手紙
遠来の客の為に設えられたという急な宴は、まだ本館の方で賑やかだった。南方の離島で生まれ育った娘には夢にも思い描けぬ繊細な舞曲が、桃花の薫風にからんで庭園の木々を揺らしている。娘は、思い出すたびに眩暈がしそうなほど豪奢な宴の支度風景を、銀色の笙の旋律に重ねた。
乳白色の石と木材、溢れんばかりの花と、淡紅の磁器で整えられた大広間……あの広間だけでも、娘の島の浮家が十軒は収まるだろう。
館はこの調子で、娘の思考からはみ出るくらいに広かった。これに更に、本館に劣らぬ右翼棟と建て替えたばかりの左翼棟が並び、中庭と裏庭があって、裏庭の池の畔に小ぶりの別邸があるのだ。正式な住人は主人とその甥だけなのに何故こんなに広いのか、娘には全く理解出来なかった。困惑の息をついて千枝樹の幹に背を預ける。
庭園と言っても森のような規模なので、迷い込んでしまうと館の屋根も見えなかった。音曲が無ければ凡その方向すら掴めないだろう。ここが中庭なのか裏庭なのかも、娘には分からない。枝間の夜空を仰いだ。
長い航海を経て此処に売られて半月たつ。もう二度と海に体を沈め、温い波のうねりと遊ぶ機会は無いのかと思うと、痺れるくらいに哀しかった。甘くて馴染まぬ花の香りも哀しい。空を見上げるのは癖になっていた。昼も夜も、――海と同じ色なので。
娘は少し泣いた。玉石のように凪いだ夜空の濃紺は、生家からの眺めと、光る小海老の群れと、家族のことを思い起こさせた。慌てて頭を振って背を幹から離し、ふらふらと歩き出す。家族の顔を思い起こすと、膝が崩れて動けなくなってしまうのは、もう知っていた。
終わりかけの花特有の、あまり爽やかではない香りが、煩く纏わり付いてくる。御仕着せの柔らかい衣の裳裾と一緒に。桃樹はこの家の象徴のような物であるらしく敷地内に万遍なく植えられていて、どこに居ても香るのだった。
頼りない足取りで屋敷があるような気のする方向へ歩きながら、此処を我が家と呼ぶのはどんな気持ちがするのだろう、と娘はふと考えた。あの宴席の幻覚じみた華やぎ……それは本当に眩暈のような考えで、娘には類推すら出来なかった。そしてこの甘い音曲。祖母が語ってくれた雲上の物語よりも、此処の全ては遠かった。
ざわり、と右方で物音がした。考え事を打ち破られた娘は、咄嗟に足を竦めることしか出来ない。獣か、と一瞬怯えたが、すぐに此処が管理の行き届いた庭園である事を思い出した。造園師からして五十人はいる筈だ。その内の一人だろう。娘は微笑し、小走りで樹間を縫った。
細く若い桃樹の下に、背の高い老人が佇んでいた。
娘はぎくりと足を止めた。老人の足元に置かれた、四面に薄紙を貼った細長い箱灯に目を慣らすため、充分に瞬きをする。そして、息を殺した。
手に広げた紙片に見入っている老人の、その横顔に見覚えがあった。後方に撫で付けられた白銀の髪が、彫りの深い賢者めいた顔を縁取っている。館に着いた日に、これだけは忘れるな、と叩き込まれた二枚の肖像画――若い男と、この老人と。この館のたった二人の住人である。
それでも刹那迷ったのは、画からでさえそよ吹いて来た、人を寄せ付けない硬く凛然とした冷風が、この老人からは一条も感じ取れないからだった。一心不乱に老人は紙片に集中している。そのせいかもしれないと娘は漠然と考えた。
折からの風に崩れるように、老人は双膝をついた。そのまま後ろに倒れそうになるのを、細い幹が受け止めて揺らいだ。娘は咄嗟に駆け寄ってしまった。
「……お館様?」
老人はのろのろと顔を上げた。鈍い緑色の虹彩は茫漠と何も映さず、気味の悪いほど虚ろだった。ぎこちなく呻いて、紙片を捧げるような仕草をする。
受け取って良いものか娘は迷い、取り敢えず傍らに同じように膝を折った。幼児の爪ほどの小さな純白の物が、その紙片からはらはらと溢れ落ちた。香付けの為の干した花弁だったが、娘には分からなかった。貴人の華やかな涙のように見えた。
やがて本物の涙が後を追う。娘は目を瞠った。
老人は熱病でも得たかのように四肢を震わせた。
「……ゆるす……許すと、むすめが……姫が……」
その口は哄笑の形に大きく開かれたが、湧き出てきたのはただ涙ばかりだった。下方から明かりに照らされ、その表情は一層凄まじい。掲げられたままの手紙が、嵐のように震えている。
――まるで狂人……いや、
娘は首を傾げた。
――小さな子供みたいに泣く……
突飛な思いつきだった。何故そんな不遜な発想をしたのか分からなかったが、分からぬ自身への疑念よりも安堵の感が大きかった。娘は我知らず微笑んだ。
「それは……ようございましたね」
手を伸べて優しく触れた肩は予想通り温かかった。抱き包んであげたい衝動に駆られて、その激しさを、娘は不思議な気分で味わった。