹の看病をした。
唯一無二の友だった。
薬売りの言葉を一蹴出来ないことに驚いた。
さんざん迷い、
迷っている自分を嫌悪した。
決められなかった。
多分今この瞬間でも決められない。
ただ、希少な薬のあては他に無く、
妹は平らに干からびて死んでいこうとしていた。
夜の狩りと偽って友を山小屋に呼ぶのは、痛いほどに簡単だった。
頭部を狙えば一撃だとは分かっていたが、
どうしても出来なかった。
正面から顔を見る度胸もなかった。
背後から心臓を狙った。
手間取っても、反撃されても構わなかった。
友の背に何度も手斧を振り下ろした。
あの夜はそうして始まった。
取り返しのつかない夜。
よく覚えている。
あの瞬間の恐慌も、
悲嘆も、
後悔も、
絶望も、
赤く、
赤く染まり、
散り、
まみれ、
泣き叫び、
赤く、
赤く、
赤く、
瓦解して、
そして真っ暗闇になったことも。
その後はどうなった?
大穴が開いたように欠落した記憶に男は震えあがった。
妹は?
薬売りは?
何が起こった?
なぜ何も思い出せない?
男は動転しながらも足は前に進めていた。
暗い山道で足元など見ていないのによく走れるものだ、
と、うっすら己に感心したところで、先が開けた。
そもそもあの絵は何だったのだ。
なぜ八百屋などにあった。
なぜ山小屋に明かりがついている。
誰も知るはずがない。
燃やしたのだ。
少なくとも火は放った。
薪に火を移して、
ばら撒き、
なかなか燃えずにまた泣いて。
――本当に?
目前には、あの山小屋が建っていた。
わけが分からない。
男は駆け寄り、扉に触れる寸前に手を引いた。
山小屋の中に気配がある。
床板を踏む音が近づいて来た。
なぜ明かりがついている?
なぜ生きている?
男は叫びそうになった。
口は開いたが、怯えた喉は声をなさなかった。
木々が一斉に沈黙した。
夜闇が、木も風も空も男も呑み潰す。
もう山小屋すらよく見えなかった。
気配はすぐそこだ。
震える両膝に平衡を失った。
倒れ込み手をついた。
手斧がある。
今度こそ男は叫んだ。
掴んで、振りかぶり、勢いで立ち上がった。
扉が。ぎぃ、と。
また
夜が始まった